仰げば尊し

TBS

日曜日 21:00

No.137_TVドラマ批評_01

 

 

 やはり異和感がある。日曜劇場なのだし、そんなに人の嫌がることをわざわざ言うことないか、とも思う。ドラマとして不出来なのでもない。わかりきった美談とはいえ嫌味はないし、ひどく退屈でもない。老教師の寺尾聰は適役だし、その娘の多部未華子の清潔な美しさ。こんなに凛とした、きれいな人だったとは。学校を舞台とすると映える女優さんがいるのだ、と初めて知った。

 

 それでその異和感は、絵に描いたような、落としどころが見えている美談そのものにあるのではない。なんで今、こういうストーリーを衒いもなくやれるのか、という疑問点にある。私たちは皆、同時代人なので、時代の影響を受ける。善し悪しは別として、そこから逃れている理由があるはずだ。

 

 それで、この話は「実話」なのだそうだ。それで腑に落ちた。いや、腑に落ちない理由が腑に落ちた。つまりこのドラマは「作りごとじみている」とか「きれいごとを並べている」といった批判から、あらかじめ免罪されている。ドラマ全体の落ち着きとか、感じのよさもそこからもたらされているのだろう。

 

 もちろんフィクショナルな設えはあろう。横須賀のやや荒れた二流の高校で、老いたミュージシャンが吹奏楽部顧問として指導に当たる。吹奏楽を通して生徒たちが成長することにつき、管理職の教師たちが無理解で抑圧的なのはお決まりだし、ライバルの一流校の連中は立派に意地悪だ。わざわざ「実話」とことわるのは、教師が高齢で病いを抱え、それをおして仕事を続けたことだろう。

 

 ドラマに嫌味がないのは、その展開を隠そうとしていないからだと思う。隠さないのは、それがあり得ること、決してドラマチックな、めったにない美談という立場をとらない、ということだ。そこには制作者の良識を感じるし、それならば典型的なドラマ的設えも、あえて王道は外さない、という判断だろうと納得できる。

 

 それにそもそも、それらを完全にフィクショナルな仕立てだと断ずる理由もない。どんな学校だって管理に当たる上位の教師は、多かれ少なかれ抑圧的だ。彼らが抑圧しなかったら、誰が平穏を守るのか。偏差値の高い近所の高校だって、多かれ少なかれ意地悪だろう。子供というものは自信がない分、差別化に敏感だからだ。つまりそれらもまた、解釈や強調はあれども「実話」に属する。

 

 異和を感じたのはむしろ、なるほど「実話」であること、どこを取っても普通にありそうで、同時に美談でもあることだ。私たちの日常は、こういう普通の美談に溢れている。そもそも美談というのは、普通に生きていく上でのちょっとした善意なり、覚悟なりから生じるものに過ぎない。

 

 そしてそれが私たちの日常に溢れている以上、ドラマは現在、また別の役割、表現を模索するのが普通ではないかと感じる。そうあるべき、というのではなく、同時代人としてそうせざるを得ない。逆に言えばしかし、それに意識的であれば、ひとつの挑戦として真っ直ぐな美談ドラマを作ってみせる、という姿勢もあるだろう。それは現代のフィクション、ドラマというものを逆照射して露わにする面がある。

山際恭子

 

 

 

 

■ 原案の石川高子さんの本 ■

ブラバンキッズ・ラプソディー―野庭高校吹奏楽部と中澤忠雄の挑戦 ブラバンキッズ・オデッセイ

 

■ 脚本のいずみ吉紘さんの作品 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■