角川俳句_No.011_01

 

 

 角川短歌二月号は短歌の世界のリベラリズムを堪能できる号でした。正直に言えば商業文芸誌や同人誌(結社誌)を読んでいて面白いと思うことはめったにないのですが今号は特別でした。まず歌壇のリベラリズムについて書いておくとそれはもちろん相対的なものです。ほかの文芸ジャンルと比較してということです。もうずいぶんと古い話しになりますが一九五〇年代の終わりから七〇年代にかけては小説や詩といったジャンルを超えた作家たちの交流が活発でした。しかしそれ以降は全体的に作家は自分の創作ジャンルに閉じ籠もるようになっています。ここでは小説界のお話しは除きますが日本の詩には短歌・俳句・自由詩の三つのジャンルがあります。ただ歌人・俳人・自由詩の詩人(面倒なので以下「詩人」「詩壇」と略記します)は同じ詩でも他ジャンルの動向や内実を驚くほど知りません。俳壇と詩壇は保守化的な排他主義に染まっている傾向があります。歌壇では口語短歌が登場するなど新たな活発な動きが見られますがそれが歌壇リベラリズムに支えられていることが角川短歌二月号を読んでいるとよくわかります。

 

 文学金魚で岡野隆さんが「月刊俳句界」批評で書いておられるように俳壇は結社至上主義です。小説のように本の売り上げで作家の評価が決まることがめったにないのはどの詩のジャンルでも同じですが俳壇ではそれが大結社の思惑に強く左右されます。大結社はいわゆる政界の与党になぞらえることができるわけでこれも岡野さんが書いておられましたが高濱虚子以降通例になった大結社の数(結社員数)に物を言わせた俳壇政治が吹き荒れています。たとえば角川短歌ではいわゆる伝統派の尾崎左永子さんや馬場あき子さんの作品と前衛系の穂村弘さんの歌が並んで掲載されることがあります。しかし商業句誌で「ホトトギス」の稲畑廣太郎さんと安井浩司さんの句が併載されることはまずありません。商業歌誌・句誌が結社広告と自費出版を大きな収入源にしているのは周知の事実ですが句誌では大クライアントの意向が編集方針に大きな影響を与えています。大結社主宰や大結社所属の有力俳人の作品が並び特集の大半は俳句初心者向けのノウハウ伝授です。それにより結果として一人でも結社員を増やしたい大結社の広報誌の役割を担っています。

 

 自由詩の世界は雑誌セクショナリズムと言ってよいかと思います。紙媒体の商業詩誌は「現代詩手帖」「詩と思想」「詩とファンタジー」のほぼ三誌しかないわけですが「詩とファンタジー」は『アンパンマン』で著名な漫画家の故・やなせたかしさんの実質的主宰(だった)ということもあり誌名の通りファンタジックな詩とイラストを掲載しています。また投稿には雑誌添付の投稿券が必要で「詩とファンタジー」愛好者によって支えられています。「詩と思想」も公式HPに「執筆者には1年以上の定期購読者の中からすぐれた詩的実績を持つ方々を優先的に迎え、出来るだけ多くの定期購読者の方々に順次誌面に登場していただけるよう努力しています。ぜひ「詩と思想」誌を定期購読して「詩と思想」の読者=執筆者として加わって下さい」とあるように実質的に「詩と思想」の読者=執筆者に支えられています。実体として同人誌的形態でないのは「現代詩手帖」だけですが「手帖」誌版元から自費出版した詩人を優遇する傾向があるのは否めません。

 

 結果として三詩誌の執筆者は固定しがちで現代詩手帖ライター・詩と思想ライターといった執筆者群が生まれています。詩誌に限らず小説文芸誌にも動かしがたい雑誌固有のアイデンティティが存在しますが詩誌ではそれが非常に顕著です。○○ライターはその雑誌でしか通用しない作品や評論を書く傾向が強くかつその弊害に無自覚です。詩作品は何が書いてあるのかわからないという批判を受けても「詩だから」で受け流せますが評論もまた意味や論理の文脈が通っていないものがとても多いのです。ある雑誌カルチャーの中でのみ通用する話題を書き詩や批評を書くことが当たり前になっていて一般読者を含む外部世界がまったくと言っていいほど見えていないのです。このような無自覚な雑誌セクショナリズムは俳壇の意識的結社セクショナリズムよりも厄介で危険かもしれません。また結社セクショナリズムであれ雑誌セクショナリズムであれリベラルな風土の存在しない業界に新しい動きが生まれにくいのは言うまでもないことです。

 

