文学界 2014年10月号 (文學界)

 

 

 今も昔も小説文芸誌を開いたときの、息が詰まるような閉塞感は同じだろう。たまたま雑誌一冊を手に取っても、秀作・傑作と呼べるような作品が掲載されている可能性は低い。どうしてこんな作品がと思うことも珍しくない。しかし読者は商業文芸誌なのだから、ここに掲載されているのは編集者を始めとするプロたちに選ばれた作品なのであり、これが文学なのだと思う。あるいはそう信じようとする。またそれはある程度事実だ。長い間文芸誌を読み続ければ、そこから数人の優れた作家が育っていることがわかる。雑誌は〝雑〟なのであり文芸誌もまた玉石混交だ。いつの時代でも玉が少ないだけである。

 

 ただやはり各時代ごとに文芸誌の質は変化している。流行作家の作品掲載を最優先にしている大衆文芸誌とは異なり、「文學界」のような純文学系の小説誌は現代文学の状況について敏感だ。「文學界」の今月号には赤坂真理と内田樹の対談「街場の「戦後論」-東京裁判・憲法・安保闘争」が掲載されている。文芸批評では高澤秀次の「ポスト戦後の「戦争文学」-安岡章太郎以降」や三浦雅士の丸谷才一論、藤田直哉の筒井康隆論などが並んでいる。このような文芸批評の傾向は今後も変わらないだろう。現代文学の状況を問おうとすれば、過去作品や時代を現代と比較しながら検証してゆくしかないのである。

 

 しかしプロの作家たちはもちろん、文学に興味を持つ多くの読者もまた、これらの対談や批評をあまり読んでいないのではなかろうか。文学批評にも様々な種類がある。大学で日本文学を研究する学者たちは、綿密な事実関係に基づいて作品生成背景などを明らかにしてゆく。これに対して文芸誌に掲載される文学評論は、リアルタイムの文学状況を明瞭にした上で、将来書かれるだろう文学に資するようなヴィジョンを示唆するためにあるのだと言ってよい。だが文芸評論を読んでも現在の姿は見えてこない。将来の文学ヴィジョンも掴めない。文芸評論は今後も過去文学と時代を素材にせざるを得ないだろうが、その切り口が、現代となにか決定的にズレてしまっている。創作のヒントにならないような文芸批評は、なかなか読んでもらえない。

 

 ほんの少し前と言ってもいいし、もう二十年近く前と言ってもいいが、文学界にはポスト・モダニズム批評の時代があった。柄谷行人を頂点した批評の時代である。ポスト・モダニズム批評は端的に言えば、批評家が文学を素材にして自己の思想を語る時代だった。柄谷以降、多くの批評家が文芸批評家としてデビューし、社会批判的思想家へとシフトしていった。わたしたちはそのようなポスト・モダニズム批評を楽しみ、またそれに期待したのだった。そこから新たな文学パラダイムが生じるかもしれない考えたのである。しかしそれはもう儚い期待だったと断言して良いだろう。

 

 ポスト・モダニズム批評が残したのは、その全盛期から遅れて登場した作家たち、あるいはようやくその意味を理解した作家たちが、批評ではなく小説作品の中で、もはや新鮮味のないポスト・モダニズム批評を繰り返し始めたという負の遺産くらいである。小説に取り込まれたポスト・モダニズム批評は中途半端な現代的雰囲気(アトモスフィア)をかもし出しながら、さらに現代文学の混迷の度を深めた。詩や小説や批評といった文学ジャンルが決して消滅しないのは各ジャンル固有の存在理由(アイデンティティ)があるからである。ポスト・モダニズム批評、あるいは以前から多分にポスト・モダニズム的だった自由詩作品などを小説に取り込むことは、小説文学のアイデンティティを曖昧にしただけだった。

 

 二十年ほど前の近過去と比べれば、現在書かれている文芸批評はひと時代前に揺り戻っている。過去の史実を踏まえ、きちんと小説作品を読んで批評が書かれるようになった。しかし現代を射程に捉えたという感じはしない。批評と創作の良好な関係、つまり作品が新たな批評的思考を生み出し、それが創作に反映されて新たな作品が生み出されるという状況はいっこうに生まれて来ないのである。理由は簡単だ。停滞しているのは批評だけではない。創作も同じなのだ。現在もポスト・モダニズムなどの現代思想と関わりのない、オーソドックスな小説は数多く書かれている。技法的には従来と同じで、むしろ技術力は昔より上がっているかもしれない。しかしそれらの作品もまた現代に食い込んで来ない。

 

 晩ごはんは、韓国料理。夏野菜のチャプチュと、ゴーヤのチヂミと、焼きなすとプチトマトのナムルと、わかめスープ。(中略)

 夫のワイシャツにアイロンをかけないといけない。昨日は雨で洗濯できなかったから、2枚ある。(中略)アイロン台の折り畳み式の脚を起こし、台の上に夫のワイシャツを拡げ、スプレー糊を全体に噴霧する。

 こういう時、音楽を聞きたいな、と思う。いつからだろう、音楽を聞かなくなったのは――。音楽を聞きたいと思っても、実際聞いてみると、音楽を聞くのが苦しくなる。わたしにとって、音楽を聞くことは心の秘密を沈黙のうちに打ち明けるような行為だった。たぶん、わたしは大切にすべき秘密を失くしてしまったんだと思う。

 夫も、結婚前によく通っていたレコード店から足が遠退いて久しい。iPodにお気に入りの曲を入れて、行き帰りの電車の中では聞いているみたいだけど、最近夫が何を聞いているのかは知らない。関心が無い。じゃあ、夫の何に関心を持っているのかと問われれば、何も無いのかもしれない、と思う。でも、わたしは自分に対しても関心を持つことができない。どうしてこんなことになってしまったんだろう? なにがいけなかったんだろう?

