角川俳句_No.019_01

 

 

 「角川短歌」九月号の特集は「「私」をどう歌うか」です。以前同誌二月号の特別企画「私性論議ふたたび」を取り上げたことがあります。第五十七回短歌研究新人賞を受賞した石井僚一さんの『父親のような雨に打たれて』は父親の死がテーマですが受賞後にご健在だとわかり私性議論――つまり短歌で私の実存世界以外のフィクションを詠むのはどこまで許されるのかという議論が起こったのです。石井さんによって提起された問題は倫理問題を含まざるを得ないので少し特殊ですが歌で表現される私が作者と同一でなければならないのかは考えてみる価値のある問題です。

 

 短歌を詠む作者「われ」に対して、短歌の中に出てくる「われ」を作中主体と呼ぶことがある。(中略)

 一般に、近代短歌においては「作者=作中主体」であったものが、前衛短歌において「作者≠作中主体」となったと説明されることが多い。もっとも、そうした図式的な説明は、実際とはいくぶん異なるようだ。そもそも、言葉を用いて表現する段階で、作者と作中主体が完全に一致するなどということはあり得ない。その一方で、作者が詠んだ歌である以上、作者と作中主体が全く無関係ということもない。つまり、ゼロか百かといった問題の立て方がそもそも無理なのであり、「作者と作中主体の間には何らかの関係がある」と理解すれば良い。数学で言う関数のようなものだ。(中略)

 では、私たちが短歌を詠む際に注意すべきことは何だろうか。それは、この作者と作中主体の間の距離を意識することである。ほとんど距離を感じさせない歌もあれば、相当に距離が離れている歌もあるのだが、いずれにせよ必ず距離は存在する。(中略)

 例えば、何かとても悲しいことがあって、人知れず部屋で涙を流したとしよう。けれども、それを「人知れず部屋で涙を流した」と歌に詠むと、途端に作者の悲しんでいる姿がわざとらしく感じられてしまうのである。たとえ作者が「そのまま」を詠んだとしても、決して「そのまま」にはならない。

 つまり、三十一文字の短歌には、常に外側がある。「われは人知れず部屋で涙を流した」で歌は終わらない。必ず、「『われは人知れず部屋で涙を流した』とわれは述べる」という二重の構造を取るのである。こうした「われ」の二重構造を意識することなしに短歌を詠むことはできない。(中略)二重の「われ」は、常に重なり合いながら、しかも互いに隔たっている。そこに、短歌の難しさと面白さがあるのだ。

(松村正直「「われ」の二重構造」)

 

 少し長いですが的確なので松村正直さんの批評を引用しました。若く前衛的な手法を模索する歌人の皆さんはもしかすると松村さんの批評を身も蓋もないとお感じになるかもしれません。松村さんは「作者」と「作中主体」を分けて考察しておられますがそこに距離があるにせよ短歌では否応なく作者主体の心理や思想が表現されてしまうというお考えだからです。リゴリスティックに言えば松村さんの考察では短歌では完全にフィクショナルな作者主体の表現は不可能だということになります。意欲的作家の皆さんにとってそれは表現の足枷ともなり得る認識だと思います。

 

 ただ松村さんの認識は正しいと思います。フィクションでまず想起されるのは小説です。小説のフィクション構造は多層的です。まず主人公を中心とした架空の登場人物が設定され彼らが生きる時代(時間軸)と場所(空間軸)が仮構され最後に叙述方法(文体)が設定されます。これらはすべて文字で作られた可変的フィクションです。しかし小説でも「作者」と「作中主体」の〝「われ」の二重構造〟が存在するのは言うまでもありません。小説の主人公には必ず作家の「われ」が投影されます。フィクショナルな多重構造を持つゆえに作者と作中主体の距離がうんと開いて見えるのです。逆に言えば三十一文字の短い定型である短歌では作者と作中主体が接近せざるを得ません。

 

 『源氏』などの物語文学が和歌から派生したことを思い起こしてもいいかと思います。短歌と物語は相似の構造を持っていますが形式的制約によってフィクショナルな作為の自由度が異なります。もし歌人がより自在なフィクションを求めるなら小説ジャンルを舞台にした方が良いのです。それは小説はもちろん短歌文学の理解を深めるのに役立つと思います。詩の世界では定期的に〝文学ジャンルは超えられるか〟といった議論が起こりますが安易な問いかけは無益です。作家が詩と小説ジャンルの本質を把握すればマルチジャンル作家として活動することはできます。しかし詩を小説にするのも小説を詩にすることもできません。

 

 文学ジャンルにはそれぞれに逃れがたい掟があります。短歌俳句自由詩を問わず詩人たちが〝ジャンルは超えられるか〟と言い出す時念頭にある仮想敵は間違いなく小説です。はっきり言えば詩のように金銭的にも社会評価的にも報われない創作に取り憑かれた詩人たちのボヤキのようなものです。だから小説を書いて少しでも評価されると〝ジャンルは超えられるか〟という問いの質が変わってしまう。詩人として小説家並みの社会的評価を得たいという欲求が詩人で小説家でマルチジャンル作家でいいじゃないかという立場にあっさり変わります。詩人であることのボヤキや小説家へのやっかみまで真正面から見据えて〝ジャンルは超えられるか〟という問いを発しなければ意味がありません。

