保坂和志氏は面白い作家だと思う。現在の文学界で、保坂氏のような小説を〝現役〟で書いている作家は少ない。飽くことなく書き続けられる〝元気〟が保坂氏にはあるわけだ。この元気がどこから来るのかと考えれば、保坂文学の秘密の一端がわかるかもしれない。また保坂氏の作品は今の文学の世界では〝浮いている〟。どういう機微で浮いているのかを考えることも、保坂文学を理解する鍵となるかもしれない。

 

 『珈琲のことば――木版画で味わう90人の名言』という本が著者の箕輪(みのわ)邦雄さんから送られてきた、私は箕輪邦雄さんを知っている、読者は誰もこの人を知らない、著者(・ ・)といっても製作者(・ ・ ・)という方がいいかもしれない、奥付は「著者 箕輪邦雄」だ。

 これは変わった本で言葉だけで説明すると大変だ、実物があれば「ほら」とそれを開いてぱらぱらページをめくれば一目でわかる、もっともその一目でわかる(・ ・ ・ ・ ・ ・)一目瞭然(・ ・ ・ ・)というそれがわからない人にはまったくわからない、私はわからない人に、

 「ほら、これ全部、活字じゃないんだよ。

 全部、木版画で字を彫ったんだよ。」

 「『木版画で味わう』って書いてあるもんね、・・・・・・」

 わからない人にはわからない、わたしは嘘をいま言ってるわけじゃない、わかる人には一目瞭然なものがわからない人にはわからない、目の前にあるのにわからない、見えているのに見えない、あるのにないと言う。

(保坂和志「彫られた文字」傍点著者)

 

 箕輪(みのわ)邦雄氏は実在の人物で、『珈琲のことば――木版画で味わう90人の名言』も平凡社から刊行されていて実在する。Amazonで検索すればすぐ出てくる。商品説明には「古今東西のコーヒーを巡る90人のことばが木版画に。読んで楽しい、見て面白い、心休まるコーヒー・テーブル・ブック!」とある。コーヒーを巡る90人の言葉を集めた本は少ないかもしれないが、活字の代わりに木版を使った本はほかにもたくさんある。商品説明を読んで、まったくチンプンカンプンという人は少ないだろう。

 

 しかし保坂氏にとってこの本は、「言葉だけで説明すると大変」なのだ。だから保坂氏は「わからない人にはわかない、わたしは嘘をいま言ってるわけじゃない、わかる人には一目瞭然なものがわからない人にはわからない」の、〝わからない人〟に該当することになる。あえてわからないフリをしているわけではない。恐らく本当にわからないのだ。ただそこに保坂文学の〝要請〟が入り交じっているのも確かだと思う。

 

 「彫られた文字」という作品は、その冒頭を読めばその後の展開がだいたい予測できる。驚かされるような事件は起こらないし、著者の決定的な感覚や思想が表現されることもないと断言できる。それは「。」を打つべきところで「、」が使われていることからもわかる。人によってはダラダラと、別の人によっては著者と読者の愉楽として、いつまでも小説が続くことが願われているのだ。

 

 ただ人間が書いた文字は、まとまった文字数ならなおのこと、無意味に思われようとも必ず何かを伝えている。文学作品ならさらにそうである。保坂氏の作品は、一義的に言えば物語中心の文学に対する反措定だが、それは別に珍しくない。また今より物語全盛だった一九七〇年代くらいまでは、小説のスパイスとして反物語文学はたくさん書かれていた。その意味で保坂文学は意外と古い。ただその古さを現代的にリニューアルして見せるスパイスを当然だが保坂氏は持っている。比喩的に言えば、問題はそれが〝的を射抜いている〟かどうかである。

 

 お金はお金の亡者を作るというが私は信じられない、食欲や性欲ならわかる、これは肉体そのものだ、お金なんて体の外にあるものじゃないか、体の外にあるものがどうしてその人と一体化するのか。名声ならまだわかる、あれは言葉の作用によるものでお金の使い方がまだわかっていない子どもでも褒められればうれしい、得意になる、褒められてうれしいのはきっと生存する本能みたいなものと結びついている、犬も猫も褒められると得意になる、しかしお金はだいぶあとだ。(中略)

 「大便もお金もどっちも黄金色なんです。」

 とSさんは言った、私は大便を黄金色とも金色とも思ったことはない、大便は黄土色だ。(中略)

「ナニ言ってるのよ、お金が黄金色だっていうのは比喩じゃない。金貨じゃあるまいし、黄金色したお金なんて存在しないんだからフロイトはやっぱりこじつけなのよ。」(中略)

