「文學界」十月号では「特集 酒とつまみと小説」が組まれていて、恐縮だがタイトルを見て思わず笑ってしまった。「オール讀物」ならまだしも、「文學界」を読みながら酒を飲む人はいるのだろうか。もちろん特集の内容は「文學界」とは関係なく、アンケートトップバッターの松尾スズキさんは、中島らもの『今夜、すべてのバーで』をあげておられる。良い選択で、とてもよくわかる。しかし池澤夏樹の『マシアス・ギリの失脚』やT・S・エリオットの『前奏曲集』が酒のつまみになっていると、正直ほんまかいなと思ってしまう。やっぱり文學界だと、どこまでも文学的でなければならないというプレッシャーがあるのかもしれない。お遊びの企画だが、なぜそれを「文學界」でやらなければならないのかはちょっと引っかかる。
もうだいぶ前からだが、どの業界でもコラボレーションが大流行である。文学業界では、作家とイラストレーターが組んで本を作ったり、二人の作家が一章ずつ交互に物語を書く試みなどが行われている。雑誌の特集も一種のコラボレーションだろう。編集者が企画を出し、作家がそれに協力するのである。もちろん編集者は黒子であり、特集では作家だけが前面に出る。しかし雑誌でどういう特集を組み、それが成功したかどうかは編集者の責任だ。あるいは編集者の見識が問われる。編集者といえども今の文学界で、作家たち共通の話題(パラダイム)を拾って特集にするのは難しい。停滞し、凪いだ状況だからこそ、あえてそれを泡立たせるような特集を組む必要がある。「特集 酒とつまみと小説」はちょっと呑気すぎやしないかと思ったのである。
ちゃんと調べたわけではないが、以前に比べて「文學界」では特集や特別企画のページが増えているように思う。細切れ連載小説はこんなものだろうが、読み切り小説の数が意外なほど少ない。純文学誌を主な発表場所にしている中堅・若手作家が「作品を掲載してもらえない」とこぼすのは聞き飽きた念仏のようなものだが、小説作品を後回しにするほどの特集だろうか。「文學界」のベースは私小説であり、良質の作品は三十枚から五十枚あれば十分だ。それをきちんと書けるのは西村賢太だけのような気がするが、ほかの必ずしも私小説資質ではない作家、つまり微妙に純文学=私小説コードに引っ張られながら作品を書く作家たちの作品は、百枚前後になりがちである。ただそんな作品をたくさん掲載するのが「文學界」的純文学の裾野を拡げる一番の方法だろう。どんな組織でも本業以外で活路を見出すのは難しい。できるだけ小説を掲載してほしいものだと思う。
「・・・・・・どうにかなってしまいそうなのです」
すぐに熱気が上に集まってしまう方なのでしょう。
「・・・・・・自分が自分でなくなってしまいそうなのです」
すぐに足が冷えてしまう方なのでしょう。
「・・・・・・本当です」
実際の身体に触れていると
「・・・・・・本当にもう限界なのです」
当時の状況がひとりでに浮かんできてしまうのです。
「・・・・・・ひとでなくなってしまいそうなのです」
これが五十山田(仮名)のカルテです。
(松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」)
松波太郎氏は一九八二年生まれで、「廃車」で文學界新人賞を受賞されている。引用の「ホモサピエンスの瞬間」は第一五四回芥川賞の候補になった。鍼灸師とおぼしき青年の内面独白小説である。「僕」や「私」が一切出て来ない小説なので断定はできないが、青年が施術をほどこしながら、患者の心理と一体化したその内面を叙述した作品だと読める。青年の心を深く捉えているのは五十山田という名の老人である。
「ババ!」
父親を呼ぶ声は万国共通なのだろうか。
「ババ!」
〝パパ〟の意にきこえるものの
「ババ!」
こちらの言葉特有の抑揚があり、銃声のようにもきこえてしまう。(中略)
7
利き手ではないはずの左手が振りかぶり少女の頬を殴る。
8
利き手でぎこちなく少女の腰に手を回し、投げ落とす。
9
右手がすみやかに銃剣を鞘からとりだし
10
父親か同僚が寄ってくる前に刺して放った。
(同)
