生誕三百年記念 若冲

於・東京都美術館

会期=2016/04/22~05/24

入館料=1300円(一般)

カタログ=3000

 

 

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『動植綵絵 池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)』 絹本着色 一幅 縦一四二・三×横七九・七センチ 明和二年(一七六五年)以前 宮内庁三の丸尚蔵館蔵

 

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『動植綵絵 諸魚図(しょぎょず)』 絹本着色 一幅 縦一四二・六×横七九・四センチ 明和三年(一七六六年)頃 宮内庁三の丸尚蔵館蔵

 

 『動植綵絵』は釈迦三尊像を中心に、左右に十五幅ずつの動植画が並ぶ構成である。それは明らかに密教的曼荼羅の変奏だ。一般的な曼荼羅では大日如来を中心にその周囲に諸仏を配置する。至尊である大日如来を核として、その回りに世界が構成されてゆく密教の教義(世界観)を図像化した仏画である。若冲の『動植綵絵』はそれを援用している。釈迦三尊像を世界生成の源基として、動植物などの世界内存在が生まれてゆく様子を描いた曼荼羅的連作(若冲的世界観)だと言っていい。その最も若冲らしい作品が『池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)』や『諸魚図(しょぎょず)』である。梅花や牡丹、鳳凰や鶴などの吉祥画を描いた絵師は多いが、虫や魚までをこれほど精緻かつ絢爛に描いた画家はいない。

 

 大典は『碣銘』で、若冲には優れた学識などがあるわけではなく、ただ絵を描くことに取り憑かれた人だと述べている。大典は若冲より三歳年下だが、仏道上の師だった。また若冲の画業を詳細に観察して、その道行きを洞察できる優れた知性を持っていた。大典によると若冲は初め狩野派の絵を学び、次いで具象的で色彩鮮やかな中国の宋・元時代の画法を学んだ。模写した画は千点にも及んだのだという。しかし若冲は模写だけでは過去の画家の仕事に及ばないと考えた。彼らが最初は肉眼で見て描いたように、自分も目で見たモノを描こうとした。だが中国や日本の山水画に描かれたような風景は身近になく、孔雀や虎なども実際に見ることは難しい。そこで若冲は庭で鶏を飼ってその模写に励み、やがて身近な鳥や虫をも自在に描けるようになった。

 

 大典は若冲の画風について、「(ことごと)く意匠を()つて(これ)(いだ)し、一毫(いちごう)の踏襲するなし。古人の韻致(いんち)に合わざることも有るが(ごと)しと(いえど)も、(しか)骨力精錬(こつりきせいれん)(たくみ)にして以つて卓然(たくぜん)として名家なるべし」と書いている。若冲作品は先人の画風に合わないところがあるが、彼が創出した技法はまったくのオリジナルであり、その高い完成度は名人と呼んで差し支えない、という意味である。「古人の韻致に合わざることも有るが如しと雖も・・・卓然として名家なるべし」という大典の言葉は若冲に響いたであろう。

 

 若冲は現代人のように、唯一無二の個の自我意識によって新たな絵画を創造しようとした画家ではない。若冲作品に彼個人のエゴは見当たらず、画で仏に奉仕したいというのが若冲の揺るぎない志だった。その最も誠実な方法として若冲は精緻な動植画を生み出し、彼の宗教的世界観に沿ってそれらを曼荼羅のように配置した。同時代に応挙のような王道をゆく絵師がおり、池大雅や与謝蕪村といった南画(中国的山水画)の名手がいることも彼の歩みを容易にしただろう。しかし過去の画に習熟している若冲は、従来とは明らかに異なる自己の画風に不安も抱いていたはずである。売茶翁や大典といった同時代の知識人の賛辞は、精神的にはもちろん、現世評価という意味でも若冲の支えになったと思われる。

 

 ただ若冲の画業を通覧すれば明らかなように、その作品は煌びやかな密教的意匠で統一されているわけではない。しかしそれは、若冲の信仰心に揺らぎがあったことを意味しない。ストレートに言えば、大典は若冲は無学だと言っている。若冲は顕密の教義の違いなど、ほとんど意識することがなかっただろう。若冲の心性は密教的だが、仏道の師である大典は禅者である。若冲の大典への帰依は、全財産を相国寺に寄進するほど深い。その影響はじょじょに後期の若冲作品に表れてゆく。

 

吾子(あこ)(いや)しくも自造(じぞう)(えら)ばば、(いずくん)んぞ(いたず)らに思恭(しきょう)の描く所を描きて得たりと為さんや。()れ真に(いき)する所を知れるか。是を銘と為す。銘に曰く、生や死や、(ごう)()きて土安き者は此れか。(つい)(まさ)()固済(こさい)せんとするや。

大典顕常撰文『若冲居士寿蔵碣銘(こじじゅぞうけつめい)』 原文漢文 読み下し(部分)

 

