田沼泰彦さんの『大岡頌司句外伝『書物と美』-其の一 処女句集『遠船脚(とおふなあし)』をアップしましたぁ。田沼さんは小原眞紀子、鶴山裕司さんと詩誌『夏夷 leaflet』を刊行しておられて、そこで『大岡頌司句傳』という、大岡作品の俳句評釈を連載中です。田沼さんはもちろん、小原、鶴山さんも金魚屋の詩部門(自由詩、俳句、短歌)のブレーンの方々であります。
まだ正式決定ではありませんが、少し前から田沼さんの『大岡頌司句傳』などの原稿を、文学金魚に転載させていただくご相談をさせていただいています。しかしそれもこれも詩誌時評関係の進捗次第ぢゃな。『夏夷』の詩人の皆さん、優秀だと思ひますが、ど~も腰が重い。当初のお約束どおり、詩誌時評関係のコンテンツがどんどんアップされるシステムを作ってただければ、微力ながら石川だってタイアップ企画にもっと乗り気になりますぞっ。早いとこ金魚屋好みの時評者の皆様を紹介してくださいね~。
そんで僕は大岡頌司さんという俳人、存じ上げなかったんですが、面白そうな方です。俳句の系譜としては、富澤赤黄男・高柳重信から始まる前衛俳句作家のようです。俳句は面白い世界で、子弟制度が今に至るまで生きているのよねん。だから文学史の本なんかの巻末には、誰が誰の弟子でっていう、マフィアの組織図みたいな系統図が掲載されています。短歌も同じですけど。
でもそれって文学の問題として正面から取り上げられたことがありません。小説や自由詩では子弟制度ってのはまずあり得ない。あっても極めて個人的なものです。しかし俳句・短歌の世界は違うのですね。まあなんといいますか、本質的にはこれからもずっと続いていく文学的血の系譜とでもいうべき濃いものであります。
おとといの『小説新潮』の時評で、水野翼さんが「こういうさ、物わかりの悪いガキが文句たれてるみたいな物言いって、なんなんだ、とか思われてもしかたない。だけど・・・」って書いておられましたが、そう、文学金魚ってものわかりが悪いんです(笑)。文学金魚の基本思想は「文学綜合主義」(文学をジャンル別にではなく綜合的に捉える)と「文学原理主義」(文学とは何かを原理的に考察する)の2点だからです。
なぜ俳句・短歌の世界には子弟制度が残ってるの?っていう疑問は、文学金魚にとっては重要なのです。俳人・歌人はそれが当たり前だと思っているし、詩人や小説家は、漠然と俳句・短歌は自分たちの文学とは違うからじゃんと考えている。それを突き詰めていけば、自由詩や小説の基準では俳句・短歌は文学ではない(現代文学の前提条件を満たさない)ということになります。それが間違いであることは言うまでもないことですが。
なぜ575なの?季語なの?っていう問いも同じことであります。よく俳人さんが言う俳句の定義は、「俳句は575の言葉数から構成され季語を含む」ですが、これって単なる形式定義で本質原理じゃないです。文学金魚はそ~いうところを、物わかりの悪いガキのように「なんで?なんで?」って問い続けていく場なんですぅ。
それにしても田沼さん、大岡頌司さんの研究者のようになってまひりました。僕はまだ大岡頌司さんという俳人の全貌はつかんでいませんが、田沼さんの原稿を読むことで、それが腑に落ちて、いつか「わかったっ!」と叫ぶ日がくることを期待しておりますですぅ。