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 サカナクションの新作『新宝島』は、実写映画版『バクマン。』の主題歌であり、漫画家を目指す高校生コンビの物語は歌詞のモチーフにも取り入れられている。タイトル「新宝島」も手塚治虫の『新宝島』から取ったとのことだ。手塚治虫にとっても出世作であり、戦後数多くの漫画家の出発点ともなった作品の地平を目指す二人の決意がみなぎる、というのが楽曲の製作背景の文脈から読む平明な歌詞世界であろう。

 

 しかし、サカナクションのフロントマンであり作詞作曲を担当する山口一郎の言葉は、いつだって夜に属している。たとえば2007年のファーストアルバム『GO TO THE FUTURE』は、日没から未明にかけての夜の時間で構成されていて、ほぼ全曲に渡って「夜」という単語が歌詞に現れ、執拗に音の風景から太陽を遠ざける。夜明けをおそれ、月よ沈むな、と吠えている創作者の野性がある。夜の孤独が彼を創作者たらしめる本質であることを知っているからだ。

 

 タイアップ企画に端を発する本作でも、彼が選びとったモチーフは孤独な創作者の観念がひらめく夜である。

 

このまま君を連れて行くと

丁寧に描くと

揺れたり震えたりした線で

丁寧に描く

と決めていたよ

(中略)

このまま君を連れて行くと

丁寧に歌うと

揺れたり震えたりしたって

丁寧に歌う

と決めていたけど

(新宝島)

 

 描くと歌う、線と声、対置された二人の創作者は山口一郎というシンガーソングライターの姿で焦点を結ぶといってもいい。ヨソの文脈からやってきた言葉でも自分の本質に落とし込んでから再生産しなければならないところには、山口一郎の作家としての責任感の強さが感じられる。

 

 では、彼の本質としての「夜」とは、どのような時間であり空間なのか。セカンドアルバムに収録されている『ナイトフィッシングイズグッド』から一部引用する。

 

アスファルトに立つ僕と月の

間には何もないって知った Ah

 

 月は古来より人に詩と狂気をもたらすが、夜明けとともに人は正気へと覚醒する。正気は人に散文をもたらし、昼間の世界と同様、散文には法の支配がある。人工的に整備された文法の支配である。彼は執拗に夜を描くことで、夜明けをおそれているようだった。夜明けとはそのような散文世界なのではないか。段落と句読点があり、言葉が辞書通りの意味を携え論理的に並ぶ世界。

 

 しかし上に引用した一節には、月との絶縁に打ちひしがれる創作者の姿がある。夜に憧れ夜を歩むが、夜にとどまりつづけることはできない。創作者の足はアスファルトを踏みしめている。人工整備された地歩。述語動詞によって閉じられたつぶやき。月と交わす言語を持たない彼は、散文家なのである。彼の言葉は、それ自体がひとつの夜明けのように、明快な意味を携えて紡がれる。しかし、最後の呼気が言葉にならず音のまま夜に響くことがある。この言葉のひび割れに活路が開かれる。

 

ゆらゆら揺れる水面の月 忍ぶ足音 気配がした

草を掻き分け 虫を払うかのように君を手招きする

 

目を細む鳥のように今 川底 舐めるように見る

かの糸 たぐり寄せてしなる 跳ねる水の音がした

(ナイトフィッシングイズグッド)

 

 月の反映に導かれて覗き込んだアスファルトの下には、暗黒の水の領野があった。その底いに潜む魚を求めて、人工の釣り糸を垂らす。魚がかかって水面から跳ね上がる。言葉にならない愉悦の声が漏れる。

 

 散文家が夜に見つけた魚釣りの愉楽は、魚が踊るように散文が跳躍する音楽仕掛けの夜釣りであった。統語構造に頭と尻尾を掴まれた散文にリズム感は期待できないが、しかし彼はクラブミュージックを大いに消化吸収したダンスサウンドに乗せてそれを踊らせようとする。どうすればステップを踏ませ、ターンさせることができるのか。山口一郎は、サカナクションは、その離れ業を完全にものにしている。

 

次と その次と その次と線を引き続けた

次の目的地を描くんだ

宝島

 

このまま君を連れて行くと

丁寧に描くと

揺れたり震えたりした線で

丁寧に描く

と決めていたよ

(新宝島)

 

 目的地に達するまでペンを走らせるような散文家の開き直った気概とともに、この線は夜に溶けて水底に垂らす一本の釣り糸でもある。彼は魚が跳ねる時。散文が跳躍する時を待つ。本作のミュージックビデオはドリフターズのパロディだが、driftersとは流し網で魚を捕らえる漁船の意でもあるのは、偶然だろうか。スティーブンソンの宝島は水平航海の先にあった孤島だった。サカナクションの新宝島は水の底にあって浮上を待っている。

 

 散文の川底に潜んでいたのは「丁寧」という言葉の魚である。この無味乾燥ないかにも散文的な言葉が釣り針にかかって急浮上するとき、それは「ていねい」になり、「tei-nei」になり、表意文字から表音文字、そして純粋な音へと、重苦しい<意味>を脱ぎ捨ててついに跳躍する。彼をそこへ導いた水面の月が波紋に踊る瞬間である。音楽の仕掛けが見事にはたらいて、踊れない散文が宙に踊るとき、散文家はこのうえない愉悦を湛えて歌うのだ。

 

 書きつけられた歌詞というのは、水底に堆積したアスファルトのような、言葉の瓦礫にすぎないもののように見えることがある。ならば、跳躍した魚も釣り人の手の中に落ちてみれば、またもとの瓦礫になっているか。しかしそんな虚しさも、繰り返し繰り返し演奏される音楽にとってはなんの支障にもならない。まして反復こそが本質であるダンスミュージックがその仕掛けである。同じ仕掛けがいつまでも通用することはないが、冷静な工夫と即興性の手心によって、魚は月明かりを弾いて跳ねるだろう。サカナクションにはその技術がある。正気の沙汰の愉悦、飽く日を知らぬ夜釣りが続いている。

星隆弘

 

 

 

 

■サカナクション『新宝島』■

 

新宝島 DocumentaLy

 

 

   

 

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