角川俳句_No.016_01

 

 

 「角川短歌」六月号では「第49回釈迢空(しゃくちょうくう)賞選考委員選評」「短歌賞を考える-第49回 釈迢空賞「該当作なし」を受けて」が組まれています。釈迢空は言うまでもなく民俗学・国文学者で詩人・歌人・小説家でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)です。本来なら受賞作の発表号となるところ該当作なしと決まったので急遽「短歌賞を考える」という企画が組まれたようです。

 

 「釈迢空・蛇笏賞設立のことば」(『短歌』一九六七年四月号)を見ると、「歌人・俳人の生涯にわたる創作・研究の多くは、その彫心鏤骨の努力に比して、報わるるところはなはだ少ない」状況にあって、「このたび短歌・俳句界の最高の業績をたたえる大賞」を設けることになったと記されている。この「短歌・俳句界の最高の業績をたたえる大賞」という位置付けは現在もおそらく変っていないのだろう。(中略)

 しかし、こうした位置付けが年々揺らぎつつあるのも確かなことだ。かつては短歌の賞が数が少なく、迢空賞の権威も自ずと高かったであろうが、近年賞の数は増え続けている。(中略)

 本来は賞ごとにもっと差別化を図るべきだと思うのだが、そうはなっていない。(中略)賞の数が多いこと自体は別に構わないのだが、問題となるのは、それらの選考委員がかなりの割合で重なっているという事実であろう。

(「選考委員の重複」松村正直)

 

 新人は、外部からやって来る。受賞によって、彼らは私たちに認知される。私たちは驚きとともに、ときに反発しながら彼らを迎え入れる。なぜなら、それは常識を見直すきっかけであったり、ときに秩序を攪乱する危険を孕むものであったりするからだ。つまり、それが新しさ。中堅や老練は、内部にいる。受賞によって、わたしたちはその存在を再確認する。それは私たちの典型として承認する機会であり、私たち自身を肯定するための装置。

(「ケの健やかさを回復するために」吉野裕之)

 

 短歌賞受賞作品や選考座談会等を読むたびに僕は、結局短歌における「良い」とは何なのかを考えてしまう。それは選考委員たちにとっての「良い」なのであって、決して絶対的な基準で生じたものではない。(中略)

 そして、言うまでもないことだが、何かが「選ばれる」ということはまた「選ばれない」を存在させることでもある。その点で賞というのは暴力的なものだと僕は思っている。

 短歌賞の意義は、僕がざっと考えただけでも、先ほどのように挙げられる。けれどもたぶん、島田の言うような「ムナシサ」(注-島田修三は『短歌入門』で新人賞獲得の野心を肯定しながらキャリアを積めばそのムナシサに気づくはずだと書いている)の類を前提にしなければ、学びの宝庫であるはずの「賞」が、暴力的なだけの権威に堕する。だからこそ「風通しの良さ」、つまり相対化が必要だと思うのだ。(中略)その風通しの良さや賞の意義は、応募者や読者の側が、賞を自らに活かそうとして作り上げるものなのではないだろうか。それは賞への服従でも反発でもなく、両立の思考によって生まれるものだと思うのである。

(「野心とムナシサ」染野太朗)

 

 少し長くなりましたが面白いので特集からお三人の批評を引用しました。この文章に限りませんが文章は必ず読んくださいと人に強要することはできません。小説はもちろん俳句や自由詩の作家もめったに歌誌を開くことはないと思います。同じ文学と言いながら結局のところ自分が所属するジャンルについての知識しかない場合が多いわけです。ただこれらの文章を読めば歌壇がいかにリベラルな風土なのかがよくわかると思います。

 

 松村正直さんは歌壇には賞が多いけれど差別化が為されていないことや賞の選考委員が偏りがちであることを問題点に挙げておられます。賞の選考委員の重任については長老作家から「わたしたちが絶対的信頼の置ける読解力と公平さを持つ作家が現れたらいつでも交代してあげます」という声が聞こえてきそうですが村松さんがおまとめになったリストを見る限りもう少しバラエティに富んだ選考委員の人選があっても良いかなと思います。

 

 歌壇の賞の数についてはあまりお気になさる必要はないでしょう。俳句の世界にはそれこそ星の数ほど賞があります。ちょっと才気のある若手俳人でなんらかの賞を受賞していない人はほぼ皆無と言って良いような状態です。なぜそんなことになるのかと言えば主に大結社が中心になって賞を出し有望若手俳人を自らの結社に取り込もうとする未必の故意が働いているからです。そのため権威ある俳句の賞は本当に数えるほどしかありません。またその賞も大結社の意向に左右されています。俳壇では賞という制度が有効に機能しているとは言いがたい状態です。

 

