%e8%a7%92%e5%b7%9d%e4%bf%b3%e5%8f%a5_no-027_01

 

 

 四月号の歌壇時評・阿波野巧也さんの「『砂丘律』を中心に仕事と日常のことを考えてみた」を読んで馬場あき子さんを筆頭とする長老歌人たちが手こずっているのはこれですかと思ってしまいました。阿波野さんは一九九三年生まれで二十三歳の若手歌人です。阿波野さんが時評で取り上げておられる『砂丘律』は千種創一さんの歌集で二〇一五年に青磁社から刊行されました。千種さんは一九八八年生まれで二十八歳です。お二人とも若手口語短歌歌人だと言っていいでしょうね。

 

舟が寄り添ったときだけ桟橋は橋だから君、いましかないよ

紫陽花の こころにけもの道がありそうでいまだに君をみかける

ぼかしたら油彩のようになる畦を君と歩いたではないですか

(千種創一『砂丘律』より)

 

 これらの歌が歌壇で評価されているのだとしたら若さに免じたかなり好意的なモラトリアムだと言っていいと思います。他ジャンルの詩人にこの作品を読ませれば端的に言語表現レベルが低いと言われるでしょうね。変わった短歌のつもりだろうけど短歌である必要はないよねというのが大半の感想だと思います。

 

 だけど歌人なら頭っから無視はできないわけでもう少し親切に「君」とは誰なのかわからないとかなぜ「いましかない」のかが理解できないと言えば「頭固いナー」と脳ではなく脊椎の条件反射で即座に否定されそうな気配がありますね。しかしそのくらい図太い神経がなければこういった作品を堂々と発表できないと思います。でもやっぱりこれらの短歌は高く評価できません。

 

 阿波野さんは荻原裕幸さんの「ここには、書くことに先行するテーマや方法はない。体験して得た、あるいは、情報や知識として得た、ことばのマテリアルが先ずあり、それを短歌の定型でいかに活かすかを考えるプロセスで、文体や修辞、世界観や私、が、一気に噴き上げて来たのではないか」という『砂丘律』評を引用した上で「かなり的を射た千種評だ。千種の歌の場合、明確な主題意識や方法論よりも、言葉や素材をどう短歌定型の上で料理するかということが先立っているように見える」と書いておられます。こんな難しげな理屈を並べるならもうちょっとそれに見合った作品を批評対象にできないものかなぁと思ってしまいます。牽強付会です。

 

 「テーマや方法はない」のは読めば一目瞭然ですが「体験して得た、あるいは、情報や知識として得た、ことばのマテリアル」や「文体や修辞」はぜんぜん見当たりません。まさか「こころにけもの道」や「ぼかしたら油彩のようになる畦」といったお世辞にも優れた表現とはいえない言い回しが工夫をこらした言葉のマテリアルで「、」とか一字空白などが「文体や修辞」に当たるんじゃないでしょうね。

 

 「言葉や素材をどう短歌定型の上で料理するかということが先立っているように見える」と言っても同じことです。そりゃぁ短歌に限らず文学作品はすべて言葉であり何かの素材です。でもそれらが上手く「料理」されているわけではまったくない。はっきり言えば許容限度を遙かに超えた好意的かつ恣意的な深読みです。

 

 言葉は必ず意味を伝達します。引用の最初の歌「舟が寄り添ったときだけ桟橋は橋だから君、いましかないよ」を例にするとこの作品は前後の文脈を断ち切った会話文の一種としてしか読めません。舟が接岸した時だけ桟橋は渡るための橋となり呼びかけの対象は君しかいないのですから単に今がチャンスだ舟に飛び乗れと言っていることになる。

 

 それがなぜ深読みできるのかといえば何も具体的な事柄が書かれておれず会話(呼びかけ)としても前後の文脈を断ち切った表現だからです。もし文脈や具体的地名や人が描写されていれば歌の意味は限定される。そういった限定がないから多様な読みができるような気がする。しかしこの歌にはどう読んでもごく平凡な散文的意味しかない。またこの作品が短歌なのは作家が「これは短歌だ」と宣言しているからですが読者が「そうだ」と肯ってくれる可能性は半々です。それを前衛と称するのも無理です。

 

 言葉の意味伝達機能を無化するためには高度なテクニックが必要です。歌で特定の意味を表現したくないなら少なくとも現代詩程度の修辞は使いこなさなければなりません。明確な表現を避ければ自由な読解が可能になると言うのは詭弁です。○○○○○と記号で三十一文字を並べても原理的には優れた作品だと強弁できる可能性があるからです。つまり作品評価基準がなくなりすべては評者の恣意になってしまいます。

 

 そもそも詩人は日本人全員が使っている日常言語を使って日常言語以上を表現する創作者です。ただいわゆるメタ言語などこの世には存在しません。日常言語で日常言語以上を表現しようとするから詩人は苦しむ。文語体をベースにした短歌伝統を外して口語体なら新しい表現が可能だといった楽天主義(オプティミズム)があるようですが口語も文語も日常言語なのは言うまでもありません。だから作品は必ず意味から読み解けます。ごく古典的な方法で作品を読み解いた上でそれ以上の文学的価値があると認められた作品だけが評価されるのです。

