No.021_文學界_01

 

 

 とうとうあまり書きたくない「文學界」二月号の回になってしまった。二月号には又吉直樹氏の中編『火花』が掲載され、「文學界」は史上最多の四万部を増刷した。純文学雑誌では異例のことである。その後単行本化され、芥川賞効果もあって二百万部を超える大ヒット作品になった。とにかく本が売れない純文学業界にあって、これほどの大ヒット作が出たのは心から喜ぶべきことである。ただ一方で、〝売れた〟ということで、ストレートに評論が書きにくい雰囲気が漂ってしまったのも確かである。

 

 小説のミリオンセラーは、普段本を読まない人まで買い求めて読むから起きる。サスペンスなどの大衆小説の場合、テレビドラマや映画化などとあいまって、内容が面白いという評価がブームの引き金になる。しかし純文学小説の場合は事情が違う。作家が若いとかセンセーショナルな性を扱っているなどの付加情報はあるにせよ、血湧き肉躍るようなエンターテイメント要素はほとんどない。むしろいつもは敬遠しがちな深刻で息苦しい内容なのだが、〝本物の文学に触れたい〟(たまには触れた方が良い)という人々のニーズが顕在化した時に起こるのだと言って良い。

 

 又吉氏の『火花』の大ヒットは、まだ〝本物の文学〟を求めるニーズが読者の中にあることを示してくれただろう。それは純文学小説は売れにくく小難しいいとわかっていても、エンターテイメント小説にはどうしても飽き足りない作家や読者に勇気を与えてくれたはずである。ただこのステップの先には、当然のことながら〝本物の文学とは何か?〟という問いが続く。

 

 わたしたちは便宜的に「大衆小説」と「純文学小説」という区分けを使うが、その境界は曖昧である。エンタメ要素が大衆小説と純文学小説を分けるわけでは必ずしもない。少し乱暴な言い方になるが、出版当時はベストセラーにならなかったにせよ、長く読み継がれている名作には必ずと言って良いほどエンターテイメント要素が含まれている。大衆小説と同様に、明確な物語構造(プロット)が設定されている作品が多いのである。

 

 大衆小説と純文学小説という区分けは、小説ジャーナリズム(文芸メディア)が作り出したものである。資質ももちろん関係するが、作家はデビューした文芸誌で訓練を受け、その後の道行きを規定されることが多い。大衆小説誌からデビューした作家は徹底して作品の量産を求められる。四百字詰め原稿用紙で月産三百枚(つまり一日十枚書く)は、大衆作家にとっては比較的少ない数字だろう。これに対して純文学作家は、一年間に単行本一、二冊分くらいの小説を書くことが多い。年間三百枚から六百枚程度である。不文律だが、この執筆枚数の違いは文壇における大衆作家と純文学作家の役割分担の指標でもある。

 

 表現者である限り、小説という文学形態で表現したい核を抱えているのは大衆作家も純文学作家も同じである。ただ原稿を量産しなければならない大衆作家は、自らの表現の核をエンターテイメント要素にくるんで表現せざるを得ない。ネガティブな言い方をすれば表現の核を薄く引き延ばして作品化するわけだが、小説作法として捉えれば、起承転結のある面白い物語(プロット)に作家の思想を滑り込ませるのである。物語が主役だが、読者が十分物語を楽しんで、なおかつ作家の思想を的確に感受できるのが理想的な大衆小説だと言える。

 

 それに対して純文学小説では物語要素が希薄である。家族や恋人、友人との軋轢など、物語のきっかけになる出来事は必要だが、起承転結に沿って物語が一つの結末に辿り着く必要はない。むしろ純文学小説は殺人などの突飛な出来事をできるだけ排除して、より現実に即した人間心理をひたすら描写する。理路整然とした論理では決して人間心理を説明し切れないから物語が生まれたわけだが、純文学小説は最小限度の物語要素を使って、直截に人間存在の謎に迫ろうとするのである。純文学小説は物語が表現しようとする最も〝純粋〟な部分をミニマルに表現しているとも言えるわけで、それゆえ文学の中の文学、つまり〝純文学〟と呼ばれてきたわけである。純文学小説は基本的に短・中編である。

 