 私がSさんとの電話のこのくだりで違和感を感じたのは大便が黄金色ではないことでなく、お金が黄金色ではないところだったのだ。しかし妻は私にとってどういう存在と言えばいいのか、あるいはこれは機能か、あんまりこういうことは突き詰めないで放っておいた方がいいと言ったのは小島信夫だった、(後略)

(同)

 

 保坂氏にはあまり嬉しくない引用だろうが、彼がお金――つまり現世的価値に重きを置かない古典的高踏作家だということがわかる。文学がこの世で最も大事なのだ。またお金について「ウンチ⇄黄金色⇄お金」というフロイトの説が援用されているが、これもまたあまり意味がない。語り手の私は友人の心理学者・Sさんが言った「大便もお金もどっちも黄金色なんです」という言葉に違和感を抱き、それは「大便が黄金色ではないことでなく、お金が黄金色ではないところだったのだ」と気づくが、いくらでもひっくり返すことができる議論である。ひっくり返せないのは妻の存在だ。彼女は私より現世に属している。ただそれについては「突き詰めないで放っておいた方がいい」のである。その理由は小島信夫に帰せられる。「彫られた文字」は文学的文学、つまり文学を世界だと認知して疑わない作家による作品だということだ。

 

 保坂氏の小説は、広い意味でのエクリチュール小説である。始まったのは意外に古く、一九六〇年代のフランスのテル・ケルあたりである。現代詩全盛期だったこともあり、その影響はまたたく間に日本でも広がった。それを代表する作家の一人が小島信夫である。『別れる理由』は今ではエクリチュール小説の古典だ。またエクリチュール小説を日本の伝統に結びつけた作家もいる。古井由吉のエッセイイズムである。古井は滔々と途切れることのないエクリチュールを、筋もなく心理描写だけとも言えず、風景が外在化され内在化もされもする日本の日記文学や随筆文学に接続しようとした。蓮実重彦や松浦寿輝らも広義のエクリチュール小説作家だと言える。大局的に言えば保坂氏は小島信夫系のエクリチュール作家だろう。ただそのエクリチュールは小島氏らよりもさらに希薄だ。

 

 これはダメだ、受け手はその場で自分の読み取った文字が正しいかどうか送り手に確かめられる、受け手は自分の読み取りが正しいかどうか確かめられない状況になければならない、受け手はもっとシンプルにそう書いてあるとして読む、あるいはその人はそう読む、だからあの人はこう読む。しかしこれは私が近代人だからだ、近代人の言語観、コミュニケーション観だ、昔の人は手書きの崩した文字でしかも漢字の送りがなはまちまち、漢字の読み方さえ文部省のような機関がないんだから統一されていなかった字、文章を私がいま思うように不確かさのある気持ちで読んだりはしなかった、そこには何か大きな共通了解があった。

(同)

 

 江戸時代の崩し字、もっと遡って平安期の字などを検討しても、保坂氏の言うような「何か大きな共通了解」がなかったのは当然である。もう少し具体的に言うと、基本的には今と同じような意味伝達の道具として昔の人も文字を読んでいた。古文書が時に謎めいて見えるのは、長い時間のうちに往事の読み方のニュアンスが失われたからに過ぎない。だから文字読解に際して昔は今とは違う「何か大きな共通了解」があっただろうというのは保坂氏の個人的願望である。ただそれが抽象レベルにも、小説的形而下の問題としても展開しないのが彼の作品の特徴である。

 

 小説には『珈琲のことば』の著者で実在する箕輪氏との対話や、妻や心理学者のS氏との会話も現れる。しかしそのいずれでも主人公と他者との会話はズレている。半ば意図的なズレで、半ば天然のズレだと言っていい。意図的であるのは保坂氏が小説家として、最初からテーマのない作品をエクリチュールのみの流れとして引き延ばしているからである。天然であるのは作家が大きな欠落を抱えているからである。言葉で表現したいという欲望と、言葉では絶対に何かを表現したくないという欲望が拮抗している。

 

 通常作家は、文学は言葉で表現せざるを得ないから、きっちりと言葉の意味伝達性を使ってそれ以上の何かを表現しようとする。あるいは決定的な感情や思想を表現したくない場合は、高度な修辞的操作で言葉の意味伝達機能を無化するように働きかける。しかし保坂氏はどちらでもない。だだっ子のように中途半端な混乱に安住しようとする。それが可能であり、また保坂氏にとって愉楽でもあるのは、彼が言語感覚に関する資質的な欠落を抱えているからだろう。だから彼はとても健康で元気なのだ。この欠落を愉楽として共有できるかどうかが、保坂文学を最後まで読み通せるかどうかの敷居になると思う。

大篠夏彦

 

 

 

 

■ 保坂和志さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■