鶴山裕司さんの『現代詩人論』 『No.012 極私と非私(詩)-朝吹亮二論(前篇)』をアップしましたぁ。鶴山さん、やうやく本来の執筆ペースに戻りつつあるやうですね。金魚屋は人手が足りないこともあって、ついついいろんなお仕事をお願いしてしまふのですが、作家は書かなければなにも始まらないのも事実です。金魚労働は金魚労働としてこなしていただいて、ぜひガシガシ書きまくっていただければと思いますぅ。
そんで今回は朝吹亮二論です。鶴山さんは『現在、詩の世界には思想や詩法面での共通パラダイムは存在しない。しかし極私的でセルフィッシュな姿勢はどの詩人にも共通している。詩人たちは個々に切り離された場所で各々の詩の表現基盤を探っている。・・・それを最初に鮮明に打ち出した詩人は伊藤と朝吹である。作品に限定すれば、八〇年代を代表する詩人は伊藤と朝吹だろう』と書いておられます。不肖・石川も、現在文学界に共通パラダイムが存在しないというお考えには同意です。しかしそれはなぜなのかすら検討されていない現状は、文学をますます衰退させるばかりだろうと思います。
詩は文学の世界の中でもマイナーな領域です。しかしだからこそなんの禁忌もなく、本音で勝負しなければならないジャンルだと思います。そのラディカルな姿勢が日本文学における詩の立ち位置だと思います。鶴山さんの『現代詩人論』、多分、日本の20世紀詩を総括する最初の本格的試みになりますよ。鶴山詩学といったものが、着々と築かれつつあると思いますぅ。
■ 鶴山裕司 『現代詩人論』 『No.012 極私と非私(詩)-朝吹亮二論(前篇)』 ■