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於・東京国立博物館

会期=2014/06/24~09/15

入館料=1600円(一般)

カタログ=2500

 

 

 以前、中国故宮博物館所蔵の名品展『北京故宮博物院200』について書いたが、今回は台湾の台北國立故宮博物院所蔵の名品を集めた『特別展 台北國立故宮博物院 神品至宝』展である。昨今中国がもの凄い勢いで経済成長を遂げ、アジア圏における政治的・軍事的プレゼンスが増大しているという報道が毎日のように為されているが、チャイナは昔から広大なエリアで文化圏である。

 

 中華圏というまとめ方をすれば、それは世界中に拡がっている。シンガポール、フィリピン、ベトナムなどの東南アジア圏には昔から華僑がいて、地域に根ざした独自のコミュニティを構成している。日本を始め世界各国にチャイナタウンがあるのも周知の通りである。以前、ウォン・カーウァイ監督の映画『ブエノスアイレス』を見ていたら、主人公はブエノスアイレスの小さな中華料理店でアルバイトをしながら生活していた。アルゼンチンにもチャイナタウンはあるようだ。カーウァイ監督は、地球儀を回すと香港の正反対にあるのがブエノスアイレスだから、そこでロケして映画を撮ろうと思いついただけのようだが、中国人は同胞を頼って世界中で生きていけるのかもしれない。

 

 政治的に言えば、中国人の国家は言うまでもなく中華人民共和国と中華民国である。メイン・チャイナとタイワン・チャイナと呼ぶ方がしっくり来るかもしれない。説明するまでもなく、メイン・チャイナは経済自由化は果たしたが共産党一党独裁国家である。もう富の分配は行われていないのだからコミュニズム国家とは言えないが、メイン・チャイナ独自の理由で中央集権的全体主義体制を堅持している。それに対してタイワン・チャイナは、まだ歴史は浅いが議会制民主主義国家である。

 

 ただメイン・チャイナは二つの中国を認めていない。メイン・チャイナの力が増すにつれ、世界各国はメイン・チャイナ重視の外交にシフトしているので、タイワン・チャイナはだいぶ前からちょっと苦しい立場にある。それを反映して、台湾中国国民党はメイン・チャイナとの協調路線を打ち出したのだが、つい先日行われた総統選挙でタイワン・チャイナ独自路線を唱える民主進歩党の蔡英文氏が総統の座についた。これはタイワン・チャイナ建国の歴史を考えれば当然の揺り戻しだろう。しかし長い目で見れば、メイン・チャイナとタイワン・チャイナがゆるやかな統合に向かう可能性は十分あると思う。

 

 当然のことだがメイン・チャイナとタイワン・チャイナは、いずれも〝正統中国(中華)政府〟を自認している。国際法的な解釈はいろいろあるが、国家間の紛争においてはたいてい力のある方の主張が通る。領土の広さ、人口の多さ、資源の豊富さ、経済・軍事力においてもメイン・チャイナが圧倒的に有利なのは否めないだろう。ただタイワン・チャイナ正統中国政府説の根拠は確かにある。その一つが台北國立故宮博物院の至宝である。

 

 かつてメイン・チャイナの紫禁城に秘蔵されていた宝物は、現在、メイン・チャイナの故宮博物院とタイワン・チャイナの故宮博物院に分蔵されている。「そんなことで」と思われるかもしれないが、この宝物を所有している限り、国際法などの解釈とは関係なく、民族精神の核心としてタイワン・チャイナは正統中国政府を自称する権利がある。中国人にとって故宮秘宝はたんなる古物ではない。国家のアイデンティティに関わるまさに至宝である。僕は純度百パーセントのノンポリで確固たる政治的意見など持っていないが、故宮宝物を見ていると中国文化のエッセンスの一端がはっきりわかるように思う。故宮宝物に表れているような国家と物の関係は、世界中を見渡しても中華国家独自のものだろう。

 

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玄宗皇帝玉冊 唐時代 開元十三年(七一五年)

柔玉 各長二八・六~二九・一 幅二・九~三 厚〇・九センチ

 

 『玄宗皇帝玉冊』は古くから紫禁城に伝わった宝物ではなく、中華民国二十年(一九三一年)に偶然発見された。国民革命軍第十五路軍総指揮の馬鴻逵(ばこうき)が、死去した兵士の記念碑を建てようと泰山の麓を掘り返したところ、この『玉冊』が出土した。一九七〇年になって馬鴻逵の親族が蒋介石に『玉冊』を寄贈して台北國立故宮博物院の所蔵になった。馬鴻逵はとんでもない物を見つけたものだ。また蒋介石はこの『玉冊』が台湾所蔵になったことを喜んだだろう。

