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於・東京国立博物館

会期=2015/04/28~06/07

入館料=1600円(一般)

カタログ=2700

 

 

 京都国立博物館で開催されていた『鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝』展が東京に巡回してきたので見に行った。京博開催の時から長蛇の列というニュースが流れていたが、果たして東博も大変な混雑ぶりだった。展覧会場には並ばずに入れたのだが、会場の中で『鳥獣戯画甲巻』を見るのは約二時間待ちだった。人のことは言えないが、世の中に『鳥獣戯画』を見たい人がこんなにいるとはちょっと驚きだ。美術館に行くのもレジャーの一種だろうが、二時間も他人の後ろ頭を眺めているのはお盆休みの高速渋滞なみのストレスである。確かに『鳥獣戯画』は日本の絵巻の中で最も有名な作品の一つで国宝である。しかし作品は白描(はくびょう)(紙に墨だけで書いた絵)で、はっきり言えばとても地味である。巻物だから壁に掛けて眺めるわけにもいかない。列を作って順番に見てゆくしかないわけで、混雑するのも道理である。

 

 展覧会は『鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝』展と題されているが、簡単に言うと鎌倉時代初期の高僧・明恵(みょうえ)上人が再興した京都高山寺に伝わる上人ゆかりの品々と、『鳥獣戯画』絵巻全四巻から構成される展覧会である。高山寺所蔵という以外、明恵聖人と『鳥獣戯画』には直接的な関係はない。上人が作らせたとか譲り受けた絵巻ではないということである。恐らく明恵上人寂滅後に高山寺に『鳥獣戯画』が納められ、寺宝の一つとして現在まで伝わったのである。いつ頃から高山寺に『鳥獣戯画』があったのか、元の所有者(作者)は誰かは今のところわかっていない。『鳥獣戯画』は平成二十一年(二〇〇九年)から四年がかりで解体修理され、新たに表装されたものが今回の展覧会で展示されることになった。

 

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『弥勒菩薩図像』 一幅 紙本墨画 鎌倉時代 13世紀 縦81・7×横55・5センチ 東京国立博物館蔵

 

 『弥勒菩薩』の白描図である。高山寺にはこのような密教系の白描図がかなりの量伝わっている。その量から言って、明恵上人存命中から仏教研究のために集められたようだ。高山寺に白描図が集まるにつれ、他の寺院からさらに多くの白描図がもたらされたらしい。図の中に黄色、赤、五色など色を指定した文字が読めると思う。白描図には仏の姿とその役割を教えるための、いわば解説付き図像カタログとして作られたものもあるのだが、紙や絹(絹本(けんぽん)という)に彩色した仏画を描くための下絵(種本・粉本(ふんぽん))としても白描図は活用された。江戸時代までの仏教は今より遙かに盛んで、仏像や仏画の需要が高かった。仏師たちは制作のために盛んに古い仏像・仏画を模写している。高山寺の白描は古来有名で、高山寺の印まで几帳面に写した真面目な模写が数多く残っている。

 

 つまり高山寺と『鳥獣戯画』は今のところ、高山寺に白描図がたくさん集まってきたので、同じ白描図である『鳥獣戯画』もいつの時代にか寺に納められたのだろうという、うっすらとした関わりしかない。数々の素晴らしい作品を見せていただいたので展覧会の内容には全く不満はありませんが、『鳥獣戯画』の研究が進展すれば別の切り口の展覧会もあり得るだろう。あまり期待はできないが、作者や所有者がわかれば、その系統の展覧会が開かれるはずである。今回の展覧会はあくまで現在の研究成果を踏まえたものなのである。ただ『鳥獣戯画』が、明恵上人を愛慕するどなたかによって高山寺に寄進された可能性は十分にある。

 

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『明恵上人像(樹上坐禅像)』 一幅 紙本着色 鎌倉時代 13世紀 縦145×横59センチ 京都・高山寺蔵

 

 古来有名な『明恵上人像』である。絵の上に書かれている賛は「高山寺楞伽山中/縄床樹定心石/擬凡僧坐禅之影/写愚形安禅堂壁/禅念沙門高弁」である。明恵上人は高山寺の後山を楞伽山(りょうがせん)と呼んだ。上人は山中にある二つの場所を、「縄床樹」と「定心石」と名付けて坐禅に励んだ。木の上と石の上で坐禅を組んだのである。後の二行の読み下しは「凡僧坐禅の影を擬し/愚形を安禅堂の壁に写す」である。明恵の法諱は「高弁」なので、「禅念沙門高弁」は明恵上人自らが賛を書いたことを示している。賛が明恵上人直筆であるかどうかについては議論があるようだが、寺伝に従えば生前の上人を写し、上人本人が賛を書いた貴重な絵ということになる。恐らく絵の通りの環境で修行に励んでおられたのだろう。

