角川俳句_No.013_01

 

 

 前回石井僚一さんの『父親のような雨に打たれて』を巡る短歌虚構論争を取り上げましたが今号の角川短歌では特集「記録としての短歌」が組まれています。サブタイトルは「結婚・出産・介護・別れ-日常を歌う意義」で虚構論争とは逆に実体験を詠む意味を考える特集です。これは短歌作品をたくさん読んだ際の素朴な感想なのですが短歌は確かに作家の体験やその感慨を詠むのに適した詩型です。虚構論争を蒸し返すつもりはありませんが短歌では嘘を詠んでも本当のことのように見えて(読めて)しまうところがあります。

 

呑代(のみしろ)もかせがにゃなるめえしつれあいも探さにゃあならないし     山崎方代

おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする 東直子

不可思議(ふかしぎ)は天に二日(にじつ)のあるよりもわが(たい)に鳴る()つの心臓       与謝野晶子

お手紙ごつこ流行(はや)りて毎日お手紙持ち帰りくる おまえが手紙なのに  米川千嘉子

鳳仙花の種で子どもを遊ばせて父はさびしい庭でしかない       吉川宏志

 

 特集で寄稿者の皆様が引用しておられる歌から五首選びました。どの歌も作家の実体験として読めます。もしかすると微かに虚構が混じっているのかもしれませんがそれが作家の生にぴったり貼り付いてしまっているかのようなのです。こういったささやかな日常の機微を詠む際の短歌は実に強靱です。では同じ体験でもそれが社会的事件の場合はどうでしょうか。

 

額の眞中に彈丸(たま)をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや    斎藤史

なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ      中川佐和子

偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう          松本秀

戦場を覆う大きな手はなくて君は小さな手で目を覆う         木下龍也

地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く         石川啄木

 

 歌歴としても同時代に起こった衝撃的な事件を歌人が詠むのは大切なことだと思います。ただ純個人的体験に較べて社会的事件を詠むととたんに短歌の力が弱まってしまうような気がしてなりません。「おどろや」「見よ」「偶像だろう」といった事件に対する判断を促す言葉を読んでもほんとうだろうかと思ってしまうのです。例外は啄木の歌だけかもしれません。決して啄木が近代短歌の巨星だから特別扱いしているわけではありません。啄木は日本の朝鮮支配に対して批判的でしたが「くろぐろと墨をぬり」という表現は彼の心の闇を示しているように感じられます。社会的事件に啄木個人の鬱々とした心情が重なっています。

 

戦争が廊下の奧に立っていた                    渡辺白泉

路地ふかく英霊還り冬の霧                     大野林火

蝶墜ちて大音響の結氷期                      富沢赤黄男

 

 新興俳句系の俳人の戦争俳句です。これらの句が短歌よりもシャープな読後感を与えるのは事件に対する作者の判断が少ないからだと思います。詳細に論じ始めるときりがないのでやめますが俳句の原点が花鳥風月――つまり客観写生にあるのは確かなことです。それが社会的事件を詠む句では良い方向に作用しています。新興俳句作家の戦争句は客観写生的だと捉えることもできますがよく知られているように特高警察の弾圧を受けました。判断なしに時代状況を詠んだ句が人々の心をざわつかせることを当局が恐れたのです。俳句の余白が読者に様々なことを考えさせるのだと言ってもよいでしょう。逆に言えばほぼ必ず作家の感情や判断が入り混じってしまう短歌で社会的事件を扱う時にはそれを作家の内面深くまで咀嚼しなければ短歌文学的核心表現にならないだろうと思います。藤原定家はその日記『明月記』に「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」と書きましたがそれは短歌文学のある本質を衝いた言葉なのかもしれません。

 

オレンジ色の夢であるなら花ならばあかく潰えて流れゆきにき 福島泰樹(「オレンジの夢」より)

ニッポンが侵してしまったもの背負いオレンジ色の囚衣忘れず

俺もまた風に吹かれて哭いてやる草木国土されど砂漠は

   藤原隆義に

七〇年代の死者なれば君白メット 頭を垂れて立ち尽くしいよ

はたはたとはためくなかれ棹に干すレインコートは弔旗にあらず

  辺見じゅんに

国がとらない責任なれど南溟の 若き兵士の遺骨にやある

  塚本邦雄に

存在と非在の深い悲しみを吹き(こぼ)れ燃ゆ珈琲に擬す

歌業とは眸に灼くきつく映像をはがねに鍛え立て直すこと

 

 福島泰樹さんは七〇年代安保闘争の体験にいまだにこだわる歌人です。意味的に読めば福島さんの反権力的政治姿勢は鮮明です。ただ短歌芸術に引き寄せれば彼の政治信条はあまり重視する必要がないと思います。福島さんの中でかつての政治闘争は深く内面化されています。それはテレビなどで悲惨で衝撃的な事件を見聞きして脊椎反応的に詠んだ歌ではありません。福島さんの政治闘争の記憶は累々の死者の歴史でもあります。その先端にいて生き残った彼がもはや物言えぬ物たちの声を書き留め短歌絶叫にしているようなところがあります。「歌業とは眸に灼くきつく映像をはがねに鍛え立て直すこと」は彼の述志の歌ですが文字通りの意味と意志として受け取ってかまわないでしょうね。

 

 日本では政治信条を右翼・左翼に大別しますが筋金入りの思想の持ち主同士はたとえ信条が異なり公の場面では対立することがあっても個人的には仲が良かったりします。思想的な筋が通っていてそれが強固で揺るぎないものであることをお互いに評価し尊重し合うのです。実際に権力闘争が起こる政治の世界に較べれば文学はいつでも趣味の世界に退行できるぬるい世界です。またどんな文学者も自分は思想信条が通っていると装いたがるところがあります。筋金入りの思想を持つ文学者が嫌うのはそういったエセ文学者でしょうね。ただ作家が本物か偽物かは作品を読めばはっきりわかります。

 

 どんな作家でも表現したい本質的テーマは一つです。様々な技法や題材を駆使してテーマの変奏を行っても優れた作家の全仕事を通覧すれば自ずから一つのテーマが浮かび上がります。福島さんのテーマはわかりやすいですがそのマンネリズムを恐れず内面深化していった歌業は高く評価されていいと思います。また自己のテーマに正直であるから福島さんは現在に至るまで歌を量産できるのだと思います。

 

 最近の歌人を例にすると穂村弘さんの評価が高いですがそれは彼が口語短歌的と言ってよい揺るぎないテーマを抱えているからです。そうでなければあれほど作品を量産できません。口語短歌は一世を風靡していますが気楽な気持ちでそれに飛びつくのは危険です。真似してもせいぜい句集一冊書ければ良いでしょうね。単に簡単でおいしそうだと思って飛びついた作家は数十句で表現が尽きてしまうのではないかと思います。どんな芸術ジャンルでも技法は模倣し盗むことができます。しかし作家が内面深く育んだテーマは絶対に模倣することができないのです。書き続けるために必要なのは汎用的技法ではなく作家のテーマ(思想)に合った固有の技法です。

高嶋秋穂

 

 

 

 

 

 

無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫) とりつくしま (ちくま文庫)