 

 『玉冊』は玄宗皇帝の封禅の儀式に使われた物である。玄宗の在位は四十四年の長きに及ぶ。施政前半はたぐいまれなる善政で唐時代の全盛期を出現させ、後半は寵姫・楊貴妃に溺れて政治がおろそかになり安史の乱を招いた。遣唐使・阿倍仲麻呂が日本に帰国しようとして果たせず、生涯重臣として仕えたことでも知られる。封禅は皇帝が太平の世を祝福するために泰山で行う儀式である。天に対して感謝を捧げるのが「封」で、地に対して感謝を捧げる儀式が「禅」である。司馬遷は『史記』で始皇帝以前に七十二人の皇帝が封禅の儀式を行ったと書いている。司馬遷が仕えた武帝が封禅の儀式を行ったのは確実である。

 

 『玄宗皇帝玉冊』は唐宋二代皇帝の『玉冊』が重なった形で出土した。玄宗の『玉冊』は宋の太平興国年間(九七六~九八四年)に一度出土したが、宋の真宗(しんそう)は封禅を行う際に、玄宗『玉冊』の上に自身の禅地祇玉冊を置いて埋納した。つまり『玄宗皇帝玉冊』は歴代皇帝の正統性を示す遺物である。中国では天が皇帝を選ぶ。あるいは皇帝は天から選ばれる。そのため皇帝の出自は問われない。農民出身でも貴族でもかまわないのである。また天の意志が去れば新たな皇帝が選ばれ新たな王朝が出現する。いわゆる天命革命思想である。万世一系である日本の天皇制とは質が違うが、中国では歴代王朝・皇帝の上には不変の〝天の意志〟があると考える。そのため氏族や民族が変わっても中国王朝(皇帝)は不変である。『玄宗皇帝玉冊』は正統中国を裏付ける文物になり得るのである。

 

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散氏盤 西周時代 前九~前八世紀

青銅 口径五四・六 高二〇・六センチ

 

 『散氏盤』は青銅製の祭器である。内側に銘文があり、西周時代後期に散国と(そく)国の間で起きた領地紛争の経緯と和解が三百五十字で表現されている。『散氏盤』は清の嘉慶十四年(一八〇九年)に嘉慶帝(かけいてい)の五十歳を祝う大典で、臣下・額勒布(がくろくふ)から皇帝に献上された。常にこういうことが行われているわけではないが、馬鴻逵が『玄宗皇帝玉冊』を蒋介石に贈ったのと同じような力学が働いている。『散氏盤』のような古代青銅器は中国民族と国家のアイデンティティそのもののような遺物であり、持ち主と所蔵先を選ぶ。

 

 ハリウッド映画では財宝というと金銀宝石のイメージが強い。もちろん故宮宝物にもそういった財宝はあるが、そのような宝物が増えるのは近世清朝くらいになってからである。歴代皇帝が宝物中の宝物とみなしたのは書画であり、『散氏盤』のような古代青銅器や『玄宗皇帝玉冊』のような(ぎょく)器だった。司馬遷『史記』は中国最初の王朝を紀元前二千年頃の()としているが、遺跡はまだ発掘されていない。ただ次の殷、周(西周)の遺跡は見つかっている。そしてこれら古代王朝で最も珍重されていた宝物が青銅器と玉器だった。

 

 『周礼』、『儀礼』、『礼記』(「三礼」と呼ぶ)などの古文献には、祭祀の際に青銅器と玉器を使ったという記述がある。歴代中国皇帝は三礼に倣って祭祀を執り行った。その際、祭器の原型(オリジン)とみなされたのが殷周時代の青銅器と玉器だった。これらの古代青銅器と玉器は前漢時代から蒐集され始めていたようだ。歴代王朝は宝物の蒐集につとめ、それが次第にまとめられ、王朝が代わっても受け継がれてゆくようになる。また歴代皇帝が青銅器を珍重した理由は、そこに文字(古代文字)が書かれているからでもあった。

 

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草書遠宦帖巻 王義之筆 (原本)東晋時代 四世紀

紙本搨模 縦二四・八 横二一・三センチ

 

 『草書遠宦帖巻(えんかんじょうかん)』は、王義之(おうぎし)が益州刺史の周憮に宛てた草書の尺牘(せきとく)(手紙)である。よく知られているように王義之の真跡は存在しない。この『草書遠宦帖巻』は、唐時代に内府の専門職人が双鉤塡墨使(そうこうてんぼく)によって製作した模本である。双鉤塡墨とはオリジナルの書の上に薄紙を置いて極細の筆で書の輪郭をなぞり、中に墨を塗って複製を作る中国独自の精巧なコピー方法である。金、南宋、元、明王朝の歴代皇帝の印が捺されている。皇帝たちは王義之の書を宝物中の宝物として秘蔵してきたのである。