主人公が施術中に感受したところによると、五十山田老人は第二次世界大戦に出征して、中国で民間人の少女をさしたる理由もなく殺したらしい。では「ホモサピエンスの瞬間」は戦争責任小説なのかというと、そうではない。この作品は十四のパートから構成されるが、引用にあるように少女殺しのシーンはある種の詩のように章分けされている。この書き方によって読者の緊張感が増し、少女殺しの衝撃が増すかどうかはとても疑問だが、作家が通常とは異なる小説の書き方でそれを強調しているのは確かである。現実の輪郭が曖昧で、主人公と他者の心理の区別もはっきりつけられていないことから、松波氏は意識的に実験小説を書いておられるのだろう。ではこの実験はどこに向かっているのだろうか。
ババ、ババ、という声は、何者の声なのか? 何者なんだ、おまえは?(中略)おい、さぁ姿を早く現せ、ババ、ババ、橋などとっぱらって、正々堂々始めようじゃないか、おい、ババ、おい、バーッバッバーバァーツ・・・・。
(同)
作品の最終部である。ものすごく物わかりの悪いことを言えば、作家自身も「ババ、という声は、何者の声なのか」わからないのだから、僕にその正体がわかるはずがない。「ババ」は父親でも銃声でもないらしいが、主人公を追い詰める何者かのようだ。「正々堂々始めようじゃないか」とあるが、小説中盤から「ババ」という言葉の意味あるいは存在が問題になっていたのだから、作品は振り出しに戻ったと言っていい。要するに何もわからないということだ。
さらにあえて物わかりの悪いことを言えば、文學界新人賞を受賞しようと有名な芥川賞を受賞しようと、このタイプの実験小説が一般読者から強く支持されることはない。一作目は賞の力で話題になっても、二作目以降は下降線を辿ることは目に見えている。にも関わらず特にプロ作家から構成される文壇内部でこの種の作品が高く評価されているということは、本の売上は度外視しても、このような作品に強い文学的価値があることを示唆しているはずである。それがどういったものなのかもっとはっきり知りたい。僕にはよくわからないのだ。わたしたちが未来が見えにくい不透明な時代を生きているのは確かである。だから作家が〝わからない〟と書くのは僕にも理解できる。しかしそれをさらに問題を混乱させるような修辞にくるむのは、かえって突破口を遠ざけるのではあるまいか。
現在小説界で書かれている実験小説は、僕には一昔前の現代詩の亜流のように見える。現代詩は当初、戦後的な意味(戦争責任など)を無化する純粋言語抽象構造体を目指した。「詩は意味の伝達の道具ではない」という入澤康夫の発言などが有名である。これを作家が援用すれば、「小説は物語の伝達の道具ではない」ということになろう。プロットはもちろん、主人公や登場人物の解体が始まるのだ。しかし現代詩的修辞は、じょじょに詩人たちが未来が読めないことを韜晦するための隠れ蓑と化し、現代詩は見る影もなく衰退した。江藤淳ではないが、「わからないならわからないとはっきり書く」のも一つの方法だろう。詩壇で起こったことは必ずと言っていいほど遅れて文壇でも起こる。詩壇の衰退は文壇にとって人ごとではないと思う。
「僕の問いは常にシンプルです。『次はなにか』。これを読める人に投資すると決めています」
「次は何か」
「はい。結局のところそういうのは、人の流れであり、人の意識の流れであり、結果としては使われる時間の集合なんです。時間が使われるものには、金がついてきます。その自然の流れをどう読むか。人がいて、時間があって、金が集まる。まずはこういう大きな所をシンプルに感じていない人に投資はできません」
「頭ではなく身体でわかっていないと、そうシンプルに捉えられないですよね」
「今はこう」(中略)「いったん集めてもすぐ人はどっかに行っちゃいますから」
「シンプルに考えないと本質を見落としやすいです」
「そうですね。でもそれが難しい」
「実力値に収束しますからね」
私は何かの苛立ちを覚えながら壇上の椅子に座った二人を眺めていた。その苛立ちを言葉にしようと考えると、自分が何に腹を立てているのか、だんだん良くわからなくなってきた。
