オール讀物_No.011_01

 

 

 みなさま映画はお好きかしら? 本と違って映画は90分なら90分、じっとしていなければならないからなかなか時間が取れませんが、アテクシも飛行機の中などでよく見るわ。機内映画ってけっこう充実しておりますの。ついこの前公開されたばかりの話題作が上映されることもあるのよ。ちっちゃい女の子は『アナ雪』がお好きねぇ。プログラムにあるとほぼ100パーセント見てるわね。アテクシ、アイルランド人のちょ~むすっとした女の子と、「アナ雪初めて見るの?」「10回目くらいだね」という会話をして、レリゴーを小声で合唱しましたことよ。アテクシの部下に、「宮崎駿さんの悪口は言っちゃダメです」と据わった目つきで言う女の子がいるけど、その子は少女時代に『トトロ』を500回くらい見てるのよねぇ。

 

 大年増を遙かに超えたお年頃ということもあって、それなりに映画は見てるけど、アテクシ、映画好きかと言われるとそうではないわねぇ。デートやテレビでなんとなく映画を見てるみなさんと一緒で、映画そのものが好きなわけじゃなくて、好きな映画があるだけだわ。もちろん活字中毒だから映画評も読むわよ。でも小説時評は書けても、自分で映画評を書くのは難しいと思いますわぁ。映画そのものが好きじゃないと映画評は書けませんわね。好きっていうことにはミーハー心理が含まれていて、小説も映画ミーハーも同じようですけど、やっぱりちょっと質が違うように思いますの。

 

 アテクシ、映画の内幕モノが好きで、中でもお気に入りなのは『くたばれ!ハリウッド』(原題はThe Kid stays in the picture)よ。1970年代にパラマウント映画で活躍したロバート・エバンスプロデューサーが自伝を映画化した作品なの。この映画を見ていると、映画業界がものすごくいい加減なところだってことがわかりますわ。エバンスさんはギャング映画を作ろうとするんですが、それまでアメリカではギャング映画がヒットしたことがなかったそうですの。リサーチしてみると、かつてのギャング映画はユダヤ人監督がユダヤ系俳優を使って撮ってることが多かったの。エバンスさんはイタリア人監督とイタリア系俳優を使おうと思い立ったのですわ。白羽の矢を立てたのがコッポラ監督ですの。

 

 で、エバンスさんはパラマウントの重役会議で企画をプレゼンするんですが、「コッポラってあの三流監督か、おまえ、正気か」と言われてしまいます。コッポラさんのところに相談に行くと、「マフィアはイタリア人の恥だ。そんな映画撮れるか」と怒られてしまう。でもなんやかんや言って撮影が始まって、コッポラ映画ではいつものことですが、公開日は遅れに遅れ、予算はオーバーに次ぐオーバーで、だけど『ゴッドファーザー』は空前の大ヒットになったのでございます。数年後、パラマウント映画が斜陽になって、今度は重役たちが「コッポラのギャング映画で一発当てよう!」と言い出します。できあがったのがリチャード・ギア主演の『コットンクラブ』でカンヌでグランプリは受賞しましたが、興行的には大コケだったやうです。

 

 映画は資本主義芸術の最たるものだとも思うわぁ。商品はみんなそうだけど、制作者たちが悪戦苦闘して、いわば泥水の中から生まれたキレイな花みたいなところがありますわ。映画芸術にはそんな商品の側面がありますわね。商品と同じようにその評価も厳しいですわ。映画は映画会社や独立プロダクションが資金投下して利益を回収する興行、つまり博打のようなものだから、純文学小説みたいにヒットしなくても芸術性が高ければいいなんていう言い訳は通用しないわね。また低予算の素晴らしい映画もありますけど、映画の一番の醍醐味は、予算をかけた大ヒット作にあるのも確かなことよ。

 

 映画にはほんとうに様々な要素が詰め込まれていますわ。新作映画が封切られるたびに、監督や俳優さんたちが必死にプロモーションしてるのを見ると気が散っちゃうのよ。映画批評に集中するとしても、監督、脚本、カメラ、俳優、音楽などが複雑に組み合わさって奇跡のように傑作が生まれる芸術ですから、自分なりにその切り口を決めなければなりませんわね。それが作家様と読者の一対一対応に慣れている小説読みのアテクシには難しいの。それに映画は受動的芸術ですわね。巻き戻しも早回しもできない状態で、目の前に映し出される絵に驚いたり感動したりするんだわ。

 