 

 ただ歌人があくまで新たな表現手法を探求するなら松村さんが書いておられる「三十一文字の短歌には、常に外側がある」という認識がキーになるでしょうね。小説のようなあからさまなフィクションではないにせよ短歌で虚構を援用した歌人は大勢います。寺山修司がその代表ですが石井僚一さんもそうです。寺山は母殺しを繰り返し石井さんは父親を歌の中で亡き存在としたわけです。このフィクションは歌に「外側」があれば許容されます。なぜ父母を殺したがるのかが読者に伝わればフィクションは嘘ではなくある本質を表現するための技巧として許容されるのです。この構造もまた小説文学と相似ですが短い形式の短歌ではより「外側」の本質に肉薄できる可能性があります。

 

きつつきの木つつきし(ほら)の暗くなりこの世にし遂にわれは不在なり

(『飛行』昭和二十九年)

わが服の水玉(どっと)のなべて飛び去り暗き木の間にいなづま立てり

(『原牛』昭和三十四年)

(げん)不安(ふあん)()ふはなになる 赤色(せきしょく)の葡萄液充つるタンクのたぐひか

いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の()のある鰈を下げて

水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき

絹よりうすくみどりごねむりみどりごのかたへに暗き窓あきてをり

口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも

(『葡萄木立』昭和三十八年)

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水

(『朱靈』昭和四十五年)

晩夏おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて

圓を描くこころあそびぬしら紙に圓はなにものかを閉づるを

(『鷹の井戸』昭和五十二年)

 

 「短歌」九月号では「人物特集 没後30年 葛原妙子」も組まれています。明治四十年(一九〇七年)生まれで昭和六十年(一九八五年)にお亡くなりになった歌人です。歌歴は長いですが最初の歌集を上梓したのが昭和二十五年(一九五〇年)ですから戦後を代表する女流歌人のお一人と言っていいかと思います。特集の総論で川野里子さんが書いておられるように中井英夫や塚本邦雄から「ミュータント」「幻視の女王」「黒聖母」などと呼ばれた歌人です。キリスト者でもありました。

 

 いささかおどろおどろしい呼称を冠せられた葛原さんですがその理由は作品を読めばすぐわかります。引用は代表歌十首ですが「われ」や「わが」が表れる歌は四首のみでしかもそれは強い作家の自己主張を持っていません。外界描写が「われ」の思想や感覚そのものなのです。葛原さんは徹底して見る人であり「われ」という作家主体は作品の大前提として歌の背後に隠れています。また描写が強い幻想性を帯びることもしばしばです。その理由を葛原さんは「私は又「現実とは日常の生活である」と云ふ規定を持ちません。(中略)見える見えないにかかはらず人間生活の中から抽き出された「真実」だけが芸術の上では「現実」となり「生活」となり得るのであると信じます」(「私の短歌作法(2)-色彩と幻-」)と説明しておられます。

 

 自我意識のフィルターを通した外界描写で作者の思想や感覚を表現できることは葛原さんの自我意識(「われ」)が安定していることを示しています。強固な自我意識が捉えた世界の本質――葛原さんの言葉では「見える見えないにかかはらず人間生活の中から抽き出された「真実」」――が作品に表現されているわけです。この「真実」は極めて言語的なものです。幻視的なものとして表現されることが多いですがそれは平凡な現実から未知を抽出する試みです。現代短歌に限らず戦後の前衛芸術はおしなべてこのような未知の表現方法・領域を追い求める指向を持っていました。必ずフィクショナルな部分を持つ「作者」と「作者主体」関係を統御する上位概念――すなわち「外側」は未知を希求する観念ベクトルとしてあったわけです。その意味で葛原さんは優れた現代短歌歌人のお一人です。

 

 ただ「作者」と「作者主体」の関係などを含む短歌内諸要素を統御する「外側」(上位審級概念)が現代では変わり始めています。前回は河野裕子さんを取り上げましたが彼女は「枕もとにふくろふが(うずくま)りお嬢さんだつたのにねと言ふ」といった幻視的な歌を詠んでいます。しかしその質は葛原さんとは異なります。河野さんの幻視性は作家の自我意識が揺れていることから生じています。それは「がらんどう」であり多くの現代作家たちが感じている自我意識の揺らぎと通底します。

 

 恐らくこのような自我意識の揺らぎの原因を考えることが短歌芸術の上位審級概念(外側)を認識把握するためには必要でしょうね。どんな芸術でも技法を持たなければ表現できません。しかしなんのために技法を使うのかを把握しなければ優れた表現にはならないのです。上位審級概念は短歌技法を一定の方向に導く役割を担います。種子のまわりに果肉が形成されるように技法が整理されるのです。現代は強い自我意識が新たな表現を生む時代ではありません。不安に揺れる希薄な自我意識の中に世界を雪崩れ込ませることが新たな表現のキーなのかもしれません。

高嶋秋穂

 

 

 

 

 

■ 松村正直、稲葉京子、葛原妙子さんの本 ■

短歌は記憶する (塔21世紀叢書) 葛原妙子 (鑑賞・現代短歌)

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■