妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
おーい、と電話の向こうの相手は怒鳴っていた。時刻は夜の七時半、そろそろ閉店だ。店の電話は最近滅多に鳴らないし、いたずら電話の経験もないので、とりあえず間違い電話として対応する。
「すいません、こちらお店なんですけど」
「え? 俺だ俺だ」
そこでようやく父親だと分かった。それにしてもガサガサと聞きづらい。
「ちょっと音が悪過ぎて……」
「いや、俺だって、俺」
オレオレ詐欺なら立場が逆、俺から電話をするんだなと思いながら「聞こえづらいけどどうしたの?」と投げかける。
「ああ、これな、公衆電話なんだ」
「え、じゃあスマホは?」
「いや、そんなことは今いいから、ちょっと俺の声、聞こえてるか?」
うん、と答えるのと父親が用件を話し出すタイミングは同じだった。
「あのな、さっき母さんが事故に遭って、救急車で病院に運ばれたんだ」
「え! マジで?」
客数まばらな店内に俺の声は響いたらしく、一気に視線が集まる。俺は軽く頭を下げてから、その場に屈んで姿を隠した。その間もずっと父親は喋り続けている。
「ちょっと、ちょっと待って」
「ん?」
「そっちの音が悪くてよく聞こえないんだから、せめてゆっくり喋ってよ」
おおそうか、と応じた以降は何とか聞き取れたが、いかんせん喋っている本人が慌てているので状況が読みづらい。
「で、今どこから電話してるの? 病院の近く?」
その質問の途中で父親の小銭が無くなったらしく、呆気なく電話は切れた。
分かっているのは、母親が新大久保で何らかの事故に巻き込まれ、救急車で病院へ搬送されたということ。そして分からないのは、それ以外の状況と父親がなぜスマホからかけてこなかったのか。
「大丈夫? 何かあったの?」
食器を下げてきたリッちゃんが不安そうな表情で立っている。屈んだままだった俺は立ち上がり、小声で今の顛末を伝えた。
「え、おばあちゃん大丈夫かな……」
こんな時に呑気な話だが、リッちゃんが母親を「おばあちゃん」と呼んでいることを初めて知った。何となくしっくりこなかったので、頭の中で素早くシミュレーションを行ってみる。俺がリッちゃんだとすると、母親の兄弟の結婚相手の親を「おばあちゃん」と呼んでいる状態だ。やはり違和感がある。
「で、どうするの? お店」
今は情報が必要だ。本当はもっと慌てふためくような状況かもしれないのに、とにかく知らないことが多すぎる。病院の名前は分かっているが、電話ではプライバシー云々ですんなり話は進まないだろう。となると、やはり実際に行ってみるしかない。ただ本日当店は俺とリッちゃんの二人体制。マキは永子を連れて動物園へ出かけているし、リッちゃんはコーヒーを淹れられない。
「私、病院に行ってこようか?」
察しが良くて助かるが、さすがにそれは頼めない。きっとコーヒーを淹れるより大変なはずだ。やっぱりマキに頼むか、と思った数秒後に千葉に住んでいる兄貴が浮かぶ。たしか両親の家まで車で四、五分と言っていた。善は急げでかけてみたが留守番電話。心配そうなリッちゃんに「大丈夫、大丈夫」と座るように促しているとコールバックがあった。
「もしもし兄貴?」
「おお、どうした? 珍しいじゃんか」
いや実は、とかいつまんで説明すると「マジかよ」と驚き、「すぐかけ直すから」と電話は切れた。その間、一分もない。俺は手持無沙汰をごまかすように、今日の分の伝票を指先でパラパラとめくった。結局かけ直してきたのは五分後。こういう時の五分はやけに長い。
「悪い、遅れた」
「別にいいんだけど、どうしたの?」
「いや、今日はお袋とうちのヤツが出かけるはずだったよなと思ってさ……」
昼過ぎに二人が出かけた場所は新大久保のコリアンタウン。何でもお気に入りの韓国料理店があるという。聞きながら兄貴が結婚した当初、母親はあまり奥さんを気に入ってなかったことを思い出した。こんな時にやはり俺は呑気だ。
「で、今うちのヤツに電話したら確かに病院には行ってたよ」
「ああ、そうなんだ。で、大丈夫なの?」
「まあ大丈夫だけど大丈夫じゃないっていうか……」
歯切れの悪い兄貴によれば、事故が起きたのは夕方五時過ぎ。食事と買い物を終えてそろそろ帰ろうかという時に、母親のバッグが後ろから走ってきた電動自転車に引っ掛かり、バランスを崩して倒れてしまったという。
「当て逃げ?」
「形としてはそうなるのかな。転んだ拍子に腰の辺りを痛めたから、うちのヤツがタクシーに乗せて病院に行ったんだって」