彼らは限りなく正解に近い何かなんだ。「市場の結果は大体正しい」ならば。
(加藤秀行「シェア」)
加藤秀行氏は「サバイブ」(No.026 文學界 2015年06月号参照)で文學界新人賞を受賞した作家で、「シェア」は受賞第一作である。「シェア」の主人公・ミワはIT業界で働いている。正式に離婚していないが、ITベンチャー企業社長の夫がいる。すでに夫婦仲は冷え切っているが業界仲間であり、また会社の立ち上げにミワが貢献し、その時にミワが会社の株を所有することになったので、なおさら夫(ミワの中ではすでに元夫)との腐れ縁を解消できないでいる。夫はミワの株を買い戻したがっているのだ。だがミワは応じない。それ相応の金額になっている株だけが財産だからだ。ミワはプログラマだが、自分が優秀とはほど遠いことをよく知っている。
ミワは夫の会社の新オフィスお披露目パーティに招かれる。会社を売却して数十億の金を得て、あくせく働く会社経営からも〝上がった〟投資家が、夫と壇上でトークショーをしているのを聞く。「サバイブ」でもそうだが、『次はなにか』が加藤氏の主題である。『次はなにか』をはっきり把握できれば、混沌とした現在を相対化できるからだ。しかしミワは苛立っている。夫も投資家も現代社会における最先端の成功者であり、その成功は「市場の結果は大体正しい」という確信によってもたらされた。ミワもまたそれは正しいと理解している。これからの社会は、間違いなく彼らが信じる方向に進むだろう。しかしそれは結局金の話しではないのか。
しかし「市場の結果」を無視した成功などこの世にあるのか。また成功の道筋がはっきり見えているのに、人はそれを無視できるのか。世間から、市場から孤立しても、〝これでいい〟と達観できるほど人は強いのか。金がなくても生きていけるのか。むしろどんな社会的成功も、多かれ少なかれ市場原理と結びついており、金と一体化しているのではないのか。この大きく決定的なサイクルから抜け出して、人は別のシステムを築きあげることなどできるのだろうか。
「どこか大きな洞窟みたいな場所を想像して欲しいの」
継ぎ足して作ったタレみたいに原型を留めず、結局最後はだいたいこういう話しをしていた。
「上から梯子が垂れてくるのよ。いくつも。強く引っ張り過ぎると、紐が切れそうで危ない。だから強く引っ張れない。でも私は早く決めなきゃいけない。ここから出るために、いずれにせよね。(後略)」
(同)
ミワは現状から抜け出す方法が、どうしても〝わからない〟。方法はたくさんありそうなのに、強く引っ張ると糸がプツリと切れてしまうのだ。しかし明確に〝わからない〟と認識することは、解答への強い希求があるということだ。現代的状況からの、超克の道を探り続けているということである。前衛文学的な修辞的の複雑さは、〝わからない〟が日常になり、そこから抜け出す意欲を失ったために生じたのかもしれないのだ。
ミワは夫の会社でインターンとして働いていたベトナムからの国費留学生のミーを誘って、二人でいわゆる〝民泊〟を経営している。ミーは可愛いが野心に燃えた女子大生で、その思考パターンは夫らとよく似ている。しかしミワはミーと気が合う。彼女の野心が、夫たちのように金が金を生むシステムを作るためではなく、故国に残した貧しい親兄弟のためだからかもしれない。あるいはミーの中に、ミワが求める「ここから出るため」の何かがあるのかもしれない。「シェア」ではそれ以上突き詰められていないが、この主題は加藤氏の中でしばらく続くだろう。
いつの時代でも、時代を代表するような難しい課題に正面切って挑む作家は貴重である。ただその方法はいくつもある。「サバイブ」や「シェア」ではサブ登場人物として描かれた社会的成功者の行動と心理を、限界まで書き尽くすのもその一つの方法かもしれない。しかしそれを、あくまで純文学のフレームでやろうとすれば恐らく失敗するだろう。
大篠夏彦
■ 松波太郎さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■