月刊俳句界_No.030_01

 

 

 「月刊俳句界」八月号の特集は「漱石と龍之介~文人俳句の頂点」である。俳句はちょっと奇妙な世界で、多くの宗匠たちは自らの結社に一人でも多くの人間(門弟・結社員)を集めたいためか、〝俳句は誰にでも書ける〟と言いながら、一歩俳句の世界に足を踏み入れると〝ダメダメまだまだ修行が足らん〟と言いたがる。俳人たちもまた五七五に季語の〝形式〟をあっさり受け入れられる素直な性格の方が多いせいか、〝はいはいごもっとも〟と、いつまでも〝弟子〟のままでいたがる。

 

 ちょっと自己主張が強い俳人は結社を飛び出して自分の結社を作るわけだが、そこでも判で押したようにかつての師匠と弟子の関係が再現される。そのため俳壇は大きな結社と小さな結社から構成されるお山の大将集団となり、そのせめぎ合いが新聞・テレビなどの俳句投稿コーナーから有名賞の選者にいたるまで反映されてしまう。現世においてという限定付きだが、俳人がささやかなものであれ社会的認知を得るには大結社に所属していた方が圧倒的に有利である。俳壇が〝結社の長〟と〝結社の所属員〟を自任する人たちから構成されている以上当然の帰結である。なんやかんや言って数の論理で動く国会とあまり変わらない。そう言えば結社の長は、実社会でそれなりに出世した方が多い。俳壇には社長や中間管理職の人事掌握術が必要なのだろう。

 

 この結社至上主義を免れることができるのは、まずは物故俳人たちである。彼らはもう結社的影響力を持たないので、〝俳句共通の遺産〟として基本的にその文学的側面だけが評価される。結社員にとっては先生の俳風が絶対だが、物故俳人は正規の教科書以外の副読本として心安らかに参照することができる。もう一つ別格になるのがいわゆる〝文人俳句〟である。これについてはほぼ完全なブランド志向である。世間一般で圧倒的支持を受けている小説家の俳句がやたらと珍重され、そこらの弱小歌人や自由詩人の俳句は見向きもされない。明治近代以降では漱石や芥川らの小説家が圧倒的にメジャーな存在である。

 

限りなき春の風なり馬の上                       夏目漱石

春の水岩を抱いて流れけり

(すみれ)ほど小さき人に生まれたし

ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり

落つるなり天に向つて揚雲雀

思ふ事ただ一筋に乙鳥(つばめ)かな

叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

馬の子と牛の子といる野菊かな

肩に来て人懐かしや赤蜻蛉

秋風の一人をふくや海の上

行く年や猫うづくまる膝の上

 

徐福去つて幾世をぞひる霞む海                    芥川龍之介

春寒や竹の中なる銀閣寺

夕闇や枝垂桜のかなたより

天竺に女人あまたや蓮の花

兎も片耳垂るる大暑かな

初秋の蝗つかめば柔かき

海鳴るや秋の夕日の黍畑

星月夜岡につゝ立つ武者一騎

秋風や嵯峨にさまよふ蝶一つ

木がらしや東京の日のありどころ

木がらしや目刺にのこる海のいろ

 

 漱石は人間の自我意識と社会との葛藤に敏感な作家だった。初期には『三四郎』を始め、社会で揉まれる若者の姿を好んで描いた。中・後期になるとその社会性が、ほぼ一対一の人間関係に集約されるようになる。『行人』や『心』、『道草』などがその代表的作品である。漱石には人間同士の無媒介的な相互理解を求める志向があった。それは漱石の孤独な心の裏返しの表現でもある。俳句には漱石の孤独な心情が良く表現されている。漱石俳句は概して寂しい。写生的な素直な詠みぶりだが、描かれている動植物のほとんどが孤独を漂わせている。

 

 これに対して芥川の俳句は理詰めである。「徐福去つて幾世をぞひる霞む海」や、蕪村を意識した「星月夜岡につゝ立つ武者一騎」などが理知句の代表だろう。また俳句の玄人と素人を隔てる敷居はその滑らかさである。芭蕉は「黄金を打ち延べたる如き句」を理想としたが芥川の句はゴツゴツしている。しかしその中に「初秋の蝗つかめば柔かき」といった、不気味な精神の彷徨が入り交じるのが芥川らしいとは言える。漱石が〝俳句はこんなもの〟といった姿勢で無理なく詠んだのに対し、芥川は少しだけ俳句に本気だったのだろう。そのため詰め込み過ぎの句が多い。だが小説と同様の手つきで俳句に様々な事柄や思想を詰め込むのは無理がある。

 

