妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
とりあえず耳を澄ましてみたけれど全くのムダ。ヤジマーとトミタさんの会話が邪魔だし、それ以前に彼女の声をちゃんと覚えていない。
「自分が女だからですかねえ、娘のことを複雑だと思ったことはなくて。そりゃあ小さいなりに複雑なところはあるけど、それをカウントしてたらキリがないっていうか、四捨五入したらゼロっていうか」
聞こえてきたマキの声に「へえ」と感心する。言わんとすることは分かるし、何なら似ているような気もする。俺も普段永子の複雑なところを見つけたからといって、それを理解したいとは思わない。ただ四捨五入ではなく……。
「ああ、目盛りが細かいんですね」この声はトミタさん。
「目盛り、ですか?」
「はい。同姓同士だからミリ単位で測れる。だから四捨五入ができるんじゃないですかね。その点、私の目盛りは大雑把っていうか、そもそも娘とは単位が違うような感じでね……」
こうしてカウンターの裏で身を潜めていると、トミタさんの言っていることもよく分かる。単位が違うから理解できない。なるほど、そういうことか。将来、そのギャップが原因で永子と対立する可能性を考えようとしたが慌ててストップ。正月から縁起でもないし、いきなりヤジマーが妙な方向へ話を振ったからだ。
「でも羨ましいですよ、娘さんと二人で京都旅行なんて。太秦でしたっけ? いいなあ。いや、今奈良に住んでるんですけどね、単身赴任で」
完全な暴投。あの野郎、話を京都方面に向けてやがる。これだとアルコールの勢いで、いつコケモモの話を始めるとも限らない。「奥さん、あいつの元カノも京都なんですよ」なんて、十二分にあり得るパターンだ。俺は何食わぬ顔で立ち上がり、たった今二階から降りてきたフリで「お疲れ、お疲れ」と声を潜めた。マキ、トダの順でアイコンタクトを交わす。
「おお、来たか。こちら、今度娘さんとな、京都に旅行されるんだ。そういうの、憧れるよなあ」
ご機嫌のヤジマーに適当な相槌を返し、シラフのトミタさんにも謝罪含みのアイコンタクト。その流れでリッちゃんの母親を探すと……いた。さっきリッちゃんが座っていた席で、娘と同じくチハルさんと向かい合っている。どうやら占ってもらっているようだ。確かにカオス。どういう流れ? と訊く前に「本当、助かったのよ」とマキが囁き、「とりあえず座って」トダが椅子を取って渡してくれた。有難い。よいしょ、と深く腰掛けて二人から状況を教えてもらう。
聞けば店のドアを開けた時、リッちゃんの母親は挨拶こそしたものの明らかにヒートアップ中で、トダ曰く頭のてっぺんから湯気どころか蒸気が噴き出ていたという。マキが笑いもせず「髪の毛も逆立ってたし」と重ねた辺り、相当なテンションだったようだ。彼女はそのままゆっくり店内を見渡したが、当然リッちゃんの姿はどこにも見当たらない。
「ねえ、私の娘はどこ?」
もしそんな風に訊かれたら何と答えよう? 誰もがそう考えた時、彼女はピタリと動きを止めた。
「……え、タロット?」
そう言いテーブルにカードを出したままのチハルさんへ近づくところはマキも見ていて、「そういうのに興味あるって全然知らなかったけど、本当、助かったのよ」と声を潜めた。今も占いが続く向こうのテーブルから話し声は聞こえるが、お正月用BGM、そして酔っ払ったヤジマーのマシンガントークのせいで内容までは聞き取れない。
「もしお時間あるようでしたらね、是非とも奈良まで足伸ばしてくださいよ。うまい料理屋があるんです。太秦からなら一時間ちょっとで着きますから」
こいつは気持ち良さげによく喋る。トミタさんもシラフで相手するのは大変だろう。助け舟でもと思ったところでそんな酔っ払いと目が合った。ニヤッと嫌な笑い方。直後「おおそうだ、お前もさ……」と流れ弾が飛んできた。この馬鹿――。
「あれ? ヤジマー、そろそろ時間ヤバいんじゃないか? なあ?」
間一髪、遮ってくれたのはトダ。助け舟を出されたのは俺の方だ。もうこんな時間か、と慌てるヤジマーに寄り添い、身支度を手伝う後ろ姿に口の中で礼を言う。その次は謝罪。
「トミタさん、すいませんでした。悪気はないんですけど、昔から酒に飲まれるヤツで」
「本当、悪い人じゃなさそうよねえ」
そんなマキの一言にトミタさんも笑って頷いてくれた。この人がシラフで助かった、という本音は内緒だ。
「ちょっと駅まで送ってくるわ」
「寒いのに悪いな」
「ハイネケン、まだあるか?」
さすが名バーテン。こんな時でも在庫管理を忘れないのか。俺は小声で二、三本頼んだ。色々あったせいで、さっきまでのアルコールは抜けちまった。
「あ、そうそう、さっきご主人にはお知らせしたんですけどね……」