 

 王義之は西暦三〇三年に生まれ三六一年に没した文人である。東晋の政治家だが中央では要職に就かず、自ら地方転出を願って右軍将軍・会稽(かいけい)内史になった。三五五年に会稽で起こった政争に嫌気が差し、自ら職を辞した。ただ義之は風光明媚な会稽の土地を気に入り、晩年まで当地の文人と交流して風雅の生活を送った。義之の名を高めたのは言うまでもなくその書である。楷書、行書、草書などあらゆる書法に優れ書聖と呼ばれる。『蘭亭序(らんていじょ)』はその代表作である。三五三年に会稽の蘭亭で名士四十一人が集う曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩の序文として書かれた。義之は酔いに任せて『蘭亭序』を書いたが、後で清書しても初稿以上の出来にはならなかったと伝えられる。『蘭亭序』の中の「之」の字に、一文字として同じ書体がないことはよく知られている。

 

 時代は下って唐の太宗(六二六~六四九年)が義之の書を愛し、真行二九〇紙、草書二千紙を蒐集した。太宗の蒐集によって書聖・王義之の評価は絶対的なものになった。太宗はまた、先に述べた双鉤塡墨などによって義之作品のコピーを数多く作らせたが、代表作『蘭亭序』は崩御の際に一緒に墓に埋められたと言われる。その後の戦乱などで義之作品の真作は全て失われてしまったようだ。台北國立故宮博物院所蔵の宝物には、欧陽詢(おうようじゅん)臨書石刻の墨拓『定武蘭亭序巻』もある。欧陽詢は唐時代の書家だが原石は失われたため、墨拓ですら貴重な遺物である。

 

 王義之の書に代表される歴代皇帝の書への愛情は、〝書〟こそが中華文明の神髄であることを示唆している。欧米の人々が神のイマージュを至高のものとするように、中華文明では書を至高のイメージとしている。中国歴代王朝は秦、漢、随、唐、宋、元、明、清など一文字で表される。王の権威を示す「(ぎょく)」は王に「、」を一つ足した文字である。中華文明にはいわば神聖文字信仰とでも呼ぶべきものがある。この神聖文字信仰は、中国ばかりでなく日本などの東アジア圏全般で確認することができる。

 

 この神聖文字信仰に、近代になって初めて気づいたのはフランス人のヴィクトル・セガレン(一八七八~一九一九年)である。セガレンは二十世紀以降に日本を含む全世界で採用されることになる、いわゆる〝世界的普遍者の言葉〟で初めて中国文明の神髄に接近した。セガレンは一九一二年に北京で詩集『碑(Stèles)』を刊行した。各詩篇の冒頭に中国の石碑文を置き、その下にフランス語の詩を配置した。またセガレンは小説『ルネ・レイス』で、「北京」の文字は地下の隠された場所に書かれていると記述している。それは神聖文字である。セガレンは袁世凱の私医を勤めていたこともある。最も中国文明に肉薄した最初期のヨーロッパ人だろう。

 

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太液荷風図頁 馮大有筆 南宋時代 十三世紀

絹本着色 縦二三・八 横二五・一センチ

 

 現在メイン・チャイナ、タイワン・チャイナの故宮博物院に所蔵されている宝物は、北宋第八代皇帝・徽宗(きそう)(一一〇〇~一一二六年)のコレクションが中核になっている。徽宗の漢民族国家・宋は、北方から南下してきた満民族の金(後の元)によって圧迫され、北宋から南宋へ遷都せざるを得なくなるが、この時期に中華文化は未曾有の発展を遂げた。徽宗は風流に耽って国を滅亡させた暗愚と言われることもあるが、その功績は一国の命運よりも遙かに高く評価されている。徽宗はそれまで歴代皇帝が蒐集して来た文物を系統立って分類し、『宣和博古図(せんなはっこず)』三十巻などにまとめた。また徽宗自身優れた書家で画家でもあり、宋の宮廷画壇は次々に素晴らしい作品を生み出した。

 

 馮大有(ふうだいゆう)は南宋時代の宮廷画家で、『太液荷風図頁(たいえきかふうずけつ)』はその代表作である。作品を見ればわかるように、精緻な写実技法で書かれている。中国でも日本でも十九世紀になるとヨーロッパ絵画がじょじょに移入されるようになり、その影響を受けた作品が増えてくる。しかし写実技法自体は南宋画壇から存在していた。その技法を踏まえた上で、中国や日本の画家たちはヨーロッパ絵画の技法を受容していったのである。日本では伊藤若冲のような幕末の画家はもちろん、前回取り上げた速水御舟らも南宋絵画の影響を受けている。

