「月刊俳句界」七月号の特集は「俳句再入門~実はわかっていない俳句のこと」である。編集部の特集前書きには「知人に誘われたから、あるいは、カルチャーに通いはじめて、俳句を始めた人は多い。初学の頃は先生に教えられるまま俳句を作り続けたのではないか。しかし、俳句作家として、もうワンステップ飛躍するためには、俳句はなぜ季語を入れるのか、なぜ五七五なのか、など基本を深く理解することが必要だ」とある。短いが考えさせられる文章である。
俳句は〝習うもの〟つまり〝習い事〟である。これは俳句芸術の基本だが、習い事などというとなにやら遊びの雰囲気が漂って、反発を感じる俳人もいらっしゃるだろう。しかし形式があるというのはそういうことなのだ。習い事というのは、なにも先生に手取り足取り技術を教えてもらうことではない。俳句に本気になれば、いずれかの時点でなぜ俳句は五七五なのか、なぜ季語が必要なのかを考えなければならなくなる。それには言語学から古典文学に至る知を動員せねばならないだろう。そうしなければ、かりそめのものであれ「俳句とはなにか?」という問いに対する一定の認識は得られない。俳句には参照すべき〝本体〟がある。俳人はそれを倣い習っている。俳句初心者でもベテラン俳人でも、常に倣う・習う姿勢がなければならないのは同じである。
この〝倣う・習う姿勢〟は過去を向いている。特集でも俳句の前身には「旋頭歌→長歌→短歌(和歌)」という短歌成立の歴史があり、中世から江戸初期にかけて、それが「連歌→連句→発句→俳句」と変遷したと書かれている。「俳句とはなにか?」を知るには、まずこれら古典文学を探求しなければならない。別に学者のように研究にいそしむ必要はないが、過去の優れた俳句作品を渉猟しなければ、俳句文学の本質を捉えるのは難しい。
また現在では短歌と俳句は異なる文学ジャンルとして認知されているが、その大元は同じである。俳句は中世室町時代に短歌から派生した。乱暴なことを言えば、俳句文学の成立は短歌の究極の近代化である。そこで何が切り捨てられたのか、何が新たに重視されるようになったのかを問うことは、日本文化の本質に迫るテーマだろう。短歌・俳句文学は日本文学(文化)の基層である。
一方で、文学には作品にどうやって〝現代〟を取り入れるのかという問題がある。芭蕉による俳句文学の確立は、江戸最初の文化興隆期である元禄時代の現代性を抜きにしては考えられない。この時期には井原西鶴による浮世草子や近松門左衛門の人形浄瑠璃も成立した。尾形光琳、乾山、野々村仁清といった画家や陶工たちが活躍した時期でもある。与謝蕪村が活動した天明時代も同様である。天明時代は漢詩や南画の全盛期であり、浮世絵の全盛期を間近に控えていた。社会情勢が大きく変わった時期に、俳句文学は的確にその影響を取り入れている。近代における最も大きな社会変化は明治維新であり、子規を始めとする多くの優れた俳人を輩出した。子規から始まる有季定型(写生)俳句は今でも俳句文学の基本である。
しかしまず何よりも古典に倣い、習わなければならない俳人の精神はどうしても保守化してしまう傾向がある。「俳句には五七五に季語、それに写生的姿勢だけあれば良い」と言ってしまえば、それはその通りである。ただ現代人が詠むのだから、現在詠まれている俳句には自動的に〝現代性〟が含まれると考えるのは少し楽観的過ぎるだろう。戦後から現代を生きた俳人はわたしたちにとって直近の現代俳人だが、物故した直後からその現代性が色あせ始めることが多い。現代性はそれを取り入れようとする作家の意志がなければ作品には反映されない。
