於・世田谷美術館
会期=2015/05/02~07/05
入館料=1200円(一般)
カタログ=2200円
速水御舟は明治二十七年(一八九四年)に東京浅草で生まれ、昭和十年(一九三五年)に満四十歳で夭折した日本画家である。横山大観ら明治から昭和にかけて息長く活躍した大家たちと並ぶ、最も人気のある日本画家の一人である。前回「日本国宝展」について書いたが、御舟作品では『炎舞』と『名樹散椿』の二点が重要文化財に指定されていることもその評価の高さを裏付けている。
御舟作品の人気はその精神性にある。画家にも色々なタイプがあって、御舟は自己の絵画観についてまとまった文章をほとんど書き残さなかった。しかし御舟作品が発している静謐で高貴な精神性は一種独特である。画業一筋と言って良い真面目な人柄で、自己の作品に対しても厳しかった。年末になると書き溜めた作品のうち、意に染まないものを焼き捨てていた。現在残っている御舟作品は六百点ほどである。四十歳で夭折した画家としては決して少ない点数ではないが、御舟作品を欲しがる人がその何千倍もいるのだから、当然、市場での値段は高騰を続けている。
もちろん御舟は生前から現在のような大画家として遇されていたわけではない。気鋭の新進日本画家ではあったが、そのような画家はいつの時代でもいる。御舟作品の評価は、その死後、急速に高まっていったのである。最初の御舟コレクターに、前衛演出家・映画監督として知られる武智鉄二がいる。武智は舞台や映画製作費用捻出のために御舟作品を手放したが、次いで安宅産業の安宅英一が蒐集に乗り出した。安宅コレクションは世界最高峰の朝鮮陶磁器コレクションでもあった。安宅産業は昭和五十二年に倒産するが、朝鮮陶磁を中心とする陶磁器は大阪東洋陶磁美術館に収蔵されることになった。御舟コレクションは売却され、東京の山種美術館が一括購入した。現在山種美術館には百二十点以上の御舟作品が収蔵されている。世界最大の御舟コレクションである。
速水御舟『炎舞』 山種美術館蔵
速水御舟『名樹散椿』 山種美術館蔵
『炎舞』と『名樹散椿』は御舟の代表作で、いずれも山種美術館所蔵である。特に『炎舞』は図版などで一度は見たことがある方も多いのではないかと思う。絵画はトップレベルの作品から見てゆかないと、画家の全貌が捉えにくいところがある。世田谷美術館で開催された『速水御舟とその周辺』展では、残念ながら最高の御舟代表作は展示されていなかった。山種美術館にとっても御舟作品は美術館の顔であり、長期間貸し出すのはなかなか難しいようだ。ただ世田谷美術館の『速水御舟とその周辺』展は、世田谷という地域に根ざした美術館らしい秀逸な内容だった。
『速水御舟とその周辺』の意図については、図録冒頭で学芸員の石井幸彦氏が書いておられる。御舟には二人の弟子がいた。高橋周桑と吉田善彦である。高橋周桑は愛媛の人で、御舟の画集を見て感銘を受け、上京して弟子になった。御舟は当初弟子を取るつもりはなかったが、周桑の懇願に根負けしたようだ。御舟二十七歳、周桑二十一歳の時のことである。周桑は御舟が亡くなるまで御舟の制作を手伝った。周桑は御舟の死後美術界を離れたが、昭和二十三年に創造美術を結成して画壇に復帰した。没後二十年の昭和五十九年に、周桑の郷里、愛媛県立美術館分館で回顧展が開催された。
吉田善彦は東京品川の生まれで、幼い頃から絵が上手かった。従姉の弥が御舟と結婚したことから親戚になり、自然と御舟に師事することになった。師事したのは御舟晩年の五年間ほどである。善彦はその後昭和十五年の文部省による法隆寺金堂壁画模写事業に加わり、橋本明治班で筆をふるった。昭和二十九年には安田靫彦の弟子になり、昭和四十二年には朝日新聞社企画の法隆寺金堂壁画再現事業に、靫彦の弟子の一人として加わった。昭和四十四年からは東京藝術大学で教鞭をとった。画家としては金箔を使用した吉田様式と呼ばれる独自の画風で知られる。世田谷美術館では平成十年に吉田善彦展を開催している。なお吉田氏の生家は、今の世田谷美術館のレストランのあたりにあったそうだ。