 

 ぱっと見ておわかりになるように、『明恵上人像』は専門的な技術を身につけた仏師(絵師)が書いた作品ではない。高山寺には明恵上人の弟子・恵日房成忍(えにちぼうじょうにん)が描いた上人像も残っているので、明恵周辺の絵心のある僧侶が描いたのだろう。コピー機のない時代、知識人は学問の一環として絵を習っていた。いちいち絵師に頼むわけにはいかないので、ある程度の画力は学問に必要不可欠だったのである。高僧像は絹本に描かれるのが一般的だが、この像は四枚を継いだ紙であることも画僧が描いたことを示唆しているだろう。また明恵を画面いっぱいに描かずに、自然の中で坐禅を組んだ構図は高僧像の中では異例である。明恵の教えをよく理解する僧侶か、明恵自身の意図が絵に反映されていると考えてよい。

 

 明恵上人は承安三年(一一七三年)に紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現・和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国、母は湯浅宗重の四女である。治承四年(一一八八年)、九歳(数え年)の時に母を亡くし、同年に父も平家打倒のために挙兵した源頼朝との戦いで戦死した。翌治承五年(一一八九年)、明恵は高雄山神護寺に入り上覚上人、文覚上人に師事した。文治四年(一一八八年、十六歳)に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて正式に出家した。将来を嘱望された俊英だったが、二十三歳の時に中央仏教界(京都)との縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世してしまう。そこで修行を続けたが明恵の名はますます世上高く、建永元年(一二〇六年、三十四歳)に後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜され、古刹だが荒れ果てていた高山寺を再興してそこを道場とした。以後、寛喜四年(一二三二年)に六十歳で寂滅するまで、基本的には高山寺で修行を積み教えを説いた。

 

 明恵が生きたのは平安末から鎌倉時代初期にかけての動乱の時代だった。一種の公武合体政権だった平氏が倒れ、東国鎌倉に、征夷大将軍に任じられた源頼朝の鎌倉幕府が誕生した。しかし三代将軍実朝暗殺で源氏は絶え、以後執権・北条氏が政権を握ることになった。ただ明恵にはまったく政治的な野心がなかった。晩年には承久の乱で、ほかならぬ明恵に高山寺を下賜した後鳥羽院を破り、院を壱岐に幽閉した三代執権・北条泰時(やすとき)が明恵に帰依している。世の中が安定する鎌倉初期には親鸞、日蓮、一遍といった優れた宗教者が現れるが、明恵は彼らとそれまでの、密教系の色濃い平安仏教を繋ぐ位置にいる宗教者である。

 

 仏教には様々な系譜(思想上の流れ)がある。明恵はまず華厳経を学んだ。高山寺の寺号は後鳥羽院によるもので、『華厳経』の「日出でて先ず高山を照らす」から取られている。今も高山寺には後鳥羽院の勅額が掲げられている。華厳の教えはある程度論理的で、人間の精神は仏の〝理〟と現世的な〝事〟が混淆した理事無礙法界(りじむげほうかい)に属するが、修行を積めば〝理〟も〝事〟も消え去った事事無碍法界(じじむげほうかい)に至り着くと説く。それが真実一如の世界である。明恵はこの華厳の教えに密教を付加して華厳密教を創始した。仏教では顕教と密教が対立用語として使用されるが、簡略化すれば顕教は論理的な教え、密教は直観的真理である。明恵上人は華厳の教理を前提とした上で、修行によって、より直截で直観的な悟りの境地に至り着こうとしたのである。

 

 ただ明恵上人は理論より実践を重んじた宗教者であり、生涯にわたって様々な修法を行っている。上人生前から行われた高山寺の栂野開帳もその一つである。春日大明神・住吉大明神の御神影を拝する神仏習合の儀式である。また明恵は建久七年(一一九六年)二十四歳の時に、求道のために仏眼仏母像の前で右耳を切った。生きたまま煩悩の源である肉体を超脱しようとしたのだろう。痛さで泣きながら華厳経を唱えていたところ、金色の文殊菩薩が明恵の前に顕現した。痛くて泣いたと伝わっている(明恵がそう伝わることを許した)点が、明恵上人が優れた宗教者だった証だろう。彼は食べて糞をした現世の修行者であり、明恵上人に関する人間臭い逸話はほかにもたくさん伝わっている。

