No.031_文學界_01

 

 

 基本的に現実世界を描く小説で、男と女と金と家族が大きな主題になるのは当然である。乱暴な言い方をすれば、この三つの主題の描き方(処理方法)に作家の思想が表れる。短歌や俳句には型があり、それを無視して表現は成り立たない。これに比べれば小説は自由だが、内容・形式面で一切の制約がない自由詩はもっと自由だ。しかし型(フレーム)が存在しないわけではない。自由詩の場合、型は個々の詩人が作る。まったくの自由状態から型を作るため、かえって詩人は自分が作った一つの型に囚われやすい。

 

 ただ優れた作家の作品は型の存在を感じさせない。型があるから表現が不自由になるということはないわけだ。また型の中で自由に表現するためには、作家がそれを肉体化している必要がある。〝型がある〟ということを、いずれかの時点でアプリオリな表現の前提として受け入れるのである。

 

 純文学系の雑誌や小説ばかり読んでいると、小説は無限に自由な表現に見えるだろう。しかし明治維新以来、小説はも今も昔起承転結があり読者を楽しませる大衆文学が主流だし、将来もそうあり続けるはずである。もちろん純文学は小説文学におけるアンテナ的前衛ではある。しかし小説家が徒手空拳の新たな表現を求めるのなら、一度本気で自由詩に取り組んでみるのがよいだろう。そうすれば自由な表現など幻想に過ぎないことがわかるはずである。

 

 〝男と女と金と家族の主題〟が小説の型を規定するわけだが、もっと大胆に抽象化すれば、それは性と暴力と愛の関係ということになる。性と暴力は人間の根源的欲求の喩だが、愛は人類が知性を持つことで生み出した抽象概念である(心理学で言う超自我)。人間の身勝手でプリミティブな欲求をどうやって抽象概念にまで昇華するのかが小説の一貫した主題であり、それが自ずから小説の型を作り出している。

 

 大衆文学はこの型に沿ってきっちり作品を仕上げる。心温まるが、どこかで読んだような大団円はそうして形作られる。逆に言えば、純文学はこの型を外そうとするので、時に前衛的な顔つきになる。ただ純文学作家が〝型がある〟ことを意識しないで型を外そうとすると、何を表現したいのかわからない中途半端な作品になることも多い。

 

 模試の結果は最悪だった。ちいさなミスを、いくつもしていた。大切な大問に手をつけてもいなかった。答え合わせをしながら、赤ペンを持つ今日子の手は震えた。これまでで最も悪い結果だった。彼女は自分をおさえられなかった。馬鹿なんだわ、まあちゃんは。冷たく決めつけるような声が、自分の喉の奥から発されて、それは目の前の十二歳のこどもの鼓膜をたしかに震わせた。(中略)もう、無理ね。無駄。やめなさい。中学受験やめなさい。ママ、塾に電話するわ。辞めましょう。全部辞める。四中に行って、中学受験を諦めた子だって、皆に思われればいいんだわ。(中略)

 ――い、いやだ。そんなの、いやだ。や、やらせてください。ちゅ、中学受験、やらせてください。が、頑張りますから。

 ――だったらね、今日から入試の日まで、自由時間はなしよ。家にいる間は全部勉強。それでいいの?(中略)

 今になって、今日子は勝の心の声を聞く。トイレに行きたくなったらどうしたらいいのと、勝は聞きたかったのだ。あの時、模試の解き直しをしながら勝は失禁した。

(朝比奈あすか「手のひらの海」)

 

 朝比奈あすか氏の「手のひらの海」の主人公は、今日子という専業主婦である。夫は大手建設会社に勤めていて生活には余裕がある。一人息子の(まさる)は超難関中学のS学園に合格したが、夫婦の自慢は過去のものになり始めている。中学二年生になった勝は完全な不登校児で、両親と食卓を囲もうともしない。部屋に閉じ籠もりっきりでゲームに耽っている。今日子が部屋のドアの前に置いた食事を食べ、ときどきトイレを使い、夜中に一人で風呂に入っている。

 