(柳美里『連作・飼う人vol.1 イボタガ』)

 

 「文學界」の今号には柳美里の新連載が掲載されている。始まったばかりなので批評は早急だが、相変わらず柳美里は上手いなと思った。描かれているのは結婚十年目くらいで倦怠期に差しかかった夫婦の心理的齟齬である。主人公の妻は夫に対して関心を失っている。夫もまた自分に関心がないだろうと感じている。ただ妻は夫だけでなく、「自分(自身)に対しても関心を持つことができない」のである。その原因は、夫婦に子供ができないからだと語られている。しかしそれは言うまでもなく仮の理由に過ぎない。妻が抱えている喪失感は深い。その理由を説明することは作家にも恐らくできないだろう。だからこそそれは小説で描かれなければならないのだと言えるが、問題はその描き方である。

 

 柳美里は妻の喪失感を際立たせるために、日常を最大限に活用している。買物に出かけ、料理を作り、洗濯してアイロンがけする日常を丹念に描いている。冷めかけた夫への愛情、失われかけた夫婦の絆とは別に、妻はいわゆる日常的主婦業を淡々とこなしてゆく。それが不定形の喪失を囲い込むような堅固な外壁になっている。このような小説作法はやろうと思えば男性作家でもできるだろうが、実際は女流作家の独壇場である。

 

 柳美里が援用した小説作法は二つのベクトルを持っている。一つは小説を人間存在の原理に差し戻すことである。先行きが不透明で新たなヴィジョンが見えにくい時代には、一度原理に立ち戻るのも有効な方法だろう。食や性に対する原理的思考は新たなヒントを与えてくれるはずである。ただ人間の日常は制度として立ち現れる可能性もある。

 

 過去にも未来にも希望を見出せない人間存在の不安は極めて現代的なテーマだが、食や性は人間存在の原理であると同時に太古から続く常同性でもある。あまり食や性によりかかると現代的テーマの核心を描きにくくなる。現代的テーマは提示されただけで空白のまま残され、その周囲を相も変わらぬ日常性が取り囲むことになりかねないのだ。核心に届かないまま精緻な技術的成熟を見せる小説は、かえって小説がフィクショナルな作り物であることを読者に強く意識させるだろう。

 

 鍋に加わり、珍味をつまむ彼女の光と一さんの光を交互にみる。あきらかに一さんの光は、透明度も光量も失われつつあった。けれど光がふたつになったおかげで、ちゃぶ台はいつもより明るく、食べものがどれもおいしそうな艶を放つ。(中略)

――おじいさん、そろそろあちらへ帰りましょう。家族水いらずで暮らしてはいかがですか。

 一さんの鼻の光は消える寸前で、膝からお尻、腰、胸へと境目が急速にあがっていく。わたしは卜部さんを押しのけて彼の肩にしがみついた。

――一さん、消えてはだめ。ひとりにしないで。(中略)

 一さんのくちびるは乾いて皮がところどころめくれ、青ざめてきている。目がうっすらと開き、ため息のような深い息がもれ、口がうごいた。

――あなたはまだ、だめです。

 つぎの瞬間、目がおおきく見開かれたかとおもうと顔全体の輪廓も目も耳も口も消え、一さんは青い光の玉になった。

(小山内恵美子『彼岸のひと』)

 

 小山内恵美子は人間の生死に敏感な作家である。『彼岸のひと』は一種の幻想小説だ。主人公は中年の女性で、恋人を執拗にストーキングして罪に問われ、故郷に舞い戻ってきた元女教師である。主人公はすでに両親が死去した実家で書道教室を始める。理由は説明されないが、主人公が住む町には生者と死者が一緒に暮らしている。(いち)という男の死者が主人公の書道教室に通ってくる。主人公は一に惹かれ、夕食や酒を出して歓待するようになる。ある日、一の孫だという卜部という女性が訪ねてきて、主人公と一の晩餐に加わる。卜部は癌で余命わずかだと主人公に告げる。引用は小説の最終部で、卜部はすでに死んでいる。二人の生きた女と一で食卓を囲んでいたのに、一と卜部は主人公だけを残して死者の世界に去ろうとしているのである。

 

 『彼岸のひと』にあるリアリティを与えているのは、詳細な調理と料理の記述である。調理すること、食べることの日常性が生者と死者を媒介している。料理を食べさせ続ける限り、主人公は一のいる世界には行けないのだと言ってよい。あるいは主人公が孤独に陥った原因、ごく普通の恋人に実在の男以上の何かを見てそれを求めてしまった理由、すでに死んでいるのも同然なのに死者の世界に行けない理由は食にあるだろう。主人公の女は調理し食べさせたい。それによって他者とつながり、絶対不可知の他者を自我意識の中に取り込もうとする。しかし黙々と彼女の料理を食べてくれるのは死者だけである。それは作家が抱える優れたテーマである。ただ食というディテールを取り除けば、この作品は全面崩壊するかもしれない。

大篠夏彦