トミタさんが皿に残った惣菜をつまみながら、店を撮影に使いたいという話をマキに伝え始めた。まさか異論はないだろうから、俺はそっと席を立つ。一旦二階へ戻って、リッちゃんにここまでの現状を伝えておこう。不安な気持ちでいる時間なんて、なるべく短い方がいい。
カウンターの裏から確認すると、向こうのテーブルではまだ占いが続いていた。母親が占ってもらっていると知ったら、リッちゃんは何て言うだろう。ヒトって「占いが好き」みたいな部分も遺伝するんだろうか。そんなことを頭の片隅で考えつつサンダルを脱ぐと、今にも泣きだしそうな声がした。正月用BGMにかき消されない生々しい響きに足が止まる。
「そうですよね……。はい、すいません」
間違いない。リッちゃんの母親だ。マキの反応を見たくて数歩戻る。サンダルはいらない。身体をよじらせて覗くと、あいつは座ったまま様子を窺っていた。トミタさんも表情はそのままで身体を軽く傾けている。
「だけど本当にダメで……。頭では分かってるんですよ。これ、本当に分かってるんです……」
俺はその場にうずくまった。できるだけ正確な状況をリッちゃんに伝えるためだ。
「そんなに急がなくてもいいんですよ」
チハルさんの声も熱を帯びている。「はい、すいません」と繰り返すたび、リッちゃんの母親の声はぐちゃぐちゃになって輪郭を失っていく。こういう人と話すのは難しい。
「でもね、先生。私は前からそういうこと、予想できてたんですよ」
「そうですよね。予想、できてたんですよね。じゃあ、こういう見方なんかどうでしょう」
「はい、すいません……」
確実にリードしているのはチハルさんだ。こういうのって疲れるだろうな、と考えてしまう。俺は占いをまったく信じないけれど、いや、だからこそ大変な作業に思える。「先生」には一仕事終わったらビールでも飲んでもらおう。悪いけどトミタさんは帰りも運転手確定。そしてもうひとつ、リッちゃんの占いはまた今度。この後、もう一人は無理だ。
「この『悪魔』のカードですけど、こんな読み取り方もできるんです……」
俺は足音に気をつけながら階段を上った。防音扉を開けると「あっ」という声。落ち着かなかったのか、リッちゃんは部屋から出てきていた。
「大丈夫?」
「うん。私は平気。お母さん、大丈夫?」
さっきより幾分落ち着いたように見える。とりあえず座るように促し、俺も向かい側に腰を下ろした。迷うことはない。今の状況をありのまま伝えてみる。母親が占ってもらっていることについては「何でよお」と苦笑いをしていた。
「お母さん、占い好きなのかな?」
「ええ、知らない。聞いたことないよ」
俺の話を聞き終えたリッちゃんは、「そっか……」と何度も呟いては大きく息を吐き、眉間に皺を寄せながら目を閉じた。頭の中がぐるぐると回っているのが分かる。
「そんなに急がなくてもいいんだよ」
さっきのチハルさんの言葉を投げてみた。もし遺伝説が本当なら効き目があるだろう。特に反応が変わらないまま数分、そろそろ静寂が辛くなってきた頃、リッちゃんは「うん、決めた」と言って俯いていた顔を上げた。
「……そっか」
「うん。私、もう少しここにいる。それでもいい?」
「もちろん」
緊張から解放されたのか、ヘヘヘと照れ臭そうに笑うリッちゃんへ大切なお知らせをお届けする。
「あとさ、タロットは今日無理だ」
「ええ!」
「先生、多分疲れてると思うんだ。そんな状態でみてもらうよりさ……」
「まあ、そうだよね」
「親に貸しを作るのも悪くないだろ?」
そんな軽口にリッちゃんは天を仰ぎ、「結構よさそうなカードが多かったんだけどなあ」と言いながら部屋に戻っていった。
俺は寝室で永子の顔を見てから店に戻った。いつもは頬を触ると起きてしまうのだが、今日は二度三度触っても反応はナシ。もしかしたら、あの子なりに気を遣っていたのかもしれない。
店内にリッちゃんの母親の姿はなかった。さっきまで占っていたテーブルにはチハルさんのみ。俺は近づき「お疲れ様です」と声をかけた。
「あ、彼女、今帰ったわよ」
「そうですか。いや、本当にお疲れ様でした」
「いや、入って来た時にさ、この人キレてんなってすぐ分かったから、カード出しっぱなしにしといたのよ」
「え?」
「タロットっていうか、占い好きな人って多いからね。これで気が紛れればいいかなって」
想定外の好プレーに思わず「すげえなあ」と声が出た。急いでグラスにビールを注ぎ、「まずはどうぞ」と差し出す。
「いや、でも……」
「トミタさーん、帰りも運転、お願いしまーす」
「おお、任せとけ」
本人もああ言ってるんで、と勧めるとチハルさんはようやくグラスを受け取った。テーブルの上のカードには「THE DEVIL」の文字。大きな角が生えた半裸の悪魔が描かれている。
(第38回 了)
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