 大典の『碣銘』の結びだが、その解釈はなかなか難しい。「あなた(若冲)がもし生きながら墓を建てるなら、どうして張思恭(ちょうしきょう)の仏画を模写しただけで、すべての事業を終えたと満足できるのだろうか。それで生きていることの意味を本当に理解したと言えるのか。これを銘(墓碑銘であると同時に若冲のための座右の銘)とする。この銘は生まれて死に、人間の業が尽きて安らかに土の下で眠る者のためのものである。(この銘は)あなたを強く救済するだろう」といった意味だと思う。

 

 若冲は『動植綵絵』の完結をもって、自分の人生の大事業は終わったと考えていた。それは広義の密教的神秘主義宗教家である若冲にとっては自然なことだったろう。若冲は『動植綵絵』の完成が、仏との契りの完結でもあると夢想したのである。早々と、自分の死後に全財産を相国寺に寄進する契約を為したのもそれを裏付けている。

 

 しかし禅は本質的に密教的な極楽浄土を認めない。修行によって悟りの境地を求めはするが、それも永続的なものではない。禅者は人間の欲望渦巻く穢土である現世に留まりながら、それを超脱した悟りの境地に至り、また現世へと舞い戻ってくる。この悟りと現世との往還が禅者にとっての唯一の心の平安の境地である。濁世をありのままに見つめながら、それを超脱した精神的境地を得ようとするのである。

 

 大典の「銘」は、生きながら浄土に至ったかのように錯覚した若冲への〝喝〟のようなものだっただろう。実際、若冲は『動植綵絵』寄進後に現世の荒波に曝されることになる。大火で家を失い、相国寺との永代供養の契約を解除せざるを得なくなった。家督を譲った次弟・宗巌にも、末弟・宗寂にも先立たれてしまった。また若冲の悠々自適の生活を経済的に支えていた錦小路高倉市場が営業停止になり、その再開のために奔走しなければならなかった。若冲の生は現世の無常に試されることになったのである。

 

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果蔬涅槃図(かそねはんず)』 紙本墨画 一幅 縦一八一・七×横九六・一センチ 寛政六年(一七九四年)頃か 京都国立博物館蔵

 

 涅槃図は釈迦入滅を描いた仏画である。通常は釈迦の回りを多くの弟子や動物らが取り巻き、入滅を嘆き悲しんでいる様子が描かれる。『果蔬涅槃図(かそねはんず)』は釈迦を筵の上の大根で表し、弟子たちを野菜として描いた若冲らしい作品である。寛政六年(一七九四年)、若冲七十九歳頃の晩年作だと推定されている。この作品は一般的に、晩年になるにつれて増える若冲による一種の戯画だと考えられている。しかし市井の宗教者とはいえ熱心な仏教徒だった若冲が、戯画として涅槃図を描いたとは考えにくい。ユーモアは感じ取れるが、それはやはり宗教的心性の表れだろう。

 

 密教に比較して禅には笑いが多い。裸眼で徹底して現実の残酷を見つめるから、その絶望を緩和するための諧謔が必要になるのだ。若冲は青物屋の息子である。その広い意味での出自の〝分〟を自らわきまえて彼独自の動植画を創出した。だが極彩色の『動植綵絵』を描いていた頃の若冲には、『果蔬涅槃図』のような作品を描くことは考えられなかっただろう。『碣銘』とはいえ、大典が本質的には生者・若冲のために示した「銘」の意味を、晩年の若冲は理解し始めていると思う。『果蔬涅槃図』は青物屋の息子が青物屋の息子のまま、現世の宿業すべてを引き受けて描いた諧謔と祈りが入り交じる宗教的涅槃図である。

 

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鳥獣花木図(ちょうじゅうかぼくず)屏風』 紙本着色 六曲一双 各縦一六八・七×横三七四・四センチ 寛政四年(一七九二年)以降か エツコ&ジョー・プライスコレクション

 

 『鳥獣花木図(ちょうじゅうかぼくず)屏風』は、これも若冲独自の升目描きと呼ばれる技法で描かれた作品である。四角い升目の中に線と色を描いてゆくのである。印象派の点描は半世紀以上後に現れるので、何かの写本でヨーロッパのモザイク画やタイル画の模写を見てヒントを得たのかもしれない。しかしその発想の源は今のところわかっていない。

 

 升目描きの若冲作品は三点確認されている。モノクロに近い彩色で描かれた『白象群獣図』(個人蔵)が最も古く、かつ確実に若冲が手がけた作品である。図版掲載の『鳥獣花木図屏風』にはよく似た構図の『樹下鳥獣図屏風』(静岡県立美術館蔵)がある。いずれも晩年作だが巨大であることから、弟子たちの手を借りて仕上げられたのではないかと推測されている。ただ丁寧な筆遣いなので、若冲作を本歌として写した作品ではあるまい。また江戸後期にこのように斬新で突飛な画を好んだのは、若冲を高く評価していた人々だけだろう。注文が多かったとは考えにくい。意匠指示だけだったかもしれないが、若冲がオーソライズした作品だと考えて差し支えない。

 

