演劇評_No.027_01

 

 

【公演情報】

公演名 現代能楽集VIII「道玄坂綺譚」―三島由紀夫作「近代能楽集『卒塔婆小町』『熊野』」より

会場 世田谷パブリックシアター

鑑賞日 11月10日

作・演出 マキノノゾミ

企画・監修 野村萬斎

出演

キーチ(深草貴一郎∕俳優) 平岡祐太

少女(ユヤ) 倉科カナ

男(宗盛) 眞島秀和

カオル(薫) 水田航生

シュウ∕助監督 根岸拓哉

女中∕朝子 富山えり子

神の男∕記者 粕谷吉洋

監督∕黒服の男 神農直隆

憲兵∕記者∕警官 藤尾勘太郎

憲兵∕専務∕警官 奥田達士

執事∕黒服の男 長江英和

佐枝子 田川可奈美

女(老婆∕女主人∕女優) 一路真輝

 

 

 「現代能楽集」は2003年から続く演劇公演シリーズであり、今月の世田谷パブリックシアターで上演された『道玄坂綺譚』はその第8弾に当たる。能演目を拠り所とする現代演劇作品の連続上演だが、毎回違う演出家がこの実験的企画に挑んでおり、演出家ごとに能に対する姿勢も古典の扱い方も変わる。結果としてこのシリーズの目的は、能の現代化というより、現代演劇による能の世界との対話の試みになっていると言うのが妥当だろう。

 

 今回は能や狂言の演目そのものではなく、三島由紀夫『近代能楽集』所収の『卒塔婆小町』と『熊野』が上演対象となった。とは言ってもこの二つの戯曲は、作・演出を担当したマキノノゾミ氏により自在に結合されリライトされた。三島演劇をそのまま上演するのではなく、リライトした二次創作的台本を使った理由を推測してみると、それは「近代」が終わって「現代」になったので、三島の演劇作品が主張する価値観はもう通用しないとマキノ氏がお考えになったからだと想像できる。しかしおそらくそれだけではない。

 

 歌舞伎や能楽をはじめ演劇という芸術形式そのものを愛していた三島は、日本の古典芸能の様式に対して強い憧れを抱いていた。戦後の日本演劇に欠けていたその様式がもたらす秩序を演劇に導入したいという発想から、「近代能楽」として知られる戯曲群が生まれたのである。具体的に言えば、三島は能を自由に翻案し、もともとの物語の骨組みの中に現代人の情念を注入するという実験を試みた。文学と同じように、演劇は人間の精神に強く訴えかける役割を担うと三島は信じていたが、結果として演出家や俳優に無理な課題を押し付ける戯曲を作ってしまったのである。つまり三島の演劇作品には、上演不可能な要素が含まれている。

 

 『近代能楽集』の中の『卒塔婆小町』はその挑発的な作風の良い例である。この戯曲は〈卒都婆小町〉という古い能の翻案である。この能では、一人の老婆と二人の僧たちが仏性とは何かについて論争をすることになり、僧たちは老婆の言葉に打ち負かされる。名前を聞かれ、老婆は平安時代の歌人・小野小町の成れの果てであると答える。彼女はその後、かつて百夜通いをさせられた深草少将の霊に憑かれ、彼に悩まされる。僧たちの祈りによって、深草少将の霊が鎮魂され、老婆は最後に悟りを得る。

 

 三島版『卒塔婆小町』(1953年発表)は、本当の美とは何か、生きるとは何かについて問答を交わす浮浪の老婆と若い詩人の出会いを描く。ロマンティックで甘い人生観を持つ詩人は、シニカルでパラドックスじみた話しをする老婆に打ち負かされる。後半では詩人は、小町という絶世の美女の求婚者だった深草という男になる。老婆になった小町を目の前にしているはずなのに、彼女を美しいと思い、その思いをそのままに言葉にしてしまう詩人はその場で死ぬのだ。

 

 この作品に登場する小町は、日本文化の古典的な美と価値観を象徴する存在だと言える。その美しさの衰えを見ずに、その価値観のすばらしさを主張し続けている戦後の日本の若者は、命を失う危険にさらされているという風に解釈できる。『卒塔婆小町』は三島を始めとする、「日本」という理想に幻滅していた時代を生きた人たちの、精神的な彷徨を描く作品だと言える。

 

 三島版『卒塔婆小町』には真剣な問題提起が仕掛けられているわけだが、上演不可能な要素は、99歳の浮浪者のような老婆が、一瞬にして世界で最も美しい女性に見えなければならないという点である。詩人のような人物だけに見える形而上的な美を舞台に出現させるということだが、そのような美を俳優の身体というメディアで表現しなければならない。

 

 一方、近代能『熊野』(1958年)が下敷きにしている能〈熊野〉では、平宗盛に仕える遊女・熊野が、母の重病の報せを受けてすぐに家に帰らせてくれるよう宗盛に哀願する。しかし桜の盛りをめでる時期なので、宗盛は一緒に花見に行くように熊野に命じる。母が心配で桜を楽しめない熊野の悲しみに心を動かされた宗盛は、結局彼女の里帰りを許してやる。

 

 近代能『熊野』では、大実業家・宗盛の愛人である熊野は、母の病気を理由に恋人に会いに行こうとする。しかし真相が暴かれ彼女は宗盛の元を離れられない。ただし宗盛は彼女の行動に怒らないし、熊野自身もまた謎めいた反応を見せる。彼女は恋人との再会をすぐにあきらめてしまい、おとなしく宗盛のそばにいる。能〈熊野〉では悲しみにより女主人公の美しさが増すと暗示されるのだが、三島戯曲では、嘘をつく女はいっそう美しく見えるという逆説的な発想に基づいているようである。