 

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『夢記』 紙本墨書 鎌倉時代 13世紀 縦24・6×横24センチ 京都・高山寺蔵

 

 明恵上人は『摧邪輪(さいじゃりん)』、『同荘厳記』などの真面目な仏教書を著したが、巷間で最も知られているのは『夢記』だろう。明恵は建久二年(一一九一年)から死去するまでの四十年以上、自分が見た夢を記録し続けた。といってもシュルレアリスムのような、抑圧された性の解放をも含む無意識の記録ではない。明恵上人は一心不乱の修行者であり、驚くべきことに無意識界まで仏のものである。夢に現れる様々なイメージを修行のために活かしたのである。

 

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『子犬』 木造彩色 鎌倉時代 13世紀 像高25・5センチ 京都・高山寺蔵

 

 子犬は仏師・快慶(かいけい)の子、湛慶(たんけい)の作だと言われる。湛慶は高山寺に様々な仏像を納めた。元々は彩色してあったが、現在では色が剥げ落ちている。この子犬は明恵上人が手元近くにおいて愛玩したと伝えられている。修行一筋だったが上人は犬好きだったようだ。動物の彫刻を愛した高僧は明恵上人以外にいないだろう。また高山寺には神馬や神鹿の彫刻も残っている。ずっと時代が下った慶安二年(一六四九年)の記録になるが、『栂尾両大明神御開帳記』には「狛犬」、「妻鹿」、「男鹿」、「馬」という書き込みがあり、御開帳時に高山寺蔵の彫刻が使われたことがわかる。高山寺は動物彫刻でも知られていたわけで、それがもしかすると動物を描いた『鳥獣戯画』が高山寺に納められる機縁になったのかもしれない。

 

 で、今回の展覧会のメイン作『鳥獣戯画』である。既述のように(こう)(おつ)(へい)(てい)の四巻から構成される。長い年月の間に各巻から一部が切り取られて寺外に流出している。今回は世界中で確認されている限りの『鳥獣戯画』断簡も一堂に集められた。『鳥獣戯画』に付せられた文字は、丙巻巻末の「秘蔵々々絵本也/拾四枚之也/建長五年(一二五三年)五月日 竹丸(花押)」だけである。竹丸なる人物についての詳細はわからない。ただ少なくとも明恵上人寂滅から二十一年後には、『鳥獣戯画』は高山寺に納められていた。

 

 また丙巻は前半が「人物戯画」で、後半が「動物戯画」と内容が真っ二つに分かれる。長らく謎とされてきたが平成の修理でその理由が解明された。丙巻は元々は一枚の紙の裏表に描かれていた絵で、それを相剥ぎという技術で二枚に分けて巻物に仕立てたのである。和紙は薄く見えても二枚に分離することができるのだ。また竹丸は「拾四枚」あると書いているが、現存の丙巻は二十紙を継いである。いつの時代にか四枚が流出して、現状の二十紙を繋ぎ合わせた巻物の形になったのである。

 

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『鳥獣戯画 甲巻』部分 紙本墨書 平安時代 12世紀 縦31・1×横1156・6センチ 京都・高山寺蔵)

 

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『鳥獣戯画 乙巻』部分 紙本墨書 平安時代 12世紀 縦31・1×横1224・5センチ 京都・高山寺蔵)

 

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『鳥獣戯画 丙巻』部分 紙本墨書 鎌倉時代 13世紀 縦31・9×横1113・1センチ 京都・高山寺蔵)

 

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『鳥獣戯画 丁巻』部分 紙本墨書 鎌倉時代 13世紀 縦31・7×横938・6センチ 京都・高山寺蔵)

 

 図版を見ていただければお分かりのように、甲・乙・丙・丁巻では明らかに紙質が違う。甲・乙巻は平安時代末に作られ、丙・丁巻は鎌倉時代初期に描かれたようだ。制作年代が三十年から五十年くらい違う作品が『鳥獣戯画』として高山寺に納められたわけである。ただ分納ではなく一括で納められたのではなかろうか。絵のタッチも大きく異なる。巻ごとに絵師は違うだろう。また丙・丁巻は、甲・乙巻の内容を踏まえて作られた可能性もある。

 

