演劇評_No.028_01

 

 

【公演情報】

会場 国立能楽堂

鑑賞日 12月8日

原作 上田(宗片)邦義

節付・作舞 野村四郎

演出 笠井賢一

出演者

シテ(ロミオ) 野村四郎

ツレ(ジュリエット) 鵜沢久

ツレ(乳母) 鵜沢光

ツレ(パリス伯) 野村昌司

ツレ(ヴェローナ大公) 藤波重彦

アイ狂言(ロレンス法師) 三宅右近

 松田弘之  小鼓 古賀裕巳

大鼓 大倉正之助  太鼓 徳田宗久

地謡 坂真太郎、長山佳三、青木健一

後見 武田尚浩、浅見慈一

衣装 細田ひな子

主催 国際融合文化学会

 

 

 舞台芸術の間の境界線を越えて、古典芸能と現代演劇の世界を代表する表現者が協力して作品を作ることがしばしばある。「現代能」と呼ばれる舞台作品は能演目を拠り所とする現代演劇の一種である。また「現代能」とは別に、能楽の仮面、構えや型の一部の動作、能舞台の構造、「夢幻能」といった枠組み、「死者との対話」という特殊なモチーフなどを自由に取り入れた舞台もある。近年では、エルフリーデ・イェリネック作、宮沢章夫演出『光のない。(プロローグ?)』(2013年)や、チェルフィッチュの『地面と床』(2013年初演)がその例として挙げられる。

 

 役者の話をすれば、現代演劇の俳優が能舞台に立つことは比較的少ないのに対し、能楽師が演劇に出演することがたまに見られる。例えば、錬肉工房のような実験演劇ユニットが主催する企画舞台では、能楽師が出演し、伝統芸能の世界で鍛えられた「能の身体」の特徴を現代演劇の舞台で活かす機会もある。

 

 古典芸能と現代演劇関係者による共作には様々な意義があるが、そこで浮き彫りになるのは、やはり能舞台という空間と能独特の演技が、どれほど深く結びついているかということだろう。転形劇場による『小町風伝』(1977年)は歴史に残るその一例である。また名取事務所がプロデュースした『ふたりのノーラ ― 能形式による「人形の家」』(2006年)も記憶に新しい。

 

 今年12月8日国立能楽で初演された能『ロミオとジュリエット』は、能の世界とシェイクスピア演劇の世界を接近させた最新の企画である。台本は、現在まで複数のシェイクスピア作品を能に制作した、国際融合文化学会会長の上田(宗片)邦義氏が手掛けた。台本の言葉に謡いの節を付け、所作や舞を制作したのは、シテ(ロミオ)を演じた野村四郎氏である。物語の舞台になったヴェローナの雰囲気を想起させるために、衣装にも工夫が加えられた。登場人物はズボンのような形をした袴を着し、帽子(ジュリエットは小さな冠)を被る。シテの仮面もこの舞台のために特別に作られた面で、普段能で使われる男面ではない。

 

 作品の構造はシェイクスピアの原作に沿っているものの、ロミオとジュリエットの二人の主人公が中心である。原作でドラマを作り上げていたモンタギュー側やキャピュレット側の登場人物の存在感はやや薄い。舞台の最初に狂言方(三宅右近)が演じる僧ロレンスが登場し、モンタギューとキャピュレットという名門の争いのことを語る。その後、モンタギューの一人息子であるロミオと、キャピュレットの一人娘ジュリエットが出会う仮面舞踏会の場面になる。出会った瞬間に恋に落ちた二人はその夜もう一度会い、互いの気持ちを確かめ合って、秘かに結婚する約束を交わす。

 

 二人を結んだのは僧ロレンスだった。彼は再び登場し、その後の出来事を語る。モンタギュー側とキャピュレット側でまた喧嘩が発生し、ロミオは戦いをやめさせようと仲裁に立ったが、一人が命を失くし、ロミオはヴェローナから追放された。大きな不安を抱えてジュリエットは僧ロレンスのところへやってくる。親からパリという男と結婚するよう迫られた彼女は、僧にもらった眠り薬を飲んで、僧がロミオを探しに出かけている間に死んだように眠る。しかし本当にジュリエットが死んでしまったという噂が街中に広がり、ロミオの耳にも届く。ジュリエットの元に駆けつけたロミオは居合わせた恋敵のパリと決闘し、彼を刺し殺す。その後、毒を飲んで愛する妻のそばで死んでしまう。眠りの薬の効果が解け、目覚めたジュリエットは命のないロミオを傍らに見つけ、彼の刀で命を絶つ。

 

