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 俳句の世界は結社が基本である。結社主宰者――昔ながらの言い方をすると俳句宗匠がいて、その下にピラミッド型に弟子たちがいる。結社は結社誌を持つのが普通なので、その編集人などが高弟ということになる。結社は主宰一代で終わることもあるし、主宰者の子供や親族が世襲したり、編集人が跡を継ぐこともある。同人誌もあるが主宰格の俳人がいる場合がほとんどで、実態は限りなく結社に近い。同人同士が完全に対等ということではなく、できるだけリベラルに行こうよという主宰格俳人の意志表示が同人誌形態ということになる。ただ大規模な結社誌は数百人の結社員を抱えるが、同人誌は多くても数十人規模の集団である。

 

 結社誌も同人誌もやっていることはあまり変わらない。雑誌を出し、句会を開いて相互批評を行う。大結社になるとシティホテルで定期的に総会を開いたり、地方に支部があってそこで句会や講演会、親睦会を開いたりもする。結社員リクルートのためでもある。賞を出している結社・同人誌もある。出版部署を持ち句集を出すこともあるが、既存俳句専門出版社から句集を出版する場合でも、主宰に序文を書いてもらうのが慣例である。同人誌も似たようなもので、尊敬する俳人に句集序文を頼んだり、同人に挟み込みの栞文を書いてもらったりする。やっていることはほぼ同じだが、結社と同人誌では人間の数が違うので、パーティや句会の規模が違ってくる。

 

 句誌は結社と同人誌の数だけあるわけだが、たくさんの商業句誌も刊行されている。「KADOKAWA俳句」「俳句界」「俳句あるふぁ」「俳壇」「俳句四季」「NHK俳句」などである。商業句誌は結社・同人誌の上位にあって、リベラルに俳句界全体を見渡しているということに一応はなる。ただ商業句誌は収入の多くを結社誌の広告と自費出版に依存しているので、大結社(大クライアント)を優遇する傾向はある。一般読者が現存俳人の新刊句集を買うことはまずないので、大結社の主宰格で、所属結社員が本を買ってくれる俳人が商業句誌(商業出版社)でも重宝されるのが現実である。投稿者が本を買ってくれるのを期待できる大新聞の俳句投稿欄選者も同じような理由で優遇される。なお大メディアの選者なども結社内で禅譲されることが多い。俳句で食べていけるほぼ唯一の手段でもある。

 

 また結社誌は主宰が結社員の作品を選ぶ方法を採っている。添削を行うことも多く、結社員は主宰から俳句を学ぶことができるわけである。同人誌は一定ページが各同人に与えられるので好きに書くことができる。どちらの場合も長短がある。結社誌では具体的俳句技術を学びやすいが、俳句が主宰あるいは結社独自の好みに偏りがちである。同人誌の場合は自由な俳句表現ができるが、よほど高度で抽象的な理念で結ばれている集団でない限り、同人誌独自の特徴を対外的にアピールするのは難しい。しかし好みを強制すると結社と変わらなくなってしまうわけだから、実態としては主宰を頂点とする息苦しいピラミッド型集団を嫌う俳人たちが、同人誌という形態を好む傾向も見られる。

 

 結社誌・同人誌には原則として所属俳人の作品しか掲載されないわけだが、商業句誌は――現世的優遇はあるにせよ――俳句界全体から執筆者をチョイスする。ただ現状では商業句誌すべてが俳句初心者の指導・啓蒙を編集方針の中核に据えている。理由は単純でその方が雑誌が売れるからである。俳句界には子育てを終えたり会社を定年退職した人が、毎年大量に新規参入してくる。結社で主宰から直接指導を受けるほかに、自主学習のツールとして商業句誌が必要とされるのだ。つまり俳句には余暇を活用した高尚な趣味という側面が確実にある。俳句人口は一千万人と言われるが、それは大袈裟にせよ五百万人くらいはいるだろう。そのほとんどが趣味で俳句を詠む人たちである。自助努力で切磋琢磨する同人句誌よりも、主宰から俳句を学べる結社に人が集まる理由もここにある。

 