 

 一方で逆説やシニシズムをまとった思想が表現され、他方では演劇の魔法に対する揺るぎのない信頼にあふれた三島の戯曲は、演出家に投げかけられた挑戦状であると言ってもいい。その戯曲の上演を成功させるためには、演出家は三島の演劇観をどこかで越えなければならい。あるいはこの悪戯好きな劇作家よりも、ずるい演出家でなければならない。

 

 三島が古典能を自由に翻案したように、現代能楽集VIII『道玄坂綺譚』は『近代能楽集』の自由な翻案である。現代に移植された『卒塔婆小町』と『熊野』の物語は、渋谷にあるネットカフェで展開する。そこで浮浪者のような生活を送る老婆と、映画監督になる夢を抱いてネットカフェでバイトをしているキーチ、そして家出少女のユヤと長編漫画ばかりを読んでいる宗盛といった人物たちが出会う。

 

 ネットカフェに住み込んでいるかのような老婆の存在が気になるキーチは、彼女に話しかけてみる。すると老婆は昭和時代に活躍したコマチという女優だと明かす。キーチは実はコマチの大ファンで、彼女が主演する映画を撮るのがずっと夢だったと告白する。場面が転回し、二人は昭和時代の映画撮影現場で出会う。二人の恋愛物語は映画の虚構的な世界、その映画を作る人たちの現実世界、そして現代の渋谷で展開し、いずれもコマチの美しさを慕う男の死で終わる。

 

 これと並行的に展開するもう一つの物語では、ネットカフェで漫画を何十巻も読んでいる宗盛が、家出少女・ユヤを豪華なロフトマンションで住まわせる。彼がユヤに課した唯一の条件は、携帯電話やスマホなどのような機械を使わないということだ。ユヤはその条件を受け入れ、何の心配もない生活を送ることになる。彼女は看護婦の資格を取り昔から恋人だった男と結婚してからも、癌にかかった彼女の恩人である宗盛の看病に励む設定と、宗盛の財産目当てに彼を毒殺しようとする設定、つまり可能性として存在するいくつかの未来が観客の目の前で演じられる。

 

 現在と過去を行き来するコマチの物語と、現在と近未来を行き来するユヤの物語が渋谷のネットカフェを舞台に並行的に展開するのだが、最後にその場所に残るのは老婆とユヤだけである。二人の間にはいつの間にか母と娘のような関係が生まれていた。短大で勉強するためのお金を稼ぐために、仕事を得てネットカフェを出るユヤを温かく見送ってから、コマチは独りぼっちになる。現実と虚構の境界線が曖昧な彼女の世界は夢に変わり、夢の中で古びた卒塔婆の上に座っている。そこに彼女が愛した深草が迎えに来て、彼を見て一瞬にして若返りをしたコマチは彼を強く抱きしめる。

 

 このような結末によって、ある意味で確かに三島は打ち負かされたであろう。何しろ三島は人間への理想、この世における幸せへの希望を根本的に否定している作家だからである。本公演の演出を担当したマキノノゾミ氏は、三島の世界観よりも、現代を生きる我々の幸せへの希望を重視し、コマチの物語にもユヤの物語にも救いのある結末を提案したわけである。ただ三島とマキノ氏の翻案戯曲には、「現実」と「夢」という違いがある。

 

 面白いことに三島の『近代能楽集』で翻案の対象となった能演目は全て現在能で、夢幻能は一つもない。三島が描く登場人物は皆「覚めている」。覚めていながらも、強い情念を抱き、精神的な価値観を象徴している。『近代能楽集』は戦後の日本の精神的な混乱を具現する戯曲集である。

 

 マキノ氏の『現代能楽集VIII』「道玄坂綺譚」は、原作の『近代能楽集』に対して我々の現代を表す「夢の世界」を対立させようとする。ネットカフェもある意味で「夢」のようなバーチャルリアリティを暗示しているし、「渋谷」も一つの「夢の世界」のシンボルだと言えるので、『道玄坂綺譚』は、幸せになる夢を貫こうとする私たちの現在を表現している。しかしよく観てみると、「ネットカフェ」も「渋谷」も想像の上でしか存在しない概念ではないか?場所も、そこにいる若者たちの言葉も全て作り物で、並行する二つの物語の展開も結末も作り物である。現代を生きる我々は「作り物」の世界から脱出できないという現状が暗示されていると同時に、演劇にはこの夢でできた現実にさらなる夢を加えることしかできないという作家の思想があらわになっているようだ。

 

 三島由紀夫は現実に絶望していたが、演劇の可能性に対しては大きな期待を抱いていた。しかし『現代能楽集VIII』「道玄坂綺譚」を裏付ける演劇観は、演劇の可能性の限界を知り、演劇に絶望しているように思われる。その一方で夢が大きな原動力となれば、我々の現実には希望があると信じているようである。この公演を鑑賞した我々観客もそう信じたいのだが、渦のような虚構の罠に落ちる前に、明晰すぎる三島の警鐘を鳴らす声が聞こえてくるような気もする。もう一度『近代能楽集』を読み返そうかという気持ちになった。

ラモーナ ツァラヌ

 

 

 

 

 

近代能楽集 (新潮文庫)