妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
春が来た。
あの正月のハプニング、老若男女が揃ったカオスな集いから約三ヶ月。よく時間の感じ方を「あっという間」と表すが、この期間は正反対、何だか長かった。もちろん諸々あったが、一番の出来事といえばやはりリッちゃんの件。本人の意思を尊重して、当面うちで暮らしていくことになった。あの日、娘を連れて帰ろうと頭に血が上っていた母親も納得した、らしい。
らしい、というのはそっち側とのやり取りをマキに丸投げしていたからだ。
「デリケートな話はさ、やっぱり親族だけで済ました方がいいんだよ」
「ええ? そうかしら。変に遠慮しない分、こじれやすいと思うけど」
そんな会話を交わしたのはカオスな集いの翌日、店の掃除をしながらだった。
マキは当初渋々だったが、結果的に自分で誓約書を作り、再びファミレスに姉を呼び出して話をつけてきた。書面には金銭についての項目もあり、月末にはリッちゃんの生活費用として決まった額が振り込まれる。両親には内緒にする、という一文もあった。尋ねると「まあ、面倒そうだからね」とのこと。あの体育会系の義父の顔が浮かぶ。事実を知ったら彼は怒るだろうか。何となく怒らないような気もするが、とにかくそんな事情から今年は年賀の挨拶に行かなかった。
「行かないのはいいけど、どう言うんだ? 何か理由は要るだろう?」
「そうよねえ。どうしようかしら……」
考えた挙句、永子の具合が悪いことにした。ダメな親だ。当然愚行には報いがあるので、その数日後に俺は発熱した。きっとバチが当たったんだと思う。
誓約書の最後には、リッちゃんが高校を卒業するまで、つまり少なくとも四年間は再婚をしない旨が記されている。母親の恋人の息子と兄弟になることを、一言「気持ち悪いよね」と切り捨てたリッちゃんの強い意向だ。
「あの人、再婚するのかしら?」
そんなマキの声には「しないだろう」、または「しないでほしい」という響きが混ざっていた。
「一応賭けてみるか?」
「え?」
「勝負にならないから、俺は『する』方でいいよ」
ああ、とマキは目元だけで笑った。賭けをするかしないかの答えはまだ聞いていない。
誓約書の件があってもリッちゃん自身に大きな変化はなく、冬休みが終わって学校に通い出してからは、何なら少し物足りないくらいだった。言い換えれば、日常に戻ったような、つまり前から一緒に暮らしていたような感覚。まさか誓約書まで作ったマキに同意を求める訳にもいかず、昼飯を食べに外へ出た際、ヤジマーからの連絡――つまりコケモモ関連の続報をどこかで待ち望んでいる自分に呆れる日々。そんな俺にトミタさんから連絡が来たのは、いつの間にか「ひらがな」をマスターしていた永子に、公園で簡単な数字を教えていた時だった。
「おお、今大丈夫か?」
「あ、はい。昼休みなんで」
「そうか、ちょうど良かった。あのな……」
話はカオスな宴の際に打診されていた女性カメラマンの撮影について。うっかり忘れかけていたことがバレないようにと不自然に声が大きくなる。聞けば数日前にカメラマン氏は来店し、通常の営業の様子を確認していたという。全く気付かなかったと伝えると「そりゃお前、カメラ持っていった訳じゃないからな」と笑われた。その結果、できれば通常の営業も撮影したいとのことで、まさかまだ両親に話していないとも言えず、明日までに折り返すとどうにかその場を凌いだ。
「永子」
「うん?」
「お前も可愛い写真撮ってもらうか?」
唐突な父の言葉に、あいつはヘヘヘととろけるような笑顔を見せた。多分イエスという意味だろう。
店に戻って両親にお伺いを立てると、意外にも歓迎気味のリアクションだった。
「いいの?」
「いいのも何も宣伝になるじゃないの」
ああそういうことか、と納得した息子に母親は声を潜めて「一人増えたんだし」と付け加えた。その言い方から察するに、実はリッちゃんの件、あまりウェルカムではないのかもしれない。月々生活費は入れてもらってるから、という言葉を呑み込んだのは、金のことなど気にしていないよというポーズだ。思うところはあるが、確かに今回は俺とマキの独断で話を進め過ぎたかもしれない。「じゃあ詳しい撮影の日取りが決まったら伝えるから」とだけ告げ、まだ大して汚れていないシンクの掃除に取り掛かった。
撮影についての打ち合わせは二月に入ってすぐ、できれば営業中の撮影は隠し撮り的に行いたいという先方の意向から、俺だけ呼び出された。永子付きでも大丈夫かと尋ねたのは、正直なところ少々心細かったから。