 おそらく反響の大きさにいちばん驚いたのは彼自身(石井僚一さんのこと)なのだろう。えっ、こんなことがそれほど問題になるんですか、彼が言っていることは嘘偽りのない反応だったと思われる。「話題になったことで短歌がすごくおもしろくなった」と討議のなかでもそんなことを話している。

 わたしが実際にはいない「戦死した兄」を歌ったのは、五十年もまえのことである。あのときも、わたしは彼と同じような戸惑いをおぼえた。どうしてそんな騒ぎになるのか、呑み込めなかったのだ。(中略)

 わたしは虚構した「戦死した兄」をここまで見つめつづけてきた。村という社会構造のなかで、その死がやがて風化し忘れ去られていくのを歌いつづけてきた。わたしにも見えなくなるまでつき合うことがひとりの作家としての責任の取り方だと思うからだ。

 虚構してまで創造するからには、ひとりの作家の在りようを賭けることになる。けっして思いつきでやってほしくない。

 虚構議論の行方とは別に、ひとりの若者が一過性の話題として消耗されてしまう危惧をいまは拭えない。それはこのあとの彼の歩みで決まる。「短歌がすごくおもしろい」かどうかは、そのときになってはじめて分かることなのだろう。

(平井弘「虚構してまで」『特集 私性論議再び「虚構問題について」』)

 

 北海道からはるばる岐阜を訪れて、最終的に何とか話した内容が次のことだ。発言の核となる部分を角川『短歌』編集部のツイッター(中略)にあげていただいたので、それをそのまま引用する。

「短歌は詠まれたことが事実という前提で読まれる。これが短歌の面白いところで、短歌の強み。事実として読んでくれるそういう読者に対して虚構を書くのはもったいない」(中略)

 加えると、僕はこの発言に入る前に小説のことを持ち出した。小説は基本的にフィクションであることを前提として読む。それに対して事実を前提に読もうとする短歌は思い白い、というような感じで。

 そもそも僕には、言葉に対するある種の諦めのようなものがあって、どれだけ言葉を尽くしても何も伝わらないという感覚があった。否、今もある。

 けれども短歌というのは不思議なもので、何をどう詠んだとしても、そこから自分らしきものが伝わってしまう、時に過剰なほどに。そこに面白さを見た。

 ああ、僕は、それを何となく短歌(・ ・)の特性だと思っていたのだけど、今、改めて自覚的に気づいた。それは短歌をやっている人たちの(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)特性じゃないか!

(石井僚一「虚構ではない人-平井弘に出会う」同)

 

 石井僚一さんは『父親のような雨に打たれて』三十首で第五十七回短歌研究新人賞(短歌研究社主催)を受賞されました。「かつて父親を殴った水筒で墓前の花に水を与える」といった内容の短歌で父親の死をテーマにした連作です。ところが受賞後に石井さんのお父様がご健在であることがわかり短歌界で〝虚構論争〟が起こりました。石井作品にコメントしている平井弘さんは昭和十一年(一九三六年)生まれで歌集刊行は断続的ですがキャリアの長いベテラン歌人です。平井さんは処女歌集に「義姉となるはずなりし手と朝焼けが洗わむか空の兄の柩を」など亡兄を主題にした歌を収録なさいました。しかし実際には兄はいないことがわかり議論になりました。角川短歌が「私性論議再び(・ ・)」という特集を組んだのはそのためです。他誌の新人賞作家を正面切って取り上げるのは歌壇だけでしょうね。また角川短歌のいわゆる『父親のような雨に打たれて』問題への取り組み方はとてもリベラルだと思います。

 

 かつて虚構問題に巻き込まれた平井さんは「あのときも、わたしは彼と同じような戸惑いをおぼえた。どうしてそんな騒ぎになるのか、呑み込めなかったのだ」と書いておられます。ただ平井さんは戦中を経験しておられます。当時の時代状況からも彼が短歌で書いた〝兄〟は戦後の象徴的存在だったと言えます。ニュースや新聞記事などを題材に架空の戦中短歌・俳句を詠んだ作家は大勢います。平井さんの「わたしは虚構した「戦死した兄」をここまで見つめつづけてきた。(中略)その死がやがて風化し忘れ去られていくのを歌いつづけてきた。わたしにも見えなくなるまでつき合うことがひとりの作家としての責任の取り方だと思うからだ」という言葉は彼が優れた戦後歌人であることを示しています。しかし石井さんの『父親のような雨に打たれて』は平井さんの兄のような社会性を持ちません。予備知識がなければ作品の〝父親〟は石井さんの父親としてしか読めないのです。そこには虚構問題はもちろん倫理的問題も含まれています。(後編に続く)

高嶋秋穂