「俳句界」九月号の「魅惑の俳人」は本宮哲郎である。昭和五年(一九三〇年)新潟県小池村(現・燕市)に生まれ、平成二十五年(二〇一三年)に八十三歳で没した。俳歴は長く、十八歳の時に結社誌「雲母」に入会し飯田蛇笏・龍太に師事した。五十六歳で「雪国雑唱」で第一回俳句研究賞を受賞し、平成十二年(二〇〇〇年)、七十歳の時に『日本海』で第四十回俳人協会賞を受賞した。俳誌は「雲母」のあと、「河」や「麓」に参加したが自らは結社誌を持たなかった。編集部のリードに、「「俳句が好きだから、俳句が作れればそれでいい」という哲郎の言葉は、俳句本来の思いであり、俳句の原点であろう」とある通りである。
長男に生まれて老いて雪下ろす
このような句に本宮の俳句の特徴がよく表れている。文学者には資質というものが抜きがたくある。何よりも現実の人間関係に強い興味を持つ人は小説を書くだろう。花や鳥などの自然に激しく心惹かれる資質を持つ人が俳人になってゆく。形式についても同様である。俳句は――それを意図的に逸脱するにせよ――五七五に季語の定型を踏まえなければ成立しない。俳人はまず俳句形式を絶対のものとして受け入れるわけだ。しかし誰もがそうできるわけではない。たとえば自由詩の詩人は本質的に形式を嫌う。自由詩人は生涯に渡って俳句形式の中で表現し続けることが、決してできない表現者である。
「長男に生まれて老いて雪下ろす」は文字通りの句である。裏の意味はないし悲壮な覚悟もない。本宮は自らの境涯をなんの躊躇いも疑問もなく受けとめている。彼はまず農民であり、その上で俳人だったということだ。実社会であれ、文学の世界においてであれ、結局のところひたすらな世間的栄達を求める近代的自我意識と比較すれば、本宮のそれは前近代的かもしれない。しかし彼が詠んだ句は意外に強い。
牛叱咤して満開の花の下
人の死をいつもうしろに春の雪
あたらしき雪が空より父の墓
雪解けや湯釜のやうな信濃川
風の日は風にしたがひ種を蒔く
吊鐘の中まで吹雪き年迎ふ
花冷えの田より抜きたる足二本
これらの句は基本的に写生句であり実感句である。なんの変哲もない句であり技巧も凝らされていないように見える。ただこれほどまで滑らかな句を読むためには、何事かを大胆に切り捨てねばならない。いわゆる前衛俳人が、作品から写生や実感を排除するのと同じである。無技巧的に見える俳風の中で本宮はその文学的成熟を深めている。読者があっと驚くような斬新な表現や取り合わせはないが、本宮の句では符丁のようにイメージが重層化している。
白菊の白深くしてふと翳る
父に死が近づき風の白薔薇
漬茄子に荒塩打つて逝きにけり
あたたかき乳房がふたつ雪女
初夢にあかい蕪を洗ひをり
大地より火の手があがり田の仕舞ひ
立ち眠る馬満月の翳の中
「白菊の白深くしてふと翳る」から「あたたかき乳房がふたつ雪女」までの句は白が基調である。「初夢にあかい蕪を洗ひをり」「大地より火の手があがり田の仕舞ひ」の基調は赤であり、「立ち眠る馬満月の翳の中」は黄色である。意識して色を強く感じさせる句を詠んだわけではあるまいが、これらの句で白や赤や黄色は色彩を超えた抽象レベルにまで達している。文学では結局のところ、感性的符牒が秀作を生む。知力の限り考え抜くことは大事だが、それが当たり前になった後に、感性の深部から湧きだしてくるイメージの符牒が理知を超えた秀作になる。
俳句は短い表現だが、必ず作者の特徴(自我意識)が表現される。だから俳人を志す者は、自らの自我意識に合った俳風を選択しなければならない。そのため初発の段階で俳句の入り口を間違えると、その後苦労することになる。一つの俳風を選択するということは、その他の俳句の表現可能性を切り捨てることになるからだ。
たいていの俳人は、若ければ若いほど早く世に出たいだろう。他者から評価を受けたいだろう。しかし身動きの取れないほどある俳風(書き方)に染まってしまう前に、自己の資質について深く考える必要がある。俳人として句集を出し、スタートを切ってしまった後でも同じことである。無理に言語派を気取っても実感派(伝統派)を選択しても、資質に合っていなければいずれ書けなくなる。本宮の自らの資質に合った俳風とその自在な詠み振りは、彼が優れた俳人だった証左である。
高濱虚子は関東大震災の折り、沈黙を通し、記者の質問に「あれは俳句にはならん」と言ったという。(中略)
私事で恐縮だが、私は東日本大震災で大きな被害を受けた。(中略)しばらく経つと慰問に訪れる人々も増えてきた。歌手が慰問に訪れ最後に「故郷」を皆で歌った。涙を拭っている被災者の姿が今も忘れられない。歌には力がある。(中略)俳句はそのような時どんな力になり得るか。これは今も考え続けていることである。(中略)
今月の作品に接して、不思議な力を得た様に思っている。とても大きく、明るいのである。そして強いて言えば懐かしい。例えばこうした作品を震災に限らず何かの挫折の折に読んだら、ある程度力づけられるのではないか。勿論幸せなものはさらにその充実度を増すこともできよう。案外俳句の可能性はそのようなところにあるのかも知れない。
(今瀬剛一「新作巻頭3句鑑賞 快く大きい把握こそ」)
九月号掲載の今瀬剛一氏の文章は、短いが震災と文学について考えるための良いテキストである。震災でわたしたちの心を激しく動揺させたのは〝事実〟である。まず映像が圧倒的迫力と残酷をもって迫り、それを描いた文章がわたしたちの心を震わせた。しかしそれはあくまでイレギュラーな出来事である。文学者なら、いつまでも震災がもたらした事実的衝撃に寄りかかっていることはできない。
関東大震災を「あれは俳句にはならん」と切り捨てた虚子の姿勢は正しいと思う。天災には意味などない。それは空虚な陥没点である。しかし震災で生き残った人には次の日の生活が始まる。それは徐々に日常へと雪崩れ込んでゆく。そこでの悲惨と希望の方が大切だろう。震災の衝撃は、いつもと変わらない日常の中で自ずから表現されてゆくのがふさわしい。文学は事実伝達のための道具ではない。
作家にとっての理想的生活は、文学などという浮き世離れした表現に血道をあげながら、それを絶え間ない日常の仕事にしてゆくことにある。無名有名を問わずプロとアマチュアの違いは、文学を趣味と捉えているのか、労働と捉えているのかにある。口を開けて他人頼みの仕事が降ってくるのを待つのではなく、自分で仕事を作るのだ。その意味で日々種を植え作物を育てるように紡がれた農民文学(俳句)は、文学者にとっての一つの理想だろう。当たり前だが震災のような外来の衝撃を待っていたのでは、文学者は仕事ができない。
岡野隆
■ 本宮哲郎さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■