 アテクシ、小説読みとして、小説芸術には核があると思いますの。小説って自由なようでいて意外に形式的には固い芸術よ。もちろん映画にも文法がありますわ。スコセッシ監督の『私のアメリカ映画旅行』や『私のイタリア映画旅行』なんて、映画文法を素材にした素敵なドキュメンタリーよ。でも映画には小説のような核はないわね。小説が果実のように種の回りに実ができる芸術だとすれば、映画はボールのように中が空洞で、固い外皮があるような芸術ね。それは恐らく映画が本質的に絵だからだわ。フェリーニやゴダール監督が「わたしは映画だ」って言い出すのには理由があるの。映画監督も絵によって変わってゆき、新しいアイディアや認識を得るの。スコセッシ監督の映画についての映画でアテクシが一番感動したのは、ずっと椅子に座って熱っぽく語るスコセッシ様の姿よ。彼は撮る人の前に見る人なの。

 

 映画人は絵と一体化してるって言ってもいいかもしれないわね。それは映画批評を書く方も同じだと思うわ。映画人も映画批評家にとっても、究極で理想的な一つの作品があってはいけないということじゃないかしら。まだ見たことのない絵が、新しい映画がさらに新たな映画を生み出し、映画を巡る思想を生み出すのよ。その意味でもアテクシのように気まぐれな時評家に映画批評家はつとまらないわね。映画批評は一度書き始めたらずっと書き続けないとダメね。好みの映画を探してるんじゃなくて、映画と共に生きられて、映画そのものが好きな方じゃないとダメってことよ。アテクシ、映画批評家のみなさまを心から尊敬申し上げておりますの。

 

 トム・クルーズの当時の主演作には、設定に幾つかの共通性があった。

 まず恋人役の女性が大抵年上か、知的な洗練度、学歴、社会的地位において、かれより優位に立つこと。(中略)

 知的に優越する女性との対比において、頭は余りよくないけど、運動神経と動物的な勘のよさ、闘争心の旺盛さなど、(おす)としての優秀性が強調される。(中略)

 前略。男の相手役との関係でいえば、古強者対若者、という構図が目立った。(中略)

 力演してもいつも同じ顔にしか見えないトム・クルーズに引き立てられたせいか、ポール・ニューマンはそれまでどうしても取れなかったアカデミー賞主演男優賞をその作品で初めて獲得し、ダスティン・ホフマンにも二度目のオスカーを(もたら)した。

 当初は平凡な美男俳優と見做していたトム・クルーズは、実は映画制作者として端倪(たんげい)すべからざる資質を備えていたのである。

(「「新・紙ヒコーキ通信」幕引きの弁」 長部日出雄)

 

 オール様は小説誌ですから取り上げずに来ましたけど、アテクシ、長部先生の「新・紙ヒコーキ通信」を毎回楽しみに読ませていただいておりましたの。それが今号で最終回なのです。悲しいわぁ。長部先生の映画評は大人の魅力ね。映画がとにかく観客を映画館に呼びたい興行で、監督よりも役者が花形で、でも芸術であることを重々ご理解なさった上でサラリと批評を書いていらっしゃるわ。それは30年以上続いた「新・紙ヒコーキ通信」の最終回なのに、あのトム・クルーズを取り上げていらっしゃる肩の力の抜けようからもわかるわぁ。

 

 長部先生、トム・クルーズについて「表情が大体において真面目な顔と笑顔の二種類に限られ、演ずる役柄が、単純明快、純真素朴、直情径行、闘志満々・・・と、概ね四文字熟語で片付けられそうな所も、複雑微妙を愛するインテリ好みではない」と書いておられますが、そこからスッとトム様の魅力を明かしてゆかれるところが長部先生のインテリ度の高いところだわぁ。長部先生の文章を読んで、トム様のイメージが固まっちゃった読者の方も多くいらっしゃると思うわ。映画・演劇の華は今も昔も役者なのよ。現代に近づけば近づくほどそうね。そういった基本を抑えることってとっても大事よ。長部先生の映画評がアテクシを含む読者に愛されたのは、映画の一番基本的な魅力から始めて、その上に先生の鋭い認識をちょっとだけ付け加えたためだと思うわ。その案配が絶妙なのよ。

 

 私は学齢に達する前から映画を観て来たが、国民学校(小学校)に入った年から、英米諸国を相手とする大戦争が始まったので、アメリカ映画は全く知らずに育った。それだけに敗戦直後の冬、初めて接したアメリカの明るく軽快な音楽映画『春の序曲』に、子供ながら人生観と世界観が一変する程のカルチャーショックを受けた。

(同)

 

 映画って快楽だと思うわ。映画に限らず、演劇、文学なども本質的にはそうね。快楽がなければ作家様は作品を作り続けられないでしょうし、批評する側も書き続けることはできないでしょうね。ああこの人苦しんで作ってるなぁ、無理して書いてるなぁと感じさせるような作品は受け手(読者)の強い支持を得られないのよ。長部先生の映画批評からは、映画を観る快楽、映画への愛が伝わってきましたの。不定期連載でもかまいませんから、また長谷部先生の映画評が読みたいわぁ。

佐藤知恵子

 

 

 

 

 

紙ヒコーキ通信 (2) (紙ヒコーキ通信 2) 津軽風雲録

 

 

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