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 十二月号は比較的若い作家の作品が掲載された充実した号だった。中でも滝口悠生氏の『死んでいない者』と水原涼氏の『日暮れの声』は秀作だと思う。また滝口氏の『死んでいない者』は第一五四回芥川賞を受賞した。しかしこの秀作の意味は微妙だ。難癖をつけていると取られると困るのだが、〝文學界的な文脈では〟とても優れた作品なのだ。

 

 純文学の考え方は様々である。文學界は雑誌であり作家ではないので、はっきり〝純文学とは何か?〟という定義を打ち出したことはない。だからその定義らしいものは文學界掲載作品と、版元の文藝春秋社が実質的に主催している芥川賞受賞作品から推測するほかない。

 

 芥川賞は日本で最も権威ある純文学の新人賞として広く認知されている。その最近の傾向は概ね三つに分類できると思う。一つ目は私小説系の作品である。作家=主人公である私小説とは限らない。人間の内面心理描写中心の小説である。二つ目は前衛小説である。従来の小説形式を壊すような実験作だ。ただこのラインはあまり成功していない。三つ目は話題性重視である。例にするのは申し訳ないが、又吉直樹氏のように小説以外の社会的付加価値を持つ作家が選ばれることがある。近年で一番本が売れたのはこのラインだろう。受賞記者会見での作家の放言や失言も思わぬ話題を呼んで、小説とは関わりのない付加価値的期待を膨らませることがある。

 

 いささか乱暴だが芥川賞は①私小説系、②実験小説系、③話題性系の作品に授与されることが多いわけだが、そのペース配分は絶妙である。③で一般社会の耳目を集め、実際には①と②に多く賞を授与している。一番受賞率が高いのは①の私小説系で、六、七〇パーセントを占めるのではないかと思う。何度も候補になってから受賞することの多い系統でもある。つまり芥川賞は実質的に私小説系作品を〝純文学〟だと対外的に喧伝している。それが芥川賞独自の純文学の基準だと認知されているなら問題ない。しかし純文学に関しては小説文壇全体が芥川賞の基準に倣っている。言いにくいが芥川賞でも受賞して話題にならなければ純文学の本は売れないのである。また文壇のことなど関知しない社会全体も、芥川賞受賞作を純文学作品の規範とする傾向がある。

 

 〝純文学とは何か?〟という問いは、〝文学における最も純なるものはなにか?〟という問いだと言い換えることができる。言うまでもなくその答えは様々だ。実際、純文学は近・現代文学では夏目漱石から森鷗外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、中上健次etc.とその系譜を大まかに辿ることができるが、これを見ても私小説系だけが純文学の系譜でないことは明らかである。しかし芥川賞の私小説=純文学という定義(のようなもの)と異なる定義を、他の小説文芸誌は確立できなかった。別に強制されたわけではないが、芥川賞を目指す小説は似たような作風になりがちである。純文学については文學界と芥川賞の一人勝ち状態が続いているわけだが、それは他の純文学メディアの力不足ということでもある。

 

 この小説文壇の状況は、そう簡単には変わらないだろう。しかし現実問題として歪な側面がある以上、変えようという努力は必要だ。またそれはメディアではなく、本質的には作家が為すべき仕事である。原理を言えば日本文学において私小説はとても重要な小説形態であり、それを純文学に据える芥川賞には意味がある。だがそれを主軸的規範として捉えることも、そこに無防備に取り込まれるのも危険だ。現実は無視できないが、作家は文壇制度を相対化するくらいの知性を働かせなければならない。お仕着せではなく、確信をもって自らの純文学を世に問うことが最も重要である。

 

 押し寄せてきては引き、また押し寄せてくるそれぞれの悲しみも、一日繰り返されていくうち、どれも徐々に小さく、静まっていき、斎場で通夜の準備が進む頃には、その人を故人と呼び、また他人からその人が故人と呼ばれることに、誰も彼も慣れていた。(中略)

 たとえば故人は、あそこで重なった寿司桶の数を数えている吉美(よしみ)の父であり、その横で携帯電話を耳に当て、おそらくまだ実家にいる弟の保雄(やすお)に数珠を持ってきてくれるよう頼んでいる多恵の父でもある。もちろんその電話を受けている保雄や、彼らの兄にあたる喪主春寿の父でもある。故人には五人子がいた。

 また子どもの声が響いた。

 小さい子どもは今年三歳になる秀斗(しゅうと)しかいないからあの声は彼の声だ。吉美の娘の紗重(さえ)の息子、(中略)この日の朝、鎌倉から、紗重と紗重の夫のダニエルとともに車でやってきた秀斗は、実家で故人に対面し、人生ではじめて死んだ人間を見た。(中略)

 参列客に酒を注いでまわっているのは、喪主の春寿をはじめ故人の子供らと、年長の孫たちだった。

 十人いる孫のうち、まだ高校生の知花(ちか)と英太、それから中学生の森夜(しんや)海朝(みあ)、陽子は隅の方に固まって座ってジュースを飲みながら寿司などつまんでいた。(中略)誰が誰の子どもで、誰と誰が兄弟なのか、もはやごく一部の親戚しかわからないし、当人たち同士でさえ年の離れたいとこと伯父伯母との区別がつかない。