約束の日、昼飯を食べに行くとだけ告げていつもの公園へ向かう。仕事の邪魔にならないようにと配慮してもらった結果、野外でのランチミーティングとなった。頼りないパパちゃんの数歩先を、飛び跳ねながら進んでいく永子。
「はやくしようよ、ねえ」
「時間は大丈夫だから、慌てなくていいよ」
「でもさ、はやくしようよ」
公園の入口で「おーい」と手を挙げたのは上下ジャージ姿のトミタさん。隣にいる小柄な女性が当のカメラマンだろうか。多分、髪の色はブルー。すっと腰を屈めて、先に近づいた永子と視線を合わせてくれている。
「おお、仕事中に悪かったな」
「いや、いつもここで食べてるんで。な?」
そうだね、と少々よそゆきな永子をすかさずポラロイドで写し、「どうも、はじめまして」と頭を下げたのがカメラマンの城山さん。鮮やかなブルーの髪が年齢をぼかしている。
「先日、寄っていただいたとお聞きしたんですけど……」
俺の視線で言いたいことは伝わったらしく、彼女は「あ、これですね」と髪の毛を摘まんでみせた。
「さすがに目立つかなと思って、黒のウィッグを被ってたんですよ」
なるほど、どうりで見覚えがないはずだ。城山さんはハキハキ、そしてキビキビした人で、出てきた写真を「ハイ、これどうぞ」と永子に渡し「改めまして、この度はお世話になります」と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「お店の写真をおじさんから送ってもらって、わあ素敵だなあって」
「おじさん?」
俺の怪訝な視線を手で払うトミタさんの腕を取り、「ねえ、おじさん」と笑う城山さん。聞けば美大時代の同級生の娘とのこと。「おじさん、よろしく」と差し出した俺の手は「馬鹿野郎」と払われた。ポラロイド写真をもらった永子は、段々と浮かび上がる自分の顔を見つめながら、「あ、でてきた、すごーい」と身体を揺らしている。
城山さんのプランはシンプルだった。通常営業の撮影は基本的に隠し撮りなので、特に協力することはナシ。客の顔を写すようなこともないという。一方店内を使っての撮影は営業終了後に開始して、長くかかっても翌日の営業開始まで。早ければ終電前に終わります、とタブレット片手に説明を続ける。
「うちの方でやることは……」
「今のところはない方向ですけど、もしかしたらお願いすることが出てくるかもしれません」
例えば……と訊こうとした俺を制して「大丈夫だから」と頷くトミタさん。まあ、そりゃそうだなと俺も肩の力を抜く。
ミーティング自体は十分ほどで終わり、後は城山さんが持ってきてくれたサンドイッチを片手に御歓談。たくさんのポラロイド写真をもらって、永子も大喜びだった。そのうちの何枚かは今も店のカウンターの中に貼ってある。
城山さんが体調を崩し、予定していた日程が延期になるというハプニングはあったが、二月末に無事撮影も済んだ。
営業終了後の撮影は予想以上に大掛かりなもので、アシスタントにモデル、ヘアメイクと人の数が多いだけでなく、照明器具が数台運び込まれたりした。俺たちはトミタさんの解説を聞きながらその様子を見学し、中でもリッちゃんは被写体として撮影そのものにも参加。結局すべてが終了したのは日付が変わった午前二時過ぎだった。
「ねえねえ、しゃしん、まだー?」
撮影の翌日から永子はこの質問を繰り返している。一度日程を延期した都合上、写真が掲載されるという雑誌の発売日はまだ決まらず、毎度明快な回答を返さないパパちゃんは娘の信頼を少しずつ失っているようだ。
「まだいつになるか決まらないんだって」
「ええ、まだなのー?」
「ちゃんと分かったら教えるからさ」
「いっつもそればかり」
そんな様子を見ながら、「ようやくエイちゃんにも来るんじゃない?」と母親が言う。
「え? 来るって何が?」
「前も言ったでしょ。イヤイヤ期よ」
マジか、と思わず声が出たのは何となくそんな気がしていたから。今まで収集した情報のとおりだとすれば結構大変そうだ。
「まあ、でもあった方がいいんだよね?」
嫌そうに尋ねた俺に「別に大したもんじゃないわよ」と笑った母親。その母親が救急車で運ばれたと連絡が入ったのは三月の終わり、リッちゃんの春休みが始まった日の夜だった。
(第39回 了)
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