特集は「40代歌人の魅力」です。もちろん四十代歌人のすべてが魅力的なわけではなく四十代になったから魅力的歌人になれるわけでもありません。ただ四十代から五十代の歌人はかなりきつい位置にいるでしょうね。上と下の世代に挟まれて両方から突きあげられるような世代です。様々な意味で次の歌壇を背負っていかなければならない世代だから当然のことです。その継承に失敗するとけっこう大変なことが起きる。

 

 世代間の感性的・思想的相違はだいたい十年区切りで生じるものです。歌壇では二十代から三十代はニューウェーブ短歌よりもさらにフラットな口語短歌世代です。もちろん伝統的短歌を詠む歌人もたくさんいますがこの世代の特徴を言えばそうなる。口語短歌の実践者がとにかく目立って見えるわけです。今は六十代から八十代のいわゆる文語短歌を守る保守派歌人たちを仮想敵にして論陣を張っているのでまとまっていますが遅くとも四十代になれば間違いなく分裂します。お互いを知り尽くしているのでなおさらその分裂の歪みは大きくなります。そこからが本当の勝負で最初に超えなければならないハードルです。

 

 六十代後半以降のベテラン歌人で口語短歌に諸手を挙げて賛成している作家は少ないですがかといって全否定している作家もいません。質は違いますが彼らは前衛の意味を知っているからです。若い口語歌人は「ぜんぜん違うよ」と言いたいと思いますが将来から振り返れば戦後の前衛短歌も現在の口語短歌も短歌文学の中での〝前衛運動の一つ〟として総括されるようになる。そして戦後の前衛短歌は現代に至ってその優れた影響を短歌文学史に刻んで前衛としての役割を完全に終えた。口語短歌でも同じことが起きます。年長歌人たちの経験値が口語短歌に対する慎重な批判となっていると言っていいでしょうね。

 

 ただそれはかなり恵まれた文学状況なのです。歌壇と同じように俳壇では戦後に前衛俳句運動が吹き荒れました。短歌よりもさらにラディカルな前衛運動でした。しかし俳壇はその記憶をメインストリームからほぼ綺麗さっぱり消し去ってしまった。かつての前衛歌人が重しとなっている歌壇に比べれば俳壇はウルトラ保守と言わざるを得ない面があります。新たな表現を試みたい作家にとって今の俳壇は恐ろしく息苦しいはずです。

 

 比較すれば歌壇は俳壇に比べてずっと風通しがいいわけですがじゃあ俳壇が衰退の一途をたどっているのかと言えばそうとも言えない。なぜか。短歌・俳句にとって前衛はその文学土壌を活性化させるアクセントだからです。極論に聞こえるかもしれませんが短歌・俳句は伝統文学であり本質的に保守です。徒手空拳の前衛(新しい表現)はあり得ないということでもあります。

 

 江戸時代の日本の詩には短歌・俳句・漢詩の三つの文学ジャンルがありました。明治維新を境に漢詩が実質的に日本文学から姿を消したのです。漢詩の代わりに登場してきたのが自由詩です。平安時代からずっと漢詩は日本文学におけるアンテナ文学であり前衛文学の役割をになってきました。中国経由の漢詩文によって日本文化は新たな用語=概念を含む様々な新思想を受容してきたのです。その新たな知の表象として漢詩が位置付けられていました。そのため漢詩(外国語)に堪能なことは平安時代から江戸時代に到るまで〝秀才の条件〟になってきたのです。同じことが御維新以降の自由詩にも言えます。

 

 自由詩が欧米詩の翻訳文学から始まったこと――つまり外国語に堪能な秀才の文学として始まったのは言うまでもありません。中国文化に代わって欧米文化が日本文学を活性化させる外来思想となったことが漢詩から自由詩への変遷だと言うことができます。それは戦後の現代詩の時代まで続きます。文学者の多くは一九五〇年代から七〇年代末の現代詩をとてつもなく頭のいい秀才の文学として捉えていた。ただ現在の現代詩は見る影もありません。

 

 その理由は単純で〝新たな前衛の方向性〟を詩人たちが見いだせないからです。つまり自由詩は短歌・俳句とは異なり〝前衛であり続けること〟をその文学的アイデンティティにしている。今の自由詩はおおむね戦後詩と・現代詩の衰退した持続の中にあります。かつての現代詩人で現在も旺盛に活動しているのは吉増剛造くらいですが残念ながら彼が新たな前衛を切り開く可能性は低く過去の戦後詩や現代詩の創始者たちと比肩する力も持ち得ないでしょうね。

 