 俳句を好む人には一定の傾向が見られる。真摯に俳句に取り組んでいる俳人でも、きっかけは近親者に勧められたから、結社句会に参加して興味を持ったから、カルチャーセンターに通って本気になったからという人が意外なほど多い。少し語弊があるかもしれないが、五七五に季語という俳句形式になんの疑念も抱かず、それを素直に受け入れることができる人が俳句に向いているようだ。俳句形式に意義を唱える前衛系の俳人たちも同様である。体制内野党、あるいはキリスト教世界のアンチキリストのようなもので、大局的に言えば俳句を愛していてそれに寄与しようとしているのはなんらかわらない。先ず絶対的に俳句ありきなのである。

 

 一般読者にとって俳句は芭蕉、蕪村、子規などに代表される文学である。もちろん現在書かれている俳句も文学に違いないが、俳句は小説や自由詩といった明治維新以降に大きく変容した(あるいは新しいジャンルとして成立した)文学とは質が違う。極論を言えば俳句は本質的に自我意識文学ではない。唯一無二の作家の自我意識によって生み出される文学とは質が違うということである。俳句界が同人誌を含めて実態として結社制度(師弟制度を含む)を取っており、句会を開く座の文学であることがそれをはっきり示している。俳句がその基盤を固めたのは芭蕉の元禄時代で約四百年の歴史を持つ。江戸元禄と現代では社会状況も人間精神も異なるが、基本的に結社と座に支えられた俳句の特徴は元禄時代から変わっていないだろう。時代時代に合わせてその外形が変化してきただけである。

 

 近代以降の自我意識文学ではないということが桑原武夫の俳句「第二芸術」論(昭和二十一年[一九四六年])を生み、戦前・戦中の一億総動員の狂信的国粋主義から醒めた多くの日本人の精神に響いたわけである。ただ言うまでもなく桑原の論は挑発的なものであり、終戦直後の日本人の自我意識自立を促すショック療法の域を出ない。しかし俳句が欧米文学、日本に即せば御一新以降の近代的自我意識文学とは質が違うということをはっきり認識しなければ、「第二芸術」論を本質的に超克するのは難しい。俳句は日本固有の伝統文学だというのは正しいが、その原理を含む存在理由を説明できなければ伝統を笠に着た傲慢な居直りである。俳句は五七五に季語の定型文学であると言っても同じことである。破調でも無季無韻でも行分けでも俳句は成立する。究極的には五七五+季語に集約せざるを得ない俳句定型がなぜ動かしがたいものであるのか解明できなければ、俳句のアイデンティティは理論的に証明できない。

 

 下世話なことを言えば、俳人でなくても現実のいわゆる俳壇は耐え難い。石を投げれば当たるほど、偉い先生方がごっちゃりおられる。創作をしようというのだから、それなりに押しが強く生意気な結社員を束ねなければならないという必要からだろうが、俳人の物言いはとても高圧的に響くことが多い。数にものを言わせた現世的権威、会社組織などとなんらかわらない序列の付け方など、とても文学者の集団がやることとは思えないことが多々ある。しかしそれは、恐らく元禄時代から現在まで似たようなものだったのだと思う。よく俳壇政治ということが言われるが、それは実在している。

 

 俳人なら親身になって世話をしてくれる人情世界であり、社会的肩書きや序列を好む、日本社会の美点と汚点の縮図であるかのような俳壇に必ず巻き込まれる。〝文学は個人の能力によって評価されるリベラルな世界ではないのか〟といった叫びは間違いなく掻き消される。自我意識文学である小説や自由詩の世界でさえ現世的利害関係は抜きがたく入り込んでくるのだ。本質的に自我意識文学ではない俳句界ではなおさらのことである。

 

 こういった俳壇風土は若く意欲に充ちた俳人たちの意欲を萎えさせるだろう。どんなに努力して斬新な作品を書いても、大結社に所属していない限り現実問題として俳壇で注目を浴びるのは難しい(若手の間は結社リクルートの一環として小さな賞をもらえたりする)。句集や評論、エッセイ集が売れるということも期待できない。むしろ活動を続ければ続けるほど持ち出しが多くなる。もちろん優れた作品を書き残せば、それが評価されないほど文学の世界は不公平ではない。しかし恐ろしく時間がかかるだろう。現世的利害関係でメディアも文学賞も動いてしまう俳壇では、同時代の利害関係がすっかり消え去った遠い将来にしか評価を期待できないかもしれない。そのため勢いのあった若手俳人たちは年を取るにつれ棘が抜けてゆく。意欲が萎えるのだと言ってもいい。