 引用は今日子の回想で、中学受験というチキンレースに参戦してしまった親子の切羽詰まった心理がよく表現されている。東京を中心とする首都圏でこのような経験をした親子は多いだろう。子供の学力などあてになるものではなく、中学受験くらいまでは親が躍起になって詰め込めば詰め込むほど成績は伸びる。しかし子供はいつか大人びてくる。時には勝のように、早くも中学生で何かがポキリと折れてしまう子もいる。中学・高校受験では子供を合格させるより、万が一子供が燃え尽きてしまった際に、それをケアする方が遙かに難しい。

 

 masaloser915>>子供産むって楽しいですね。知的生命体をペットにして潰せる

 masaloser915>>地震も噴火もクルクル詐欺でした

 masaloser915>>・・・・・・入力中・・・・・・(中略)

 勝はどこかタガが外れたように、呪詛のような書き込みを続けてゆく。ひと息ついてから、今日子は指先を動かした。

 kk-traveler915>>お母さんのどこがそんなにいやなのですか。

 masaloser915>>空っぽなところ(中略)

 それはどういう意味ですか、と書いてみたものの、送信ボタンを押せないまま消去した。指先を弾ませるだけでこちらの胸の奥まで抉れることが当たり前のようになっている。今日子は初めて探りたくないと思った。探ったところで出てきた言葉は勢いで発せられたその場限りの薄い毒でしかない。あの子の言葉に深みはない。掲示板の書き込みの延長のような、そんなものばかりに浸されて、あの子の脳はどろどろ溶けてゆく。

(同)

 

 今日子は勝が「Eastern Front without Mercy」という戦争シミュレーションゲームに夢中になっていることを知る。不特定多数が参加できるオンラインゲームだとわかった今日子は、kk-traveler915というハンドルネームでゲームに参加し、大学生の男を装ってmasaloser915を名乗る勝と会話を試みる。「お母さんのどこがそんなにいやなのですか」「空っぽなところ」という親子の会話は、この小説の中心主題になり得る。しかしそうはなっていない。二兎は追えないのだ。

 

 受験文学と呼べるような小説を書いている作家はたくさんいる。重松清氏などがその代表だ。受験、イジメなどを作品主題にしたその小説は、中学受験の国語問題などでは定番だ。中学受験する親子は必然的に本を買って熟読することになる。だから本がロングセラーになる。もちろん重松氏の作品に価値がないと言っているわけではない。受験やイジメを扱う作品は、中学生くらいの子供だちにこれから直面する苦悩を伝える役割を持っている。親に対しても同じだ。受験がどれほど子どもたちを苦しめるかを教え、どうイジメをどう見抜き、救ってやるかの処方箋になり得る。

 

 ただ小説がある程度実効性のある処方箋になるためには、なんらかの〝解決策〟が示されていなければならない。現実には難しくとも最低限の〝希望〟が示唆されている必要がある。それが朝比奈氏の「手のひらの海」にはない。子供の苦悩に焦点を当てたいのか、子供を有名中学に合格させるのが目的で、中身は「空っぽ」な母親の内面を描きたいのかはっきりしない。もちろん「解決策」や「処方箋」は大衆文学的フィクションであり、「手のひらの海」の方がより現実に即しているのかもしれない。しかしそれだけでは純文学の名に値しない。

 

 受験小説と「手のひらの海」の現実ベースは同じである。また受験と引き籠もりは現代社会の切実な問題だ。その渦中にある人々は救いを、解決策を求めている。作家が大衆文学的な処方箋を嫌うなら、別の認識を表現しなければならない。型にはまりながら型を外すのである。それができなければ純文学作品は読者の支持を得られない。多かれ少なかれ純文学は小説文学の前衛なのであり、型にはまった認識を、わずかであろうと超出している必要がある。

 

 なんだろう。なんなんだ。ここで彩子が脱いだとしても。真夏がそれを描いたとして。真夏が頼んだから彩子は描かせたのか。それとも、まさか彩子が望んだのか?