え、と声が出たのは父親の話では救急車だったから。兄貴は「うん、そうだよな」と受け止め、「一旦最後まで聞いてくれよ」と話を続けた。
病院側の説明では軽い打撲とのことだったが、年齢のこともあるので一応レントゲンを撮ってから帰宅。奥さんの話ではそろそろ家に着く頃だという。
「なんか俺が聞いたのとは少し違うっていうか……」
「だよな。でも内容的には意外と大丈夫っぽいだろ?」
含みのある言い方にピンとくるものはあった。「今、オヤジは?」と尋ねてみる。兄貴相手に父親のことをそう呼んだのは初めてかもしれない。
「うん。やっぱり電話通じないから、ちょっと家まで行ってくるわ」
悪いな、と言うと「何だよそれ」と笑われた。その感じが頼もしかったので、「俺に救急車って言ってたのはどういうことかな」とぶつけてみる。色々テンパってたんだろ、という兄貴の声は少し重かった。
兄貴の電話を待ちながらの約一時間、俺はあまり動かなくてもよかった。店のドアに「CLOSE」の札をかけ、最後の客のレジ対応、そして簡単な清掃まで全てリッちゃんが手際よくこなすのを、カウンターにもたれかかって眺めていただけだ。途中、永子を連れて帰ってきたマキに今の状況を説明する時も、その体勢を崩さなかった。
「そっかあ。それはちょっと心配だね」
「どっちが?」
どっちもよ、と俺の肩を軽く二度叩いてマキは二階へ上がっていった。一番奥のテーブルでは永子から渡されたお土産をリッちゃんが広げている。
「あ、シロフクロウ!」
リッちゃんの声ががらんとした店内に響く。
「それ、すきなの?」
「うん、大好き! ほら、超かわいくない?」
そういえばまだ永子が生まれる前、小学生だったリッちゃんを動物園に連れて行った時も、シロフクロウがお気に入りだったことを思い出す。あの女の子が目の前で店の閉店作業を行っている姿は改めて感慨深かった。
「マキさんにありがとうって言ってくる。一緒に行く?」
うん、と頷いた永子の手を取りリッちゃんも二階へ上がっていった。気付けばマキのことを「さん付け」で呼ぶようになっている。俺に対しての呼び名はないはずだが、もしかしたら聞き逃しているだけかもしれない。リッちゃんと同じように俺も、そして父親も年齢を重ねている。あの人は今、六十七歳。そりゃ聞き間違えや言い間違えもあるか、と考えてようやく気持ちが軽くなった。
「パパちゃん、ごはんがはじまるって」
おう、と応えた直後に兄貴から連絡が来た。先に食べてて、と永子に伝えて電話に出る。
「おお、待たせたな」
「いや、全然大丈夫だけど、どんな感じだった?」
「うん、お袋もうちのヤツも帰ってたし、オヤジもその少し前に帰ってたよ」
「……結局親父はどこに行ってたの?」
俺の声のトーンに感じるものがあったのか、「まあまあ」と解しながら兄貴は教えてくれた。病院から連絡をしてくれたのは兄貴の奥さんで、その時父親は早めの晩酌中。酒が入っていたと聞いて、ようやく話がつながってきた。病院の名前をメモ用紙に書き、慌てて身支度を整えて外に出たが、運悪く父親のスマホは充電切れ。
「だから公衆電話だったのか」
「そう、新宿からかけたらしい」
だったら直接行けばいいのに、とこぼした俺に「病院の場所、分からなかったんだって」と兄貴が言う。交番あるよな? という質問は飲み込んだ。俺が晩酌中の六十七歳だったら、しかもスマホの充電が切れていたら、と想像するまでもない。夜の新宿はごった返している。外国人観光客も多い。今日の父親は頑張った方だ。店の番号だってちゃんと覚えていた。数秒、沈黙が続く。
「……店ではしゃっきりしてるんだけどね」
「そりゃ仕事だから、しゃっきりさせてんだろ」
確かにそうかもしれない。てっきりあれがアベレージだと思っていた。
「お袋の方なんだけどさ、今日はもう時間が遅いから明日以降にまた検査の結果を聞きに行くってよ」
色々ありがとう、と告げると「で、大丈夫なのか?」と兄貴が声を潜めた。
「マキさんの姉さんの子ども、預かってんだろ?」
「うん。今のところは特に問題ないかな」
何かあったら遠慮せず相談してこいよ、と兄貴は電話を切った。心配されるようなことは何もないが、そう伝わっているとしたら母親のせいだろう。
「パパちゃん、まだー?」
再び呼びに来た永子に「ごめんごめん」と応えてから店内の照明をオフにした。レジ金の処理は明日の朝だ。今やってもダメ。確実に間違える。
(第40回 了)
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