小説すばる 2014年 11月号 [雑誌]

 

 

 「やっぱり、ミステリが好き!」という特集で、そのコラムに「ミステリキーワード大辞典」がある。見ているうちに、なんとも言えない郷愁が湧く。とはいえ、その言葉たちやそれによる分類が必ずしも古い、と言っているわけではない。むしろミステリと名指されるものの本質が浮き彫りになる気がするのだ。

 

 「安楽椅子探偵小説」と呼ばれるものがある。事件の現場に赴かず、ただ話を聞いているだけで解決してしまう探偵のことである。古典的なミステリで、映像化を視野に入れた大作主義の今日、文芸誌の短編特集以外ではあまり見かけない。かつて実際に読み、鮮明に記憶に残るものとして、ケメルマンの『九マイルは遠すぎる』がある。

 

 通りすがりに、たまたま耳にした「九マイルは遠すぎる」という一言。見知らぬ者が発したそのたった一言について、文字通り座したままで推理をめぐらせ、ついに事件の真相にたどり着いてしまう。そのロジックの鮮やかな切れは、まさに見事である。

 

 最近まで私たちは、そのようなロジックを推理小説特有のものとして、いわゆる小説、文学とは別のものであると分類してきた。しかし、果たしてそうなのか。文学という概念そのものが危機に瀕している今、その問いそのものが明確なロジックを必要としている。

 

 たとえばこの安楽椅子探偵小説は、ロジックの何たるかを示すものだと捉えるなら、文学とは別物ということにはなる。が、そこにある驚きには、物事への距離感が生み出す視点、距離があることによって真実が思わぬ形で姿を現わすことが含まれているように思う。

 

 逆に言えば、距離がなくなることで客観的な事実を見失うとか、距離のない密着の中で人格が溶解してゆくとか、そういった光景もまた想定されるわけで、それこそが純文学と呼ばれるものに近い。私たちの日常は、その二つの極端な状態の、凡庸な中間地点にぶら下がっているので、どちらを示されても驚くのである。

 

 ミステリのキーワードには、ミステリを成り立たせる主要な概念が含まれている。それらはつまり、人間にとっての謎をどこに見るか、という極めて観念的、本質的な問いへのそれぞれのスタンスである。それが文学的でないはずはなく、ただミステリの愉しみとは長い間、少なくとも初期には、そのような文学者であるミステリ作家が措定した謎を「解く」という側面だけを捉えられてきた。

 

 ミステリ小説のタイプとは、何を謎と感じるか、という人間の分類そのものである。それは何を神秘と捉えるか、ということであり、つまりは何に究極的な価値を見出すか、ということになる。文学とは畢竟、それが確信化し、思想化したものであり、借り物の謎を描く技術ではないはずなのだ。

池田浩

 

 

 

 

 

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