 『鳥獣花木図屏風』は陰翳のない二次元画法である。ますますモザイクやタイル画の影響を感じさせるのだが、それはさておき極彩色で七十四種類もの動物が描かれたこの作品は、容易に『動植綵絵』を想起させる。象の背中には赤い敷物が描かれていて、これは普賢菩薩を暗示している。普賢菩薩像は白象の上に結跏趺坐した姿で描かれるのが一般的だからである。つまりこの作品は、普賢菩薩のお出ましを待つ動物たちを描いた屏風だと解釈できる。右双の中心は白象で左双は鳳凰という吉祥だが、動物たちに緊張感はなく思い思いの姿勢でくつろいでいる。不在の普賢菩薩が『動植綵絵』の緊張感とは逆の効果を作品に与えている。

 

 『寄進状』でもしたためているが、若冲は自分の得意とするのは動植画だと認識していた。実際、仏画を始め、具象的な似せ絵で若冲作品に見るべきものはほとんどない。魅力あるのは晩年の、戯画というより禅的諧謔を取り入れた人物画くらいである。そういう意味で若冲は応挙のようなオールマイティな絵師ではない。また動植画については飽くなき習練を重ねた若冲だが、人物画には強い興味を持っていなかったようだ。若冲の根本的性格ゆえかもしれない。彼は三十代後半にはすでに在家出家していた。人間界よりも自然界に惹かれるものがあったのだろう。

 

 あえて描かなかったとまでは言えないが、『鳥獣花木図屏風』では仏(普賢菩薩)は不在であり、しかも動物たちは向日的な調和に包まれている。世界の中心はあり、その実体は不在であり、かつ中心を意識することで現実界は調和を保っている。『果蔬涅槃図』と同様に、『鳥獣花木図屏風』もまた若冲晩年の精神世界が表現された作品だと言ってよい。

 

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『鷲図』 紙本墨画 一幅 各縦一〇二・一×横四〇・一センチ 寛政十二年(一八〇〇年) エツコ&ジョー・プライスコレクション

 

 若冲の晩年に増えるのが墨画(水墨画)である。大典は『碣銘』で若冲は水墨画の名手でもあると書いているので、五十代にはすでにその手法を我が物としていた。晩年の若冲は、江戸時代に盛んに出版された各界の人気ランキング本の一つである『平安人物誌』にその名が記載されるなど、人気画家だった。生活のため、また石峰寺に羅漢像を設置するために若冲は売り絵を描いていた。良質の顔料をふんだんに使う色絵は高価だったろうが、墨画には「米斗翁(庵)」という署名が多い。実際に米一斗くらいの対価で受注していたのだろう。気楽に注文できたため墨画が多く残っているのだ。また発注者の好みで画を描いたようで、若冲の代名詞である鶏の墨画が多い。少し前まで若冲は「鶏の画家」と呼ばれていた。

 

 ただ若冲の墨画は色絵の余技ではなく、色絵とはまた別の魅力がある。今後も『動植綵絵』が若冲独自の代表作であることは変わらないだろうが、その筆遣いには固さがあると思う。あえて言えば、丁寧で考え抜かれた画面からはいささかの素人臭が感じられる。しかし『動植綵絵』以降の若冲作品は解き放たれたように自在さをましてゆく。特に比較的気楽に描かれた墨画がそうだ。墨画には若冲の技巧の確かさ、その清廉な精神の高みがはっきりと表現されている。

 

 『鷲図』は驚くべきことに、若冲死去の寛政十二年(一八〇〇年)、八十五歳の時の作品である。技術的にも画家の精神にもいささかの衰えも見られない。羽根を膨らませ、巌の上から飛び立とうとする鷲は、さらなる高みを目指す若冲の精神を示しているだろう。しかし〝どこに〟鷲が向かおうとしているのかを問うのは無駄だ。この画で表現されているのはほぼ純粋な精神的高みである。

 

 応挙はもちろん、若冲や蕭白、葛飾北斎、富岡鉄斎など、晩年になるにつれてその画業が上がっていった作家は多い。気力、体力が衰える晩年に作品の質が上がることは、わたしたちには考えられない。実際、現代にそのような作家は皆無である。欧米作家も晩年になれば、作品に緩みが見られるのが普通である。また日本でも晩年に作品の質が上がる作家は明治時代を上限とする。

 

 簡単に言えば若冲を始めとする優れた江戸の作家たちは、考えて描いていないのである。もう少し正確に言えば、わたしたちのように自我意識を中心に据え、オリジナリティを至上として作品を創作していない。彼らはまず徹底した手の職人であり、手が先に覚える技法とほとんど同時にその思想的独自性を生み出している。描くことが先に進むための原動力になる。

 

 このような江戸的創作方法を採ることは、生まれてすぐに自我意識と思考が生の中心だと叩き込まれたわたしたちには不可能である。しかしその構造を理解することはわたしたち自身の創作の糧となるだろう。またそれはより正確な過去作品の理解をも可能にするはずである。(了)

山本俊則

 

 

 

 

■ 伊藤若冲関連の本 ■

『伊藤若冲絵画集・動植綵絵』【全解説・釈迦三尊図つき】 若冲 ~名宝プライスコレクションと花鳥風月 (別冊宝島 2392)

 

 

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