 甲巻には蛙の本尊を前に法要を行う猿が描かれている。狐や兎や猿が列席して読経している。丁巻には軸になった蛙の本尊の前で読経する僧侶が描かれている。そこには当時の仏教熱を揶揄し、戯画(パロディ)化する意図がある。丙巻には半裸の若い僧侶と老尼が首引きという遊びを行っている絵がある。ここでも仏教や僧侶に対して冷や水を浴びせかけるような意志がうかがえる。子犬を愛する慈愛の人だったが、修行一筋の明恵上人が『鳥獣戯画』を見たら、あまりお喜びにならなかっただろう。

 

 甲・乙巻はいずれも動物が描かれている。甲巻は動物戯画、乙巻は珍奇な動物図鑑として見ることができる。絵師は異なるかもしれないが、同じ人(グループ)が所有し楽しんだものではなかろうか。丙・丁巻ではさらに戯画(パロディ)化が進んでおり、甲・乙巻の所有・享受者グループの後継者たちの間に伝わったのかもしれない。求道の人・明恵上人を中興の祖とする高山寺には必ずしも相応しくない絵なのだが、それが高山寺に納められ、大切に受け継がれたということは、その所有者がかなり高位の人であったことを示唆している。

 

 平成の修理で『鳥獣戯画』四巻に使用されたのは、絵画や経典に使われる上質の紙ではなく、反故紙を漉き返したいわゆる再生紙であることがわかっている。清書用ではなく事務処理やメモ用に使われた紙である。絵を見ても最初から墨一色の白描のタッチであり、色絵を作るための下書きではない。丙・丁巻は、墨もあまり上等のものではないようだ。つまり『鳥獣戯画』は少人数のグループが気軽に楽しむために描かれた作品である。『鳥獣戯画』を所有していた高位の人たちがお亡くなりになって、その供養のために高山寺に納められたのではないだろうか。

 

 『鳥獣戯画』にはまったく詞書(文字情報)がない。先に述べたように、後になって丙巻巻末に付せられた竹丸の奥書があるばかりである。詞書がないのは絵だけを楽しむ目的だったのかもしれないが、文字情報によって作者や所有者がわかってしまうことを忌諱した可能性もある。また竹丸の「秘蔵々々絵本也」という記述は、高山寺秘蔵の絵という意味と、作者や所有者名を明かさないで秘蔵されるべきという二つの意味で捉えることができる。仏教を揶揄することが憚られる高位の人の持ち物だった可能性があるのである。

 

 よく知られているように、『鳥獣戯画』の作者は鳥羽僧正(とばそうじょう)覚猷(かくゆう))ではないかと長く言われてきた。しかし最近の研究ではそれは否定されている。また鳥羽僧正は確かに戯画の名手だったが、宗教者である。明恵上人が修行のために耳を切ったが痛くて泣いたという逸話と同様に、鳥羽僧正が『鳥獣戯画』を描いたのなら、仏教を揶揄したとしてもそこに必ず宗教的な教えをこめたはずである。作者名を隠す(伝わらない)必要はないのである。

 

 ちょっと気になるのは後白河法皇周辺である。院は篤く仏教に帰依していたが、高位の人には珍しく和歌嫌いで今様を好んだ。今様は現世的な享楽を謡った歌謡である。法皇は今様の言葉とその謡い方などを『梁塵秘抄』にまとめた。鎌倉時代後期に編纂された本朝書籍目録によると、本編十巻、口伝集十巻の全二十巻だったらしい。現在伝わっているのはそのほんの一部である。また『梁塵秘抄』が初めて一般の人の目に触れたのは江戸後期の塙保己一(はなわほきいち)の『群書類従』によってであり、口伝集第十巻が収録された。

 

 『梁塵秘抄』の〝秘〟もまた、奥義なので秘すべしという意味と、広く公刊するのは慎むべしという二つの意味に取れる。政治的にも文化的にも多面的な貴人であり、かつ後世まで残る和歌ではなくその場で消えてしまう今様を愛した院の周辺になら、『鳥獣戯画』を愛好する文化サークルがあったかもしれない。ただまあ確実なことはなにもわからない。学問的研究成果はさておき、さして高級な料紙を使っているわけでもなく、崇高な内容でもない『鳥獣戯画』が高山寺で大切に扱われ、わたしたちが今日、様々なことを考える大切なよすがとなっていることを喜ぶべきだろう。

山本俊則

 

 

 

 

 

 

特別展覧会「国宝 鳥獣戯画と高山寺」公式図録 鳥獣戯画―国宝絵巻 (双書美術の泉 6)