 

 さらに重要なのは、徽宗の宋王朝コレクションが、その後、歴代王朝に引き継がれたことである。北宋の首都・開封(かいふう)が金に制圧されると、宝物は北方の金へ持ち去られてしまった。しかしそれにより異民族であった満民族の間に漢文化が花開く。また元が滅びれば明が、明の後は清朝が徽宗コレクションを受け継ぎ、それを充実させてゆく。清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)は辛亥革命によって退位し紫禁城を後にするが、その際宝物には手つけず、ほぼそのまま宮城に残した。宝物を私物化したり、滅却してしまった皇帝はいないということである。それは天意が去れば皇帝は退位し、新たな王(権力者)が宝物を所有して次代に伝えてゆく義務を負うという中国文化と人民の総意を表している。

 

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容膝斎図軸 猊瓚筆 明時代 洪武五年(一三七二年)

紙本墨画 縦七四・七 横三五・五センチ

 

 『容膝斎図軸(ようしつさいずじく)』は、南宋画壇の『太液荷風図頁(たいえきかふうずけつ)』とは打って変わって墨一色の水墨画である。作者猊瓚(げいさん)は元末四大家の一人である。裕福な資産家の家に生まれたが人嫌いの孤高の文人で、五十二歳の時に資産を整理して故郷を離れ、以来二十年もの流寓生活を送って七十二歳で没したと伝えられる。『容膝斎図軸(ようしつさいずじく)』は七十二歳の時の作で、医師・藩仁中(はんじんちゅう)の私邸『容膝斎(ようしつさい)』を描いたものだと言われる。漢人の猊瓚にとって満民族が治める元時代は厭うべきもので、猊瓚は強い意志を持って反俗を貫き風流の人として世を終えた。いわゆる最初期の文人画であり、現実の風物を写生するのではなく、画家の心の中にある理想郷を表現している。

 

 中国の文人は単に風流を愛する趣味人ではない。政治的に圧迫され疎外された者が文人の道を選び、その名誉を死後の評価に托すのである。また実際、皇帝はその画業の真価を的確に見抜き、故宮宝物に加えた。それは青銅器や玉器など皇帝の権威を示す古代宝物だけでなく、中央権力から疎外され、鬱屈した人生を歩んだ文人の作品までもが皇帝(中華国家)の宝物に属すことを示している。極端な言い方をすれば、中国人が生み出した優れた文物は、上から下まですべて皇帝(中華国家)のものである。

 

 中国文化の大きな特徴に、文化はほぼすべて皇帝と王朝の権力周辺で生まれていることがある。孔子を始め、孟子、老子などの思想家は権力者の側にはべり、皇帝に政道を説くことを夢見た。李白、杜甫などの詩人も同様である。彼らは科挙に合格して中央政界に重きを為すことを夢想したが果たせず、詩の表現に全人生を賭けたのである。中国王朝は広い国土を統治せねばならず、代々過酷なほどの中央集権制度を敷いてきたが、中国ほど文化までもが中央権力に直結している国は少ない。この伝統がどうなるのかは不明だが、中華民族の伝統として、それはある程度まで継承されてゆくのではなかろうか。

 

 宋の徽宗と並んでもう一つの故宮宝物のピークを為すのは清朝・乾隆帝(けんりゅうてい)御物だが、これについてはまた別の機会に論じたい。ただ今回の展覧会を見ても圧倒的な迫力を持って迫ってくるのは書画であり、陶磁器や金工などの影は薄い。乾隆帝時代にはヨーロッパ文化の影響もあって様々な精緻な工芸品が作られた。それらは過去の中華文明を向いているというよりも、現在から未来に向けての中華文化の礎になっている。現代の中国人が最も好むのは清朝の文物、中でも乾隆帝御製のそれである。

 

 美術館の蔵品と言ってもメイン・チャイナ、タイワン・チャイナの故宮博物院の宝物は、単なる美術品の位置付けではない。よく知られているように、日中戦争が始まると故宮宝物は略奪を恐れて中国各地に疎開した。第二次世界大戦終結でいったんは重慶に集結(「南遷」と呼ぶ)したが、一九四八年に国共内戦が始まり、南遷した文物の約四分の一が蒋介石の命で台湾に運ばれた。数としては圧倒的にメイン・チャイナに残された宝物の方が多いが、蒋介石の命を受けた学者たちは選りすぐった宝物を運んでいる。蒋介石も国民党の学者たちも、故宮宝物の意味を良く知っていたのである。

山本俊則

 

 

 

 

 

 

台北 國立故宮博物院を極める (とんぼの本) 南宋の絵画 (故宮博物院)