新年号には馬場あき子さんと俵万智さんの対談「新春対談 百人一首のおもしろさ」が掲載されています。司会は日本文学研究者で文芸評論家の島内景二さんです。新年にふさわしい対談ですね。馬場さんと俵さんは歌壇という歌の世界を超えた人気と影響力を持っています。それはなぜなのかを新たな気持ちで考えてみるのもいいかもしれません。

 

島内 歌は一首二首と数えますが、その語源を知らなかったんですけど、この前「発見上手」という雑誌を見ましたら、馬場さんが、俳句は「句」、短歌は「首」、首は申すという意味がある、自首するの首は申すで、短歌は一言申す、七七を加えて自分自身の人間性が出てくると書いておられた。

馬場 勝手に考えたことなんですが、昔らかそう思ってました。万葉集に「まをす」と出てきますでしょ。「かしこみかしこみまをす」というのが「首」ですから、申し上げる。つまり七五調でなくてなぜ五七調から日本の詩歌が始まったか考えてみると、五音というのは古い謡物もお囃子が入りにくいんですよ。(中略)だから五音で抑えておいて七音に行くことによって弾みが出てくるというか、盛り上げってくると言いますかね、(中略)そこから長歌も生まれてきているし、祝詞もそうですね。

島内 その七七で自分の心を申すということで、(中略)「申す」から物語になる。

(「新春対談 百人一首のおもしろさ」馬場あき子×俵万智 司会 島内景二)

 

 「首」には「申し上げる」という意味があるという馬場さんの直観は単純ですが優れたものです。馬場さんは研究者ではなく大学で教鞭をとったこともありませんがその知見は驚異的です。平安文学はもちろん実践者としても能楽に関する膨大な知識を持っておられる。巷間では出自が貴種ということもあり能といえば白州正子さんを思い出す方も多いですが質量ともに馬場さんの著作が遙かに上回っています。

 

 日本語の発生は古典文学から辿るしかありません。しかし『万葉集』から『源氏物語』くらいの三百年ほどは資料が少ない。そのためようやく資料が増え始める鎌倉から室町時代の文献を元に古い時代の日本語の姿を推測してゆくしかないのです。その方法は実証的であると同時に直観的です。鋭い直観を持っていなければ優れた国文学者にはなれない。折口信夫の国文学がミステリアスな雰囲気を持っているのはそのためです。彼は学者であると同時に一種のシャーマンでした。

 

 「五音というのは古い謡物もお囃子が入りにくい」という馬場さんの指摘もその通り。古典詩歌の五音と七音の組み合わせは絶妙です。後白河法皇の『梁塵秘抄』には元々音楽がありましたが七五調です。重くなりにくい。ただ七音はリズムを作るのと同時に意味を止揚するという相反する力を持っています。七五調の繰り返しはノンセンスな歌謡にふさわしいですが五七調だと質が変わってくる。七音がリズムを作るのは同じですがわずか二文字の違いがじょじょに意味に傾いてゆく。長歌の末尾が七七で意味を止揚し物語を完結させるわけです。

 

 短歌を作るだけならこういった考察は不要です。まったく古典文学を知らなくても短歌は書ける。ただ一般読者は歌人に短歌文学のプロフェッショナルであることを求めています。短歌に限りませんが歌壇や俳壇で最も需要のある短歌入門や技法論は歌人以外には訴えかけません。また若い歌人の評論活動はどうしても状況論になりやすいものです。右見て左見て上下を見て自分の立ち位置を確認する必要があるからです。ただそれだけでは続かない。どこかの時点でインサイダーから抜け出さなければ作品でも評論でも読者を獲得できないのです。徒手空拳で新たな表現を生み出せないということをある時点で痛切に認識する必要があります。

 

 (前略)恋の歌が多いということは、やっぱり多くの人の心を捉えたことの要因だと思うんですね。思い、心の動きを捉えたということが時代を超えて読まれた要因だし、私が常々思うことは、恋の題詠って、題を与えられてありもしないことを詠むんじゃなくて、題だからということで大手を振って本当の思いを吐露できる装置なんじゃないかと。

馬場 そうです。

 今のお話だとそれを広げて、本当は卑しい名誉欲だとか、何かいいものがこっち来ないかというのを待ち焦がれている気持ちも、恋だからということで言えちゃいますよね。

(同)

 

 馬場さんによると百人一首で対象のある恋の歌は十六首で題詠または題知らずが二十七首あります。半分近い四十三首が恋の歌なのです。俵万智さんも子供の頃に百人一首を暗記したと回想しておられますがその特徴を的確に捉えています。恋の歌は「本当の思いを吐露できる装置」です。それが時代を経ても人々の心を捉え続ける大きな要因です。そこに撰者である藤原定家の意図がこめられているのは言うまでもありません。

 

 『サラダ記念日』等で知られる俵さんの代表歌は恋歌です。その遠い源は百人一首にあるでしょうね。俵さんの恋歌が誰に向けて発せられたのかを気にする人はいません。それは一種のダルマ歌のように完結している。百人一首は馬場さん的な言い方をすれば百人の歌人たちが一言ずつ決定的な言葉を吐露しているから不滅の古典なのです。完結していない歌は弱い。また『サラダ記念日』は口語短歌の嚆矢と捉えることができますが口語だから人口に膾炙したわけではありません。流れるような調べの方が遙かに重要です。古典中の古典を創作基盤に持っていることが俵さんの歌の強みになっています。

 

できるものからでよければ牛膝(ゐのこづち)いいからあとすこしためらふよ

さきに帰つてくれるだらうかハーネスはおもひなほせば使へます

仰むけつてのはどうもいけないしをり紐をみんなしておりてくる

べつに鴉が花壇にゐてもかまはないがなにかあつたはうがねえ

話しかけられたところで決めるとしようこんにちはとかは返して

(平井弘「ハーネス」)

 

 新春号では恒例の「歌人大競詠」の特集も組まれていますが平井さんの作品はやはり気になります。古典系の短歌ではないのは言うまでもないですがかといって口語短歌でもない。「牛膝(ゐのこづち)」は野原を歩いたりすると実が服にくっつくあのイノコズチだと思いますが何を表現しているのか今ひとつわかりません。「ハーネス」も同様でこれは犬の散歩用に使うものを意味しているのでしょうか。「しをり紐」は本の栞に使う紐のことだと思いますが「みんなしておりてくる」とはどういうことか。

 

 謎だらけの歌なのですが単語の語感を活用した作品であることは確かです。「べつに鴉が花壇にゐてもかまはないがなにかあつたはうがねえ」ということだと思いますがどの歌も明確な意味の焦点を結ばない。それでいて魅力があります。文語体を使っていることも謎をいっそう引き立たせています。口語体で表現すれば間違いなくもっと薄っぺらくなる。つまりこれらの歌は意図的に謎を喚起するように作られている。しかも独自の表現です。

 

 短歌を量産してゆくためには現実に立脚した写生詠が一番です。特に前衛的意志が失われてくるベテランになるにつれてその傾向は強まる。平井さんはベテラン歌人ですが寡作な作家です。つまりプロの歌人ではありますが自分にとって必要な歌しか詠んでこなかった。最近また平井さんの創作が活発になっていますがそれには意味があるでしょうね。ノンセンスとも違うとぼけた歌に作家の表現意欲と意図があるということです。この作家の仕事の意義を見極めるにはもう少し時間がかかりそうです。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 馬場あき子さんの本 ■

 

■ 俵万智さんの本 ■

 

■ 島内景二さんの本 ■

 

■ 平井弘さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■