 俳壇や自由詩壇それに戦後の前衛短歌の消長を肌身で知っている年長歌人たちが口語短歌に諸手を挙げて賛成しない理由はもう明白ですね。単純化していえば歌壇・俳壇の前衛運動はこれはもうほぼ純粋な〝前衛〟と呼べる自由詩壇の影響を色濃く受けています。現代詩は新しい用語や発想法や作詩法を次々に生み出してゆき歌壇・俳壇はその成果を取り入れていったのです。それは前衛歌人たちが〝歌の外の世界〟を知っていたことを意味します。外の世界を意識せざるを得ないマルチジャンル的文化状況が一九五〇年代から六〇年代にかけて存在したのです。

 

 〝外からの視線〟をもって短歌文学を見ればそれは伝統的保守文学です。口語短歌は歌壇の中では新しい表現であっても歌壇=世界と捉えた狭い視野の前衛運動だと言わざるを得ない面があります。歌壇内と外では口語短歌の受け止め方に大きな温度差があります。その差はどんどん拡がりつつある。最もラディカルな口語短歌はもはや散文の呟きと紙一重で非常に皮肉なことですが〝短歌文学の伝統に対する反発〟という短歌史的認識がなければ文学として成立しないギリギリのところまで来ています。近い将来限界が来ることは目に見えている。ただ新たな試みを無にしない認識的努力がすべての歌人に必要です。

 

チョコレートの箱振りたれば音弱くそんなに旨かったとは愛おしい

ふつふつとコートに雪の降る音に耳ひらかれてゆく君の顔

ここは寒い。だから安心して燃えよう。友よ返事は唇にくれ

(雪舟えま「色気と平和」)

 

白鷺が朱かったならあんなふうに舞い降りるだろう曼珠沙華立つ

まだ青き柿の残れり一部始終黙し尽くしてじっと聴くごと

鬼灯のかすれた夢のなかの(あけ) しずかに交わすべし約束は

(遠藤由季「朱」)

 

楽しくて仕方ないぜという顔は猫より犬に多し 土手道

包丁をかざして喧嘩することもなくなったねと夜の湯に言えり

暁の毛布に入り来し君よりもあと半月は年上である

(永田淳「青いネクタイ」)

 

あかるき雪に足とられつつ無音なる夢のなかにて唇をあく

本を閉ぢたるのちの時間に残りをりあやめもわかぬやみのくらさは

ガラス戸をのぼりなづめる蟷螂を見届けぬまま店に入りたり

(横山未来子 題詠「惑う」)

 

一人が席を立ってふたりになる夜の空いたグラスにひかりが揺れる

紅葉にも盛りのありて過ぎゆくを道ゆく猫は足をとどめず

遠景に清き灯りをひとつ見てつめたき日々の砂利道をゆく

(松村正直 題詠「惑う」)

 

事故渋滞のテールランプの赤 赤 赤そのはるか先で糸魚川も赤

火災も震災もどれも同じに見える画面あなたわたしいずれは同じ遺体

洗面器を一夜で満たす水滴の一滴ごとに何人死ぬ世界

(森井マスミ 「どれも同じ」)

 

 特集掲載の作品を読んでいても四十代歌人はなかなか厳しいですね。後先考えない前衛的手法を使うわけにはいかずかといって枯れてもいない。変な言い方ですが十代二十代ならもうすぐ死ぬかもしれないあるいは歌など止めてしまってもいいんだという気楽な希望を持てますが四十代になるともしかすると自分の人生は八十歳を超えて続くかもしれないし短歌は生の糧でもありもう止められないという予感を持つようになります。つまり先のことを考えて現在の表現を練り上げてゆかなければならなくなる。

 

 ただ現代詩の凋落に典型的に現れているように現代は基本的に保守の時代です。圧倒的先進表現・思想として日本文学を泡立たせてくれた外来思想はもはや期待できないということです。少なくともいわゆる先進国の文化的足並みはほぼ揃った。それぞれの文化圏で足元を見直しそこから新たな表現・思想を作り上げてゆかなければならない時代に入りました。ただだからこそあるジャンルに視線を集中するのではなく〝外からの視線〟をもって自分の表現ジャンルを客体化して捉える必要があります。

 

 短歌俳句自由詩といった詩のジャンルはただでさえ厳しい。一作では足りませんが作品集一冊で十分文学史を変えられる。石川啄木や中原中也や宮澤賢治は数作の作品集で文学史を変えかつマルチジャンル作家でした。そういった残酷にさらされていることも詩人たちは考えなければならない。〝保守的現在〟は特定ジャンルや日本文学の中に閉じることではないのです。

高嶋秋穂

 

 

 

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■