(滝口悠生『死んでいない者』)

 

 滝口悠生氏の『死んでいない者』はある老人の死を巡る小説である。彼はごく普通の庶民である。五人の子どもがいて、成人した彼らには十人の子どもたち(孫)がいる。彼ら近親者は老人の死の報せを受けて集まってくる。通夜の一夜を舞台とした小説である。

 

 この小説を読み始めた読者の多くは、まず微かな違和感を感じることだろう。『死んでいない者』には明確な主人公が存在しないからである。ほぼ完全に小説の背後に姿を消した作者が、老人の子どもである春寿や吉美、保雄らの心理を描き、孫の知花や英太、森夜、海朝らの心理を次々に描いてゆく。中心になるのは老人と死を巡る想念であり、その意味で彼はまだ〝死んでいない者〟ということになる。しかし老人の死が欠落となり負の焦点を形作っているわけではない。死んだ老人の想念も近親者の想念の中に現れるからである。つまりこの作品にはいかなる謎も設定されていない。

 

 明確な主人公がいない小説(あるいは次々に主人公=話者が変わる小説)は前衛(実験)的に感じられるかもしれないが、その内面描写は基本的には二十世紀初頭に確立された〝意識の流れ〟の手法の援用である。実際、個々の親族の心理描写はオーソドックスであり現実の枠組みを出ない。老人の秘密が暴露されることはないだろうし、通夜の場で突拍子もないことが起こったりしないだろうこともすぐにわかる。二百十枚の中編小説だが、ストレートに言えば、このプロットのない小説をどこで落とすのかが途中から読書の最大の興味になってゆく。

 

 知花ちゃん、大丈夫?

 それから後ろに体を倒して、知花は水のなかに寝そべった。浅いから、頭と体の下半分が水に浸かっただけだったが、浩輝は、流されるかもしれないと思い、知花の左手を握った。知花も浩輝の手を握り返し、あー、気持ちいー、と間抜けな声をあげて目を閉じた。

 あれ、と陽子がさっきみんなで歩いてきた方を見た。遠くから、長く響く鐘の音が聞こえてきた。

(同)

 

 親に隠れて酒を飲んだ孫たちは、女子高生の知花をリーダーにして深夜の寺に鐘をつきにゆく。亡き祖父の供養のためであり、祖父と同居して秘かに音楽を作ってYouTubeにアップしていた、いわゆる引きこもりの知花の兄にその音を録音させるためだという理由もあるが、子どもらしいイタズラ心だ。しかし酔った知花は道を間違えて川に出てしまう。悪ふざけで酒で火照った体を冷たい川の中に浸していると、寺から鐘の音が聞こえてくる。誰が鐘をついているのかは作品中でほのかに示唆されているが、人物が特定されることもその意図が明らかにされることもない。ただこの鐘の音が響く箇所がこの作品のクライマックスである。わたしたちは〝ああここで落としたか〟と納得する。純文学的な終了のゴングだと言ってもいい。

 

 嫌味ではなく滝口氏の小説はとても丁寧で完成度が高いのである。ただそれは純文学、もっと言えば文學界=芥川賞的な私小説の型にきっちりとはまっている。この作品に対して美辞麗句を贈るならいくらでもある。実験的だが的確な描写、一人の老人を巡るリアリティある人々の心理描写等々である。しかし数ページ読んだだけでプロットがない小説だとネタバレしている小説は、昔風の言い方をすれば〝文体を読む(楽しむ)〟しかない。だがその文体は古色蒼然としている。

 

 当たり前だがこういった純文学小説は書こうと思わなければ書けない。大衆作家を目指す新人が面白いプロットを思いつこうと悪戦苦闘するように、純文学作家は純文学らしい小説を書こうとして書く。ただ〝純文学らしさ〟は無限にあるはずなのに非常に型が目立つ。また今は政治・経済などの領域で、先が見えない未来に向けて生き残りを賭けた熾烈な試行錯誤が行われている時代である。一握りの純文学インサイダーしか古めかしい純文学的文体を楽しむことができないだろう。

 

 芥川賞が権威ある純文学の賞だと社会的に認知され続けている限り、版元はときおり有名人に賞をやったりしながら、自社好みの作品を書く作家に次々に賞を与えることでそのアイデンティティを守ってゆくことができる。しかしもし私小説や前衛系の作品で芥川賞を授与された作家が〝これでいいのだ〟と思ったとしたら、その後、苦労することになると思う。出す本すべてに芥川賞が授与されるわけではないので、当たり前だが賞という付加価値なしで勝負しなければならなくなる。読んでいて決して面白くない小説を、それでも読まなければならないと、作家一人で読者に対して〝動機付け〟しなければならなくなるのだ。それができている純文学作家はほとんどいない。芥川賞という新人賞をもらっても、その後、なぜ作家は読書界で活躍できないのだろうか。実態として最近の純文学作家は芥川賞用の消費物になっている傾向が強い。何かが決定的にズレているような気がしてならない。

大篠夏彦

 

 

 

 

■ 滝口悠生さんの本 ■

死んでいない者 (文春e-book) 愛と人生

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■