 二人の悲劇をずっと見てきた僧ロレンスがヴェローナの大公の前に登場し、二人を結婚させたことで悲劇に導いたのは自分だと告白し、赦しを乞う。大公は子供たちの死はモンタギューとキャピュレットに与えられた天罰だと判断し、この悲劇を機に長年の争いを止めるように命じる。

 

 舞台の最後にロミオとジュリエットの霊が登場する。ここまでシェイクスピアの原作に沿って現在進行形で展開した物語が、初めて夢幻能の形式を借りるのである。白装束を着て小さな王冠を付けた姿で現れる亡霊たちは、舞を舞いながら、「平穏の朝は陰鬱の。太陽いまだ顔見せず。赦さるべきは赦されて。罰せらるべきは罰せらる。この世の悲しき物語。ジュリエットと彼女のロミオの物語」と謡う。最後まで祝祭性はなく、大きな犠牲を払ってようやくもたらされた平和の、もの悲しい雰囲気が漂う。

 

 舞があるのは、この最後の場面と、主人公の二人が出会った仮面舞踏会の場面だけである。それ以外の要素では登場人物や囃子方の後ろに座る3人の地謡による謡があるが、舞台は基本的にセリフ劇として展開する。これはシェイクピア劇を基にしている以上、当然のことだろう。

 

 シェイクスピアの演劇の面白さが言葉にあるのは確かである。『ロミオとジュリエット』は悲劇的な物語だが、原作では登場人物が交わすセリフに言葉遊びがあり、ユーモアと悲劇の対立が生み出す緊張感こそが観客を物語に夢中にさせる工夫である。またシェイクスピア作品に散りばめられているユーモアは多彩である。単純な言葉遊びはまれで、絶望から生まれた皮肉やシニシズムが多い。しかしシェイクスピアの言葉を能楽の様式に適応させた新作能『ロミオとジュリエット』では、原作のユーモアを排除せざるをえなかったようだ。

 

 もちろん能の詞章にも言葉遊び(掛詞)はある。しかしそれは主に過去の歌や物語などを連想させるためのものである。能の言葉は過去の記憶と深く結びついており、いわば和歌の言葉で息をしている。そのためシェイクスピア劇の独特のユーモアを反映できないのである。

 

 一方で能の面白さは謡いの旋律や歌言葉、そして舞や所作によって成立している。これらを言葉を中心とする劇に簡単に当てはめられるのかと言うと、それも難しい。能の演技における型が決まっているように、能演目の構造にも定まった形式がある。数百年にわたる試行錯誤の連続によって生まれたその形式には特定の機能と役割があり、そう簡単に変えることができない。

 

 能と現代演劇には決定的な質の違いがある。能は異界や他界のものとの対話、狂気による魂の分裂など、この世で完結しないものを表現するために研ぎ澄まされた形式である。通常の人間関係を見せる現代的演劇形式ではない。そのため能における恋愛物語は、恋人の一人が亡霊となり生き残った者の元へ戻って言葉を交わすか、生き残った者に取り憑く、または亡霊として登場した一人が相手のことを回想するかである。現在能では〈船弁慶〉の義経と静御前や〈千手〉の重衡と遊女・千手のように、恋人たちが舞台に登場しても、互いを触れることはない。またこのような場面は遊女(白拍子)が舞を披露するために劇中に挿入されているだけで、恋愛が謡の言葉で歌われても可視化されないのである。

 

 従って新作能を制作するに当たっては、能が能であるための形式の機能に十分配慮しながら、素材になる物語を解体して能の構造に合わせる作業を行わざるを得ない。新作能『ロミオとジュリエット』もそれは同じだった。しかし今回は『ロミオとジュリエット』をあえて原作に沿って現在能として上演することで、能の様式が果たす機能がより明確になったと思う。

 

 たとえ試行錯誤の繰り返しだろうと、古典芸能と演劇の世界の交流は非常に大切である。優れた表現者が力を合わせて作品を作る度に、それぞれの芸術表現の基層が明らかになり、各芸能ジャンルがどうして一つ一つかけがえのないものなのかが理解できるようになるからである。

 

 つまり各芸能ジャンルでは、それぞれの形式と決まり事でしか表現できないものがある。その形式はある特定の状況の中で生まれ、現在まで受け継がれてきた。異なる芸術ジャンルの表現者の交流は、そのような歴史的背景への理解を深めてくれるだろう。また総合理解を目的とした交流で見つけた相違点も共通点も、表現者にとっては参考になるはずである。舞台芸術の将来に関するヒントも見つかるはずである。

ラモーナ ツァラヌ

 

 

 

 

新訳 ロミオとジュリエット 角川文庫 狂言の家に生まれた能役者

 

 

 

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