吉田善彦展の開催から世田谷美術館と吉田氏の間で絆ができ、平成十三年(二〇〇一年)に氏が亡くなると、遺族からスケッチなどの紙作品が美術館に寄贈された。それを調査してゆくうちに、吉田氏と御舟の師弟のつながりが非常に強いことがわかり、美術館は当初御舟と吉田氏の二人展を企画した。しかしさらに調査を進めると、御舟は修業時代からの絵の仲間(ライバル)たちと、切磋琢磨しながらその画風を確立していったことがわかった。そのため検証の範囲を拡げ、『速水御舟とその周辺 大正期日本画の俊英たち』という企画展になったのである。
松本楓湖 『武士と幼子』 明治三十六年(一九〇三年) 青梅市立美術館
絹本着色 縦 一〇八センチ 横 四一センチ
速水御舟 『北野天神縁起絵巻 模写』 明治四十二年~大正元年(一九〇九~一二年) 茂原市立美術館・郷土資料館(寄託)
紙本着色 縦 五二・八センチ 横 六八・二センチ
明治の近代化はわたしたちの予想を遙かに超えた速さで進んでおり、三十年代、四十年代には絵を学ぶにしても東京美術学校(現・東京藝大)に入学する者が多かった。しかし御舟は明治四十一年、十四歳の時に自宅のはす向かいにあった松本楓湖の安雅堂画塾に入門した。昔ながらの師弟制で絵を学び始めたのである。楓湖は天保十一年生まれで御維新前から絵師の修行を積んでいた。沖一峨や佐竹永海らに師事したが、最終的な師は菊池容斎である。容斎は有職故実に通じた人で、自身の絵入りの『考証前賢故実』全十一巻を刊行している。楓湖は師の画風を受け継ぎ歴史画を得意とした。
楓湖の安雅堂画塾は放任主義で、弟子たちに師風を強要することはなかったようだ。御舟が安雅堂画塾に入塾したのには、家から近かったからという以上の理由はないようだが、楓湖の放任主義と、基礎を徹底して叩き込む模写の奨励は肌に合ったようである。楓湖の塾には浮世絵から琳派、土佐派、狩野派、四条派、中国絵画に至るまでたくさんの模写用の粉本が揃っていた。楓湖作品を見ればわかるがその技術は高い。御舟も修業時代に歴史画の模写を行っている。その一方で後年の全盛期を彷彿とさせる作品も描いている。
速水御舟 『猫柳に小檎』 明治四十二年(一九〇九年) 茂原市立美術館・郷土資料館(寄託)
紙本着色 縦 一二八センチ 横 六三・四センチ
『猫柳に小檎』は御舟十五歳の作品で、雅号はまだ師・楓湖からもらった禾湖である。御舟作品には木の枝や葉が、上に上に、天を目指して伸びてゆくような構図がかなりある。それが恐らく御舟の目指す精神の高みを示唆している。日本画では余白を上手く使う必要があるが、御舟の場合、必要最低限度のところで筆を止めている印象である。また鳥が一羽描かれているが、なぜかそれが孤独に見える。展覧会用ではなく比較的気楽に描いた作品だが、そういった初期作品だからこそ画家の生地が透けて見える。精神の高揚と孤独、それを際立たせる大胆な余白という基本の上に、御舟は様々な絵画技法を積み重ねていった。
今村紫紅 『山村夕暮』 大正二年(一九一三年) 三渓園蔵
絹本着色 縦 一二五センチ 横 四二センチ
速水御舟 『暮雪』 大正二年(一九一三年) 茂原市立美術館・郷土資料館蔵
絹本着色 縦 五一センチ 横 四〇・八センチ
今村紫紅 『水汲女』 大正三年(一九一四年) 平塚市美術館蔵
紙本着色 縦 一三六・九センチ 横 三二・二センチ
速水御舟 『彼南のサンパン』 昭和七年(一九三一年) 長谷川町子美術館蔵
絹本着色 縦 三八・五センチ 横 五二センチ
作品を見る限り、御舟が最も刺激を受けたのは安雅堂画塾の兄弟子・今村紫紅からだろう。紫紅は明治十三年生まれで御舟より十四歳年上である。紫紅はまさに新進気鋭というタイプの画家だった。高い絵の技術を持っていただけでなく、批評眼も秀でていた。安雅堂画塾で楓湖の弟子として出発したが、後に歴史画の大家となる安田靫彦と親友となり紅児会を作った。明治四十年には茨城五浦の日本美術院研究所で、靫彦と共に岡倉天心の指導を受けている。早くから紫紅の画才を評価していたのが、財界人で大茶人だった原三渓である。三渓は生涯に渡って紫紅を経済的に援助した。
