鶴山裕司さんの連載抒情詩 『羽沢』 『第 009 回 最初の一音を/森の中/おこりんぼうの王様』 をアップしましたぁ。ちょい遅れましたが今回も 3 篇です。また書き方をちょっと変えておられますね。『おこりんぼうの王様』 はリア調ですかとお尋ねしたら、『そう。リアにあんな長い詩はないけどね』 といふお返事でした。抒情詩だけなのかもしれませんが、鶴山さんは何篇か同じ書き方の作品を作って、ポンと別の方法に変えてしまいますね。
そんで不肖・石川、詩誌を読んでいて、ど~も納得できない、理解できないので、そのあたりのことを鶴山さんに書いてくださらないかとお願いしてみたのであります。お返事は 『やだよ。書きたくないね』 とつれないものでしたぁ。ただ詩的な文章については面白いことを言っておられました。ちょいまとめてみますね。
・詩人が小説家はもちろん、一般読者がなんじゃこれと感じるような詩的な文章を書くのはある程度仕方がない。詩は論理の脱臼やイメージの飛躍を必須とするから、散文を書いてもそれに引っ張られる傾向がある。むしろ詩人は文芸批評家や小説家が書く批評やエセーを読んで、どうしてこんなに単純な文章を書くんだろうと思っているかもしれない。つまり多くの詩人にとって、散文は詩作品の延長として捉えられているということ。
・ただ実態を見ると優れた詩的文章は少ない。詩的文章とは、論理が破綻していても直観的真理のようなものが鮮やかに表現されている散文のこと。詩人なら、そのような美しいと言えるような文章を一つ二つ書けるかもしれない。しかし評論集一冊分書くのは無理。優れた直観的真理のない詩的文章は、単に論理破綻の散文になりかねない。一度はっきり散文でも詩を書く、あるいは散文は散文として書くと、詩人たちが各自の中で整理すれば、詩でもなく評論の体もなしていないような曖昧な詩的散文は少なくなるのではないか。
そんなところでありますぅ。
■ 鶴山裕司 連載抒情詩 『羽沢』 『第 009 回 最初の一音を/森の中/おこりんぼうの王様』 PDF版 ■
■ 鶴山裕司 連載抒情詩 『羽沢』 『第 009 回 最初の一音を/森の中/おこりんぼうの王様』 テキスト版 ■