小松剛生さんの連載ショートショート小説『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』『第08回 はんぺん/レモンパイを食べ損ねた男/今も世界のどこかで鍵が不足している』をアップしましたぁ。不肖・石川、個人的には『はんぺん』が好きですぅ。
「余白はいいよ」
はんぺんは言う。
「文字で書かれた物語の隙間にある空白を眺めているとね。なんだか吸い込まれそうな気分になってくる。その白さを目の当たりにする、それだけで物語の登場人物になれるような気がしてくるんだ。いや、ひょっとすると」
「ひょっとすると?」
「余白こそが僕の物語かもしれない」(中略)
世界は広い。いや、世界は白い。
それがはんぺんの口癖になった。
戦後の文壇で『近代の超克』論争というものがありました。簡略化すると、明治維新から第二次世界大戦敗戦までの日本の政治的、思想的歪みを検証しようという討議でした。それはもちろん現在でも重要な論点なのですが、現代社会がアポリアとして抱えているのは〝近代〟を含む〝モダン〟の超克ではなひかと思います。日本一国の問題ではなく、先進世界が均質化した情報化社会に突入した現代では、世界的な〝モダンの超克〟が問題の焦点になっていると思ふわけです。
非常に乱暴なようですが、石川は戦後の1980年代末頃までに、すべての文学ヴァリエーションは書き尽くされた、新しい試みはほぼ出尽くしたと考えます。少なくとも〝モダン〟の文脈でのヴァリエーションと新しさは、もはや残されていないでせうね。つまり90年以降の文学ヴァリエーション、新しさ(前衛)は、モダンを超克した質のものでなければもはやその固有性を獲得できない。それがある意味でポスト・モダン文学のアポリアです。
小松さんの作品は、明確にこのポスト・モダン文学のアポリアを捉えています。彼が意図的にそうしているわけではない分、それは深刻でもあり本質的問題でもあります。すべての物語、ヴァリエーション、新しさが尽きたとはっきり認識する所からしか、質の違う文学は生まれて来ないからです。昔ながらの想像力は死んだかもしれませんが、作家は創造し続けなければならない。「余白」はポスト・モダン文学のアポリアでありますぅ。