石工の掌が税務署の蠅を摑んだ 飴山實
紡績女工の夕日の列よ北風の畦
小鳥死に枯野によく透く籠のこる
どの椿にも日のくれの風こもる
法隆寺白雨やみたる雫かな
俎の鯉の目玉に秋高し
妻いねて壁も柱も月の中
あおゝゝとこの世の雨の箒草
烏瓜しんじつたかきところより
福豆の升をこぼれしひゞきかな
青竹に空ゆすらるゝ大暑かな
かなゝゝのどこかで地獄草紙かな
海鼠腸を立つて啜れる向かう向き
七月号の「魅惑の俳人」は飴山實である。昭和元年(一九二六年)生まれで平成十二年(二〇〇〇年)に七十四歳で没した。京都大学農学部農芸化学科を卒業後、大阪府立大学、静岡大学を経て山口大学農学部教授を長く勤めた。俳人として知られるが、醸造学の権威としても著名である。沢木欣一主宰の句誌「風」に投句し始めたのが俳歴の始まりで、安東次男とともに同人誌「楕円律」にも参加した。安東は終生に渡る飴山の友だった。
飴山氏の句業は戦後の一つの典型だろう。「風」は社会性俳句を担った代表的句誌の一つである。飴山氏も初期には「石工の掌が税務署の蠅を摑んだ」といった、社会批判を含む作品を数多く詠んでいる。その後、氏は古典俳句の道に赴いた。飴山と同様に多くの戦後俳人が社会批判を現代性として捉え、そののち古典的俳句風土へと回帰していったのである。飴山氏の弟子に長谷川櫂氏がいるのは偶然ではない。長谷川氏の端正な古典的作品の完成度はすでに師を超えている。長谷川櫂的な俳句の詠み方を至上のものとすれば、彼が一番上手な俳句詠みのはずだ。ただ長谷川氏は東日本大震災に衝撃を受けて『震災歌集』『震災句集』を刊行した。師・飴山氏と同様に社会的変動を作品化したのかもしれない。
社会性俳句でも、言語派である高柳重信系の現代俳句であってもいいが、現代の俳人は若い頃に、なんらかの形で〝現代性〟を作品に取り組むための糸口を摑んでおく必要があるだろう。当初は現代詩的な奇矯な表現を良しとしても、俳句を書き続けていれば必ずその古典的基層に回帰するはずだからである。俳壇では六十歳くらいの還暦世代が〝中堅〟と呼ばれるが、それには理由がある。このくらいの年齢になれば、言語表現をいくら工夫しても俳句の屋台骨はビクともしないことがわかってくる。俳人は一種の古典回帰を果たしてからが勝負である。多行俳句や無季無韻俳句を続けている前衛系の俳人も同様だ。彼らの句で詠まれている内容は、年を重ねれば必ずと言っていいほど古典的なものに近づいてくる。
通されて深山のごとき夏座敷 柴田佐知子『青簾』連作より
五月雨や竹あるかぎり竹の節
風鈴のほかは加へず母の部屋
水遊び水ちらかしてみな消えし
仮の世へ仮の貌出す蟇
冥途よりこの世暗しと蟬しぐれ
すててこの脛より父の老いて来し
後の世はすぐそこの世ぞ青簾
しやがむ子に蟻も地べたも限りなし
遠泳につきゆく船の見ゆるのみ
七月号では柴田佐知子氏の『青簾』連作が印象に残った。柴田氏の句業には詳しくないが、『青簾』連作は秀句だと思う。これら連作に〝現代性〟は希薄である。ただ「通されて深山のごとき夏座敷」「水遊び水ちらかしてみな消えし」といった作品には、現代の茫漠として中心の見えない喪失感が良く表現されている。また作家の自我意識表現は希薄なのだが、俳句が何に連なっているのかがよくわかる。しゃがみ込む子供は蟻も地べたも限りないものとして捉えているが、それは「後の世」に、もっと言えば一人の俳人の生死を超えた俳句文学の大きな流れに連なっている。「しやがむ子」は作家そのものだろう。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■