 吉野裕之さんと染野太朗さんはシニカルな思考を排して賞をできるだけポジティブに捉えようとなさっています。「私たちは驚きとともに、ときに反発しながら彼ら(新人)を迎え入れる」という吉野さんの発言はとても正直だと思います。また染野さんは賞は風通しよくあるべきでそれを可能にするのは「賞への服従でも反発でもなく」「応募者や読者の側が、賞を自らに活かそう」とする「両立の思考」だと論じておられます。これらの発言から読み取れるのは歌人たちが総意として賞を歌壇全体に寄与する仕組にしたいと考えているということです。少なくとも歌壇では歌人たちがはっきり賞を主導しその性格を規定しています。

 

 身も蓋もない話しですが小説界では新人賞から有名賞に至るまで受賞を決めるのは編集部です。選考委員の作家先生たちは編集部が残した作品のせいぜい二三を読むに留まります。呆れる方もいらっしゃると思いますが仕方がないのです。なんやかんやいって短歌俳句自由詩は短い表現です。作品集を読むと言っても一冊三十分もあれば概要は把握できます。しかし小説はそうはいきません。小説家が時には数百に及ぶ応募作を読むのは不可能です。また小説家は日々作品を書く文字通りの〝労働〟をしています。一日五枚から十枚程度しか原稿を書けない小説家に何日もかけて応募作を読んで欲しいと依頼するのは現実的ではないのです。そのため看板としては小説家が表に立ちますが小説文壇は実質的に雑誌編集部が運営しています。

 

 自由詩の詩壇はよくわかりません。詩壇と言えるようなものがあるのかどうかすら危うい状態ではないでしょうか。読まれている現存作家は谷川俊太郎さんと銀色夏生さんくらいで後はほぼ横並びで本が売れていません。賞を受賞しても作品や批評で対外的にアピールできるようなコンテンツを書ける作家も現れません。また短歌俳句とは比べものにならない小さなマイナージャンルにも関わらず意外なほどメディアの力が強くリベラルに詩について論じ自由詩の世界全体を盛り上げてゆこうという機運はほとんどないようです。元々自由詩の詩人たちは個々に切り離されていますがここに来てそれがさらに顕著になっていると思います。どんな形であれ指標となる中心が見えない混沌状態です。

 

 俳壇は呆れるほどの結社主義です。この弊害は凄まじいものだと思いますが心ある俳人であってもこれについては完全に諦めているようです。ただ俳壇のほとんど狂気に近い結社主義は文学にとって有害です。わたしたちは俳句文学を愛することはできますが俳壇を愛することはできないでしょうね。俳壇は極めて特殊で閉じた風土であり俳句関連書籍で一般読者が手にするものはほとんどの場合俳人以外の小説家などが書いた本であることもそれを証明しています。俳人が書くのは大方はインサイダー向けの俳句入門や評釈であり大結社の門弟たちが先生の本の主な購読者になっています。

 

 賞は基本的に優れた作品を顕彰し受賞の話題性で作家の仕事環境が良くなることを目指します。詩のジャンルはもちろん最近では小説界でもちょっとした賞を受賞したくらいで経済的に潤うことはまずないですが優れた作品の顕彰と仕事環境の向上がもたらされなければ賞の意味は失われます。歌人は経済的には苦しいでしょうが歌壇の賞はこの二つの面で有効に機能しています。複数のメディアが鎬を削る小説文壇も問題はありますが賞は機能していると思います。ただ俳壇と自由詩壇は落第でしょうね。俳壇では大結社所属でそこで実績を積まなければ有名賞を受賞するのはほぼ不可能です。俳壇は利害関係で作品を評価する悪習に染まりきっているようです。自由詩壇はどんな詩集が受賞したかすら一般読者は知りません。これといった利害(利得)が見当たらないのですがそれでも何かが行われている摩訶不思議な業界です。

 

 歌壇のリベラルさは恐らく歌の世界が俳句界の三分の一ほどの規模で大結社や有力歌人たちが角突き合わせても何も良いことがないことから生じているのではないかと思います。ただ今のように文学業界全体が不況に入った時代には歌壇のリベラルさは貴重です。他のジャンルでは歌壇のように賞の選考委員が賞に対する自らの意見を述べたり歌人が自由に賞について論じるという風土すらありません。賞はどうしても権威と結びつきやすいのでそれについて意見を述べるのはとても難しいことです。しかしだからこそ賞の性格によって各ジャンルの風土性が露わになるところがあります。現状では歌壇の頭抜けたリベラルさが新たな文学潮流を起こし他ジャンルにも進出する優れた作家を生み出す可能性が最も高いでしょうね。

高嶋秋穂

 

 

 

 

 

 

午前3時を過ぎて (塔21世紀叢書) 吉野裕之集 (セレクション歌人)