 

 俳句界を巡る現状はそう簡単には変えられない。しかし俳壇への不満が絶望にまで達し、創作意欲を削ぐといった事態は避けなければならない。結社所属だろうとインディペンデントを自称する俳人だろうと、俳人はおしなべて俳句文学と自我意識のバランスが取れていないと思う。簡単に言えば俳句は非・自我意識文学だが、それをほとんど唯一の社会的な頼みの綱にして、近・現代的な自我意識を満足させようとするから様々な弊害が起こる。むやみに威張り散らしたり、俳人であることに極端な誇りを持ったり、満たされない自己顕示欲を結社の力で解消しようとしたりするわけである。

 

 俳人は句誌や投稿欄などしか目に入らないだろうが、俳句はどのメディアでもコラムの扱いである。俗な言い方をすれば刺身のツマである。俳句業界以外でメイン・コンテンツになることはまずないと言っていい。もちろん俳句を貶めているわけではない。それはなぜなのかを虚心坦懐に考えるべきだということである。なぜ俳句は屈辱的とも言えるコラム扱いなのに、ほかのコンテンツのように一定期間で消え去ったりしないのか、俳句の歴史の中で数少ないメイン・コンテンツになった作家・作品はどういう質のものであるのかということである。

 

 面白いことに、専門俳人が少し蔑みの目で見るいわゆる文人俳人の方が、精神的には健康であることが多い。距離を持って俳句に対峙することができるからだ。俳人である限り俳壇は無視できないだろうが、俳句に一生懸命になることと自我意識(自己顕示欲)をそこで満たすことは別だと考えなければ、現実俳壇を相対化できないだろう。相対化し大局的に見れば、俳句がどんな質の文学であるのかがわかってくるはずである。それはごく一般の読者の俳句への興味と俳人の興味を近づける方法でもある。既存の俳壇内で努力して一定の地位を得ることも、ポピュラリティのある方法を総動員して一般読書界で支持を得ることも、大変であるのは変わらない。ただ後者の道を選ぶ俳人は圧倒的に少ない。

 

 俳壇制度に従順である俳人も、とんがってインディペンデントを称する俳人も、重箱の隅をつつくような俳壇内感性にとらわれているのは同じである。詩の世界は作家が創作者と批評家を兼ねるのが常識だが、批評を読めばいかに作家が業界内に思考を絡め取られているのかがよくわかる。過激であっても要するに俳壇内でしか通用しない議論が大半である。それでは肝心の作品も変化しない。

 

 既存の俳壇を少しでも変えたいと思うなら、最もドラスティックな方法はそこから一抜けすることである。それにはまず、俳句に対する精神基盤を変えなければならない。既存の俳壇常識にとらわれずに俳句文学の特徴を考えるのはその有効な方法である。一般読書界で通用するのは芭蕉・蕪村・子規論くらいだが、原理を捉えればそれを伸延できる。俳句の魅力をわかりやすく伝えるためには、それを相対化して高い位相から見つめる必要があるからだ。また現実問題として俳人は作品で対価を得るのが難しい。芭蕉の「古池」にしろ子規の「柿食へば」にしろ、優れた俳句は日本語とその精神文化を体現した作品として、一瞬で多くの人に無償で共有される。俳壇内努力以外で多少なりとも対価を得られるのは、俳句相対化によるポピュラリティ獲得以外に道はない。それは創作活動と句集刊行にも寄与するはずである。

 

 もちろん座の文学に代表される俳句の特徴は今後も受け継がれるだろう。そこからも優れた俳人が現れてくるはずである。しかし現在の俳壇は、結社や同人誌という形態があっても、また複数の商業句誌が刊行されてはいるが、その内実はほぼ横並びである。それでは新しい思考は生まれない。金魚屋の句誌時評は現在の俳壇を、良い面、悪しき慣習としか思えない面も含めて総体的かつ客体化して捉える。究極を言えば、芭蕉や蕪村、子規のように俳句の歴史に金字塔を打ち立て、俳句で絶対的に優れた仕事を残したいと望む俳人が出現するのを心から期待するからである。

岡野隆

 

 

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