 俳句として見れば、漱石の方が芥川より一日の長がある。ただそれも相対的なものである。漱石も芥川も、小説家として日本文学史に名前が残る作家でなければその俳句作品が注目されることはなかっただろう。つまり文人俳句は、俳句文学にとっての反面教師のようなものだ。俳句作品自体からはとりたてて学ぶものがないのだから、彼らが何を意図して俳句を詠んだのかを理解しなければ文人俳句を読む意味はない。彼らの文学の全体を理解した上で、その中での俳句文学の位置づけを探ることが、俳句とは何かを理解するための示唆を与えてくれる。

 

 俳句を好んだと言っても漱石と芥川には質的な差がある。明治二十年代から四十年代の文学を読めばすぐわかることだが、この時代の文学ジャンルは混沌としている。漱石だけでなく、幸田露伴、尾崎紅葉、樋口一葉らも俳句や短歌を詠み、漢詩を書いている。マルチジャンルで表現を試すのがこの時代の文学者の特徴だった。正岡子規が俳句だけでなく、短歌や漢詩、それに自由詩や小説をも書き残しているのは周知の通りである。漱石は『吾輩は猫である』を書く以前は、文学的には子規門の弱小俳人の一人だった。漱石は子規派から現れた最大の小説家である。高濱虚子もまた小説家を目指したが、芥川の登場で作家になることを諦め、俳壇復帰したのはよく知られている。

 

 これに対して芥川は現代文学創生期の作家である。周知のように芥川の盟友・菊池寛は文藝春秋社を興し、雑誌の新人賞を受賞してデビューし、文芸誌に作品を掲載するのが作家だという不文律的な、だが実質そうでなければならないという強力な文壇システムを作った。親友・芥川の自殺に衝撃を受け、芥川賞・直木賞という純文学と大衆文学の新人賞(文芸誌の新人賞を受賞した作家のうち、優れた作家を顕彰するという不文律がある)を創設して、現在に至る文壇システムを確固たるものにした。

 

 簡単に言えば漱石は詩(俳句や漢詩)を試し結果として小説家になったが、芥川は最初から小説家を目指した作家である。漱石は〝俳句文学はこんなもの〟という見切り方をしているのに対して、芥川があくまで小説家の俳句を書いているのはそのためである。漱石は俳句や小説というジャンルを相対的に捉えていたが、芥川にとってはあくまで小説が表現主体だったということだ。文人俳句の二つの大きな流れ(区分)である。

 

 明治時代とは社会状況が異なるが、現代は文学ジャンルが混沌とし始めている時代である。どの文学ジャンルも明らかな不況産業になっており、現実問題として一つの文学ジャンルに固執しているだけではこの状況から抜け出す道筋が見えて来ない。そのため特に詩人の側から、小説を始めとする他ジャンルに打って出ようとする作家が現れている。しかしこれは簡単ではない。他ジャンルの本質を理解しなければ詩的な小説を量産するだけで終わってしまう。このような時に、文人俳句はジャンルの敷居を考えるための良い教材になるだろう。もちろん先が見えない混沌とした状況だからこそ、既存の文学システムにしがみつく姿勢が露わになっている時代でもある。しかししがみつくなら、誰よりも深くそのジャンルの本質を認識把握しなければならない。

 

 私は戦闘中、ふとした折に非常に冷酷な理知にむき合つて驚くことがありました。その瞬間、これは私自身のものではなく、なにかはるかなところにある他のものゝ意思ではないだらうかと思つたほどでした。(略)やがて私は、これは私性来のものであり、情念や感覚の下積みになつてゐた古い瘤みたいなものであつたことに気がついたのです。(略)そしてこの瘤が真理であればあるほど、私の不得手な「思索」を授けて呉れたやうに思へるのです。

(富澤赤黄男「寄(シン)」 句誌「旗艦」昭和十五年五月号より)

 

 「俳句界」八月号には「語り継ぎたい戦時下の俳句」特集が組まれている。引用は富澤赤黄男の書翰の一部である。赤黄男は戦闘中に「非常に冷酷な理知」を感じ、それは「私自身のものではなく、なにかはるかなどころにある他のものゝ意思」ではないかと感じた。しかしやがてそれを、「私性来のものであり、情念や感覚の下積みになつてゐた古い瘤みたいなもの」だと認識するようになる。赤黄男は思想的作家だが俳論などはほとんど書き残さなかった。「この瘤が真理であればあるほど、私の不得手な「思索」を授けて呉れたやうに思へるのです」という言葉は赤黄男文学を読み解くためのキーだろう。

 

 「古い瘤」は一個の人間の理知を超えた次元にある。つまり赤黄男俳句には理知を超えた古い基層があるということだ。俳句を書くには知性が必要だが優れた俳句は理知から生まれない。漱石のような文人俳人であれ、赤黄男のように全身全霊を俳句表現に捧げた作家であれ、ステレオタイプな〝俳句文学〟を相対化しているのは同じなのである。

岡野隆

 

 

 

 

漱石俳句集 (岩波文庫) 芥川竜之介俳句集 (岩波文庫)

 

 

 

 

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