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 漫画雑誌の売れ行きが低調だそうだ。ついにそこまで、と思う。その赤字を漫画単行本が支えているという。ちょっと前の文芸誌の状況に近い。大手や中堅の出版社を大手や中堅たらしめているのは漫画雑誌や週刊誌の存在だったわけだが、その構造が揺らぎつつある。しかし逆に言えば、単行本のニーズはあるわけだ。本が売れない、と言われて久しいが、雑誌の方がもっと売れなくなった。

 

 ある業界がつぶれる、というのは完全な代替物が現れたときだ。もしそれに代替されない部分がほんの少しでもあるなら、そこを肥大化して生き残り、また違うかたちで最盛期を迎えるということもあり得る。日本映画も、テレビの前に息も絶えだえだったものが、日常の娯楽という枠組みでないもの、特別感のある映像としての道を模索しつつあり、光明を見い出している。

 

 その底を支え、今となっては日本文化の代表的存在となったのがアニメだったというのは示唆に富む。アニメもゲームも文化の名に値しないと思うのは、かつての文化に育まれた世代だが、ではさてその世代にとっても、現代の旧ジャンルにおいて、かつての傑作に似たものを探す気力があるだろうか。

 

 特別感のあるイベントに、素直に身を寄せられるのはまず子供だ。子供は基本的に時間がある。塾や習い事で忙しいとはいえ、すべて自分を耕すためのものだ。生業や家事の合間に手軽な娯楽を求める必要性は、本当のところない。だから子供文化は、個体発生が系統発生を繰り返すごとく、かつての文化のあり様をなぞる。

 

 三田文学の今号は、力の入った特大号だ。それはかつての文壇ジャーナリズムの雰囲気と、そして文芸誌らしからぬ総花的な様相を併せ持つ。一瞬、終刊号なのかと思ったぐらいだ。大学文芸誌という、教育=子供性を備えた文芸誌として、系統発生を繰り返しながら文芸誌の行く末を示したようでもある。

 

 ただ、それはやはり三田文学なのであり、力がこもっていることは伝わる。その力を込めた方向性がよくわからないだけだ。もちろん、わかる必要はないのかもしれない。現在、あらためて考えれば、文芸誌の方向性などいまだかつて明確に示されたことなどなかった、あったとしても一時の幻だったと思わせる。

 

 だからやっぱり三田文学なのだ、と確認できるところがいいのかもしれない。三田が誇り、愛した車屋長吉の特集ということで、特大号で特集すべき作家としての大きさなんか問わなくても、それはいい。その対談もまた、文芸誌としてはよくわからない内輪の人選であって、それもいい。でもそれなら三田の誇る三田人脈で、いっそ埋め尽くしてはどうだろう。それは美しく、実りの秋の特大号にふさわしい。

 

 偏ってないことを示すことで、三田の人々の評価が一般的なものであることを示す、というのは無論、三田らしいバランス感覚だ。だが、その釣り合わせに付き合わせられる書き手は、自ずからそういうものでしかなくなる。古井由吉に似た小説を書き、吉岡実に似た時を書いていた元東大教授、松浦寿輝のエッセイが巻頭なのも、バランスとりすぎで読者を混乱させるだけだ。

池田浩

 

 

 

 

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