 この大衆小説と純文学小説の定義は便宜的なものであり、現実制度的なものでもある。わたしたちは松本清張や有吉佐和子、江國香織ら大衆小説作家とされている作家たちの代表作を、純文学小説として捉えることをまったくためらわない。その逆に純文学からデビューした作家が、その後、物語を主役にした大衆小説にシフトしていった例はいくらでもある。原則を言えば優れた小説に大衆文学と純文学との区分などない。古い例を持ち出せば、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を書いていた頃の夏目漱石は、たいていの読者には大衆小説作家に写ったはずである。大衆文学と純文学は、一般読者には関わりのない小説ジャーナリズム世界内での区分だと言うこともできる。しかし本当にそう言い切れるだろうか。

 

 こんな形で例にするのは申し訳ないが、又吉氏の『火花』が芥川賞を受賞するまでの熱狂は、明らかに現実の小説ジャーナリズムが作り出したものである。純文学の牙城である「文學界」に『火花』が掲載されたことがブームの導火線になった。芥川賞イコール純文学(文学の中の文学)であり、出版ビジネスで利益を上げる文藝春秋社の思惑はほとんど意識されなかった。芥川賞は、あたかも日本国が総意を上げてオーソライズする絶対的価値規範であるかのようだった。お笑いタレントが書いた小説という付加価値はあるにせよ、「文學界」と芥川賞がなければ『火花』はこれほどの大ヒットにはならかっただろう。文学ジャーナリズムの内部制度であるはずの大衆文学と純文学の区分が、一般読者に大きな影響を与えたのである。

 

 もちろんその背景には「文學界」と芥川賞のたゆまぬ努力がある。芥川賞はその名の通り、文藝春秋社初代社主の菊池寛が、自殺した盟友・芥川龍之介を顕彰するために設けた賞である。そのため芥川賞の選考基準は、現在に至るまで後期芥川の私小説が規範になっている。賞を含め、どんな組織にも動かしがたいアイデンティティというものがあるのだ。私小説が日本独自の小説形態であることは疑いないが、それを最も優れた文学、すなわち純文学であり、〝本物の文学〟とすることには異論があるだろう。しかし芥川賞は、大筋でそのような異論を封じ込めるような選考を行ってきた。

 

 最小限の物語要素で作家の思想エッセンスを表現する純文学は、ほぼ量産が不可能である。作家の執筆衝動としても経済的理由としても、継続的かつ安定した仕事をしたいと望むなら、作家はいずれかの時点で大衆小説的な物語要素を作品に導入せざるを得ない。芥川賞の選考基準は明らかに私小説にあるが、芥川賞は受賞後に大衆小説的な力強い物語要素を援用して、社会的ブームを引き起こすようなヒット作品を書く作家を的確に見出してきたのである。それが芥川賞の価値を高めてきた。

 

 しかし一九九〇年代頃から芥川賞に翳りが見え始めた。芥川賞を受賞した後に、広く一般読者に愛されるような作品を書く作家がほとんど現れなくなってしまったのである。それは逆説的に純文学と大衆文学の区分を作家や読者に強く意識させることになった。平たく言えば誰もが楽しめる小説を書くのが直木賞作家で、小難しくて一般読者には理解し難いが、文学業界内では恐らく価値があるのだろう作品を書くのが芥川賞作家だという認知が蔓延し始めたのである。小説ジャーナリズム業界内での暗黙の了解としてあった大衆文学と純文学の区分が、制度として露わになってきたわけである。

 

 後期芥川の私小説を純文学の規範とするのは文藝春秋社のこだわりに過ぎない。狭き門とはいえ、芥川賞は文壇デビューした作家に与えられる新人奨励賞である。作家は良くも悪くも日本で最も有名な小説賞である芥川賞を足がかりにして、自らが表現したい作品を書けば良い。しかし――これは文藝春秋社や芥川賞の責任ではないが――小説作家の質(力量)が確実に落ちている。端的に言えば、芥川賞を単なる通過点として物語作家へと大きく開花してゆく作家は現れず、「文學界」に作品が掲載され、その延長上にある芥川賞(文藝春秋社の賞である以上当然だが、「文學界」新人賞が芥川賞への最も確実な道である)を受賞することで力尽きてしまう作家が大半なのである。ある時期まで芥川賞は、大衆小説にも滲出する大きな文学的膨らみとしてあったが、「文學界」・芥川賞=私小説という骨組みが、ほとんど制度のように立ち現れてしまっている。