 

 歌人が志向すべきなのは、〈公〉に作品を取り込まれないようにすることだろう。短歌が〈公〉のもの、すなわち集団の声になったとき、太平洋戦争の際に短歌が戦意高揚として使われてしまったように、プロバカンダ的な志向を帯びてしまう。(中略)私は、仕事を得ても、社会情勢が変わっても、変わらず《私》のための作品を作っていきたい。それが、短歌のためになるはずだ。職業詠も情勢も《私》に引き寄せて詠わない限り脆いものになる。〈私〉の重力場を〈公〉の重力場よりつよく鍛え上げること。短歌の「一人称性(私性)」を利用する者はその意識を持たねばならないだろう。

(阿波野巧也「『砂丘律』を中心に仕事と日常のことを考えてみた」)

 

 口語短歌の登場まで短歌は敷居の高い表現でした。歌を詠むにはある程度の古典知識が必要で近・現代歌人の作品も読んでいなければならないといった約束事のようなものがありました。若い歌人たちがそのような不文律――つまり従来の短歌伝統を一身に担う大文字の歌人=「私」を排除してごく普通のどこにでもいる「私」を表現しようとしているのはよくわかります。極私的な「私」を表現する短歌です。そのシンボルが文語を排した話し言葉の口語の使用だと思います。ただそのためには「私」の対立項として措定されている「公」をもっと厳密に考えなければなりません。

 

 短歌の「公」など社会的「公」のほんの一部分に過ぎません。伝統的教養や文語体技法やいかにも短歌的な表現主題などを排除していっても理想の「私」が表現できるわけではないのです。阿波野さんは「私は、仕事を得ても、社会情勢が変わっても、変わらず《私》のための作品を作っていきたい」と高い志を述べておられます。仕事や社会情勢という公は短歌の公より広大で厳しく残酷なものです。また「《私》のための作品」が独りよがり――作家とその少数の理解者しか理解できない質の作品――であっていいわけではもちろんありません。

 

 阿波野さんの「職業詠も情勢も《私》に引き寄せて詠わない限り脆いものになる」という言葉は「私」が厳しく社会的「公」と対立するものでありかつ公の上位をゆく優れた思想を表現しえる主体と措定されていることを示しています。つまり私的短歌は社会的公と対立しその上位審級にある理想が表現された作品でなければならない。そんな高い理想が千種さんの作品で表現されていると言うのは無理がある。もちろん阿波野さんが千種作品批評でご自身の〝理想〟を述べておられるのはわかります。しかしわたしたちはその理想を解説なしで理解できる短歌として読みたいわけです。

 

 文学史に名前が残っている作家たちは優秀です。同時代に生きていればその多くが私たちよりも優秀だと思います。その彼らが社会的「公」が牙を剥いて「私」を圧迫してくる時代にどうしようもなく苦しんだ。高みの見物的に「太平洋戦争の際に短歌が戦意高揚として使われてしまった」と言うのではダメなのです。なぜそうなったのかを考えなければなりません。

 

 社会的公が牙を剥いて襲いかかってくる時に私たちにできるのは①「死を覚悟して対立すること」②「社会的公に屈すること」③「したたかに生き延びて公が決して理解できない私的な言葉で抵抗すること」の三つくらいしかありません。私的短歌は③に属するのでしょうね。でもどの選択も苦しく厳しいです。公はその気になれば私の退路を断つ――家族や会社組織などを巻き込みあらゆる手段を使って私の自由意志を奪うことができるからです。私的短歌といった抽象的理想を公言するのは簡単ですが衆人環視の厳しい環境でそれを具現化するのは恐ろしく困難です。それは金子光晴らの抵抗を見ればすぐにわかります。公に屈しない私的表現を得たいならあらゆる公の圧力を検討しなければなりません。短歌に即せば穂村弘さんくらいには短歌作品史と思想史を把握して理論武装する必要がある。極私的表現を可能にするには大胆さと小心さと高い知性が必要とされます。抽象理念で実現できるものではない。

 

 口語短歌は間違いなく新たな短歌の可能性を秘めていると思いますがネガティブな面も持っています。一部の口語短歌歌人が従来の短歌伝統を排除しようとする本当の理由は作家の身勝手な自己顕示欲(エゴイズム)を満たすためだと思います。伝統文学であることを無視すれば短歌は短く手軽な表現です。また短歌界は俳壇ほど形式や序列にうるさくありません。短詩だからどうしても解釈が多様にならざるを得ない面もある。それが作家のエゴ発露のために利用されている気配があります。勉強嫌いの子供が無邪気な子供の特権を十分意識した上であえて波紋を呼ぶような発言をして一瞬であろうと皆から注目されたいといった欲望が透けて見える。

 

 ただそれはあくまで口語短歌運動の副産物でありそのうち自然消滅すると思います。歌に一生懸命になればなるほど歌壇に抱いていた過剰な幻想は必ず消えてゆきます。短歌に限りませんが詩の世界では結局は詩への無償の強い愛がなければ活動し続けられないのです。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 千種創一さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■