No018【対話 日本の詩の原理】『絶対的体験と戦後詩―石原吉郎/黒田喜夫篇』(一 全三回)池上晴之×鶴山裕司 をアップしましたぁ。戦後詩の中核である「荒地」派の検討が終わり、今回から「荒地」派とは質の違う戦後詩・戦後詩人の検討です。
石原吉郎は終戦後にソ連によってシベリアに強制連行され、国際法では違反のソ連国内法で裁判にかけられ終身刑に近い強制労働を言い渡された詩人です。極寒の地のシベリアでの労働が地獄だっただけでなく、食事も満足に与えられず激しい飢えに苦しみました。終戦から8年後にようやく日本に復員します。しかし当時はレッドパージの最中で、石原たちシベリア抑留帰りの人たちは、ソ連に洗脳されたコミュニストではないかと疑われ、就職できないなどさらに苦しみました。
そういった体験をした石原の詩は特殊です。また討議で話されていますが、戦後詩は戦争体験者が書いた詩という意味があります。文字通りそう受け取れば、戦争体験者たちが自ら望んだわけではないにせよ、戦後詩・戦後詩人は特権的なものになりかねない。
寺山修司は『田園に死す』などで戦争を美化するような描き方をしましたが、それは少年には祝祭的に見えた戦争が、参加する前にフッと消え去ってしまったからだろうと思います。詩人としての寺山は従軍派詩人に反発しました。「戦争に行ったのがそんなにえれーのかよ」ということです。従軍派文学者が威張っていたわけではないですが、戦中派の少年たちは彼らにコンプレックスを抱いた。その息子たちが「戦争を知らない子供たち」として学生運動の中心となったわけですが、そこにも従軍した父や祖父たちへのコンプレックスがあったと思います。
「荒地」派のように理念として理解できる戦後詩より、石原吉郎のように体験に裏付けられた戦後詩の方が遙かに検討しにくい。スリリングな対話は次回に続きます。
■No018【対話 日本の詩の原理】『絶対的体験と戦後詩―石原吉郎/黒田喜夫篇』(一 全三回)池上晴之×鶴山裕司 縦書版■
■No018【対話 日本の詩の原理】『絶対的体験と戦後詩―石原吉郎/黒田喜夫篇』(一 全三回)池上晴之×鶴山裕司 横書版■
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