 解けない混沌とともに再びいちからページをめくっていく。日付は今日の未明で終わっている。僕は遅くまで寝付けなかったけれど、(中略)洋室から漏れてくる鉛筆を走らせるかすかな音は聞き逃していたことになる。あのときも、彩子は裸だったのか。真夏はせっせと彼女をキャンバスに収めていたのか。

 未明に描かれたいまのところのラストの一枚は、正面からの全身。座った彩子が伏目で自分の胸を見つめている図だ。手はシーツと膝の上に置かれ、膝を折って崩した脚と、やや弓なりになった上半身がセクシーに映る。

(水無月うらら「きみから見える世界」)

 

 水無月うらら氏の「きみから見える世界」は二〇一五年度下半期同人誌優秀作で、一種のレズビアン小説である。主人公は遠里(えんり)という名の青年で、ふとしたきっかけで知り合ったOLの彩子と同棲している。無職の遠里が彩子のマンションに転がり込んだのだ。そこに彩子のイトコの真夏が訪ねてくる。彩子は当初、真夏の訪問を歓迎していない素振りだったが、しばらくして真夏はマンションで同居し始める。引用は遠里が二人の女性の秘めた関係を知るシーンである。彩子と真夏がレズビアン関係にあるとは明示されていないが、小説の冒頭で遠里とセックスした後に、彩子が「これが最後になるかもね」と言っていることや、〝遠里〟という主人公の名前がそれを強く示唆している。彩子は真夏とのレズビアン関係から逃れるために遠里を飼っていたのかもしれない。

 

 ただレズビアン小説といっても、男の読者の興味を掻き立てるような猥雑さはない。「きみから見える世界」という表題に示されているように、この作品は男性から、あるいは社会からマイノリティとみなされる女性同士の、親密で、少しグロテスクとも言える心理を描こうとしている。小説のポイントは主人公を男性にしたことだろう。遠里という青年は女性たちの共同体からはじき飛ばされて、近所の公園にテントを張ってホームレスのような生活を始める。しかし彼女たちと完全に縁を切るわけではない。遠里は極めて女性的な青年であり、本質的に女だと言ってもいいからだ。

 

 ホモセクシュアル小説もレズビアン小説も小説の世界では珍しいものではなくなった。また女性作家の場合、多かれ少なかれ女性たちの世界を描くのが常であり、男性が求めるセックス幻想とは違う女性たちの関係が描かれることが多い。レズビアンはそれを究極まで掘り下げることができる主題だが、男が登場した時点で繭のような女性同士の関係は破壊されなければならない。それが男に負わされた役割である。

 

 小説のラストで公園で野宿していた遠里は警官に追われ、女性たちのマンションに向かって走り出す。ただそれ以降は描かれていない。遠里が彼女たちにとっての異和であり理解者でもあるなら、そこからの三人の関係性こそが、ステレオタイプなゲイ小説を抜け出す鍵になるかもしれない。

 

 今は外に夢を見てるから。だから、いかにして海外に逃亡するか。日本映画からの脱却を目指して。日本映画で今後、余命じゃないけど、どこまで映画を作れるか分からないけど、その間ずっと日本映画であり続けるって、それだけはちょっとたまったもんじゃないなっていう意識はあって。やっぱり外に出たい。なんとしてでも。それはで貧乏になってもかまわない。

(「園子温 インタビュー 俺は異端じゃない」聞き手・構成 大島新)

 

 「文學界」は映画特集がお好きで、今号でも「映画妖人伝」という特集が組まれている。映画批評には大きく二種類あって、映画が博打で興行だと理解している批評家がテレビ・ラジオ・一般誌で活躍し、映画をあくまで芸術だと捉えている人たちが、一般の映画好きが決して読まない文芸誌に映画批評を書く、などと言うと、また物わかりの悪いことをと叱られてしまうのでやめておくが、園子温監督のインタビューは面白かった。インタビュアーの大島新さんは大島渚さんの息子である。

 

 園子温が今最も優れた映画監督であるのは間違いない。彼は『希望の国』という原発モノの映画を撮った。しかし福島第一原発事故を題材にしていながら福島原発事故の話ではない。園子温は主演の夏八木勲に「これで二度目だ。福島原発事故の時も政府の対応はこんなだった」と言わせている。そこに園子温の映画作家としての高い知性がある。福島原発事故は時代のメルクマールになるような決定的事故ではない。そこで提起された問題は今後もずっと続くのである。

大篠夏彦

 

 

 

 

■ 朝比奈あすかさんの本 ■

不自由な絆 憂鬱なハスビーン (講談社文庫)

 

■ 園子温監督作品 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■