 

 この背景には九〇年代頃から始まった、情報化社会の静かだが大きな社会的変化がある。大衆文学は自由詩の抒情詩と同じで、嬉しい、悲しい、寂しいといった人間の基本的感情を表現するだけでも成立させることができる。しかし純文学は各時代の人間精神の核心を描かなければならない。インターネットの普及によって世界が一つの巨大な脳と化した情報化社会において、個々の人間精神がどんな形で揺さぶられ、どう変化してどこへと向かい、何が普遍的なものとして残るのかを小説構造として描かなければ、純文学としての強い支持を得られないのである。純文学作家は各時代の精神の核心を把握することで、初めて物語作家として飛躍することができる。

 

 この現代の情報化時代のアポリアは、すべての作家にとって現在進行形の問題としてある。まだどの作家もこのアポリアを表現(解明)することができていない。ただ大衆作家は情報化時代の現実事象を小道具として作品に取り入れることで、その本質に迫ろうとしている。純文学作家は、例えば「文學界」を読めばわかるが、ネット時代の変化を小説形態の変化として表現する前衛小説と、その逆に極めて保守的な私小説の二つのベクトルに分かれ始めている。小説セオリーを壊す(逸脱する)前衛小説は、現代の核心に届かなければ泡沫のような実験作で終わる可能性が高い。私小説は西村賢太のようにその表現形態に深い確信を持てなければ、現代を把握できないので過去の権威にしがみつく後衛になってしまうだろう。

 

 私小説作品を主軸にしているとはいえ、近年の芥川賞は前衛的小説と伝統的私小説をその受賞作に選んできた。日本で最も権威ある小説賞である芥川賞のプレステージを維持するための努力は続いているのである。ただ芥川賞という権威指標を軽々と超えてくれる作家が現れない。ほとんどの作家は受賞作とその前後の本しか売れず、いつまでたっても〝芥川賞作家止まり〟なのである。実際、純文学小説は量産が難しいとわかっているはずなのに、出版社は芥川賞受賞前後に集中して作家に原稿を書かせて単行本化する傾向が見られる。それが芥川賞の制度的側面を強く意識させる要因になっている。

 

 ストレートに言えば、優れた純文学に芥川賞が授与されるのではなく、芥川賞を受賞したから優れた純文学小説だと漠然と是認されるという、主客の逆転が起こっている。質から言っても、受賞作のほとんどは芥川賞を受賞しなければ社会から高い注目を浴びることはないだろう。テクニカルな完成度を度外視すれば、芥川賞受賞作と大同小異の実験小説や私小説は、文芸誌はもちろん同人誌などにもいくらでも掲載されている。優れた作品が芥川賞を支えているのではなく、芥川賞という制度(システム)が結果を出せない純文学をかろうじて生き延びさせているかのようである。

 

 十代二十代でほとんど初めて書いた作品で文芸誌の新人賞を受賞し、芥川賞をも受賞する作家などほとんどいない。たいていの作家は何度も応募してようやく新人賞を受賞し、その文芸誌好みの作品を書くよう強く編集部の指導を受けながら、幸運に恵まれれば芥川賞を受賞できるのである。特に現代のように本質を掴みにくい時代は、作家のデビューは遅くなる傾向がある。そのような作家たちから見れば、又吉氏の待遇は〝飛び級〟である。特別待遇を受けるのは、もちろん又吉氏が人気お笑いタレントだからである。

 

 ただ従来の新人作家登場とは異なる道筋で現れ、現実に二百万部を売り上げた又吉氏の作品は、現代文学を変える契機になるのではないかという期待を抱かせるのに十分である。問題は文学好きの有名お笑いタレントと「文學界」・芥川賞が結びつくことで『火花』がミリオンセラーになったのか、『火花』が本当に優れた作品であり、なんらかの形で停滞した文学の世界を活性化する契機となる力を持った作品であるかどうかにある。(後編に続く)

大篠夏彦

 

 

 

 

火花 第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

 

 

 

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