紫紅の画業の特徴はその幅広い画風にある。楓湖譲りの歴史画も描いたが、ヨーロッパ絵画の手法を積極的に取り入れた。『山村夕暮』は紫紅三十三歳の時の作品だが、朦朧体というよりフランス印象画の技法を取り入れている。全体の輪郭ははっきりしているのだが、実際に人間の目が捉える風景を、絶妙にぼかした色彩で表現している。紫紅が『山村夕暮』を描いた大正二年に御舟は『暮雪』を制作した。御舟十九歳の時の作品である。画法は基本的に紫紅と同じである。闇に沈もうとする雪国の家々は確かにこのように見える。それを完全に色と形に分解せずに、具体を残したまま抽象化するところに日本画家の矜持がある。
紫紅は若い頃から肝臓病を患っていたが、三渓から借金をして単身でインドに写生旅行に行った。『水汲女』は帰国後に描かれた作品である。日本とは光と色が異なる場所(対象)を描く際には、絵の技法も大胆に変えてゆくのが紫紅流だった。御舟も昭和五年に美術使節団の一員として渡欧した。『彼南のサンパン』はその経験から生まれた作品である。御舟は紫紅ほど自在に画法を変えられる画家ではなかったが、明るいイタリアの光と色に触れて大きく画法の幅を広げようとしている。紫紅の姿が念頭にあったのではなかろうか。
大正四年(一九一五年)、夕日ヶ岡赤曜会展示会場にて
左から牛田鷄村、黒田古郷、富取風堂、岡田壺中、小山大月、小茂田青樹、御舟、紫紅、吉田幸三郎
大正三年に紫紅は安雅堂画塾の若手画家を集めて赤曜会を結成した。牛田鷄村、黒田古郷、富取風堂、岡田壺中、小山大月、小茂田青樹、御舟らがメンバーだった。目的はもちろん新たな日本画の模索である。紫紅はフランスアンデパンダン展が野外で開かれたという話を聞き、大正四年に第一回赤曜会展を友人の吉田幸三郎邸の敷地内にテントを張って開催した。写真はその時の集合写真である。赤曜会メンバーはトルコ帽に黒マント姿で、紫紅が「悪」とデザインしたバッジを胸に付けていた。今も昔も変わらない画学生の奇矯でとんがった出で立ちである。大正四年当時御舟は二十一歳で、前年に紫紅の住む吉田弥一郎所有の長屋に引っ越していた。
富取風堂は「紫紅さんはその頃、南画、特に八大山人とか鉄斎には興味を持っていた。明画では龔賢の影響を大分受けていた。赤曜会もその手法に従った訳である。明画と鉄斎と龔賢を一緒にして印象派のような手法で現代をスケッチしたのが赤曜会の画風で、一年間でそうしたものが出来上がってしまった」(「紫紅さんと赤曜会」)と回想している。紫紅はその短い生涯を予感したかのように、次々に新たな技法を取り入れていった。紫紅が死去する大正五年(御舟二十二歳)くらいまでが、御舟にとって最も溌剌とした青春時代だったかもしれない。
速水御舟 『白磁の皿に柘榴』 大正十年(一九二一年) 長谷川町子美術館蔵
絹本着色 縦 二七・三センチ 横 二四・二センチ
速水御舟 『夜梅(月下梅花図)』 昭和五年(一九三〇年) 東京国立近代美術館蔵
絹本着色 縦 一〇六センチ 横 三六・二センチ
大正十年頃に御舟は岸田劉生と知り合い、彼の影響で静物画を描き始めた。『白磁の皿に柘榴』はその頃の作品である。パッと見てわかるようにヨーロッパ的な写実画だが、骨格は中国南宋画壇の手法にある。『夜梅(月下梅花図)』は、これはもう御舟にしか描けない代表作の一つである。闇が迫り、白梅の匂いが漂ってくるような絵である。確信的に引かれた梅の枝、絶妙な闇の濃淡、それに比べてざっくりと描かれた月が画家の思想を表している。この作品は具象画だが抽象画でもある。現実の風景が御舟の精神の中で昇華され、現実本質(エッセンス)として絵画に定着している。
御舟は義兄の吉田幸三郎に、「自分のような凡人は、山の中にでも這入って所謂浮き世離れの生活をしなければ画業の達成は望めない」と言ったのだという。御舟が昨今なされているような「天才だ」「大画家だ」といった評価を聞いたら、おとなしい人だから「そんな馬鹿な」と微笑むだろう。日本画家が持っている技術はおしなべて非常に高い。技術なくして日本画家は成り立たない。日本画の世界で大作家と普通の作家を隔てるのは、ほんのわずかな技術と精神の境位である。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■