『モテキ』2011年(日)
監督・脚本:大根仁
キャスト:
森山未来
長澤まさみ
麻木久美子
仲 里依沙
真木よう子
リリー・フランキー
上映時間:118分
■ニュー・ジェネレーション■
さえない男に訪れた突然のモテ期。全くタイプの異なる二人の女性に揺れる様をユーモラスかつドラマティックに見せていく本作は、従来の日本映画の枠に収まらない魅力を有していた。『モテキ』は、まさしく日本映画における新世代の作品であり、日本映画の新たな可能性が詰まっていると言っても過言ではない。まず序盤からして驚愕だ。
コンビニで週刊誌を立ち読みしながら弁当の温めを待つ藤本幸世。ナレーションによって自虐的で童貞賛美的な心境が暴露されていき、やがて俳優の名前だけでなく、役名まで書いているテレビドラマ的なタイトル・クレジット(映画では感情移入を妨げるため、俳優名と同時に役名を入れるのはタブー)が挿入され、ついには日本人がやるとバカバカしいと非難され続け日本映画界から敬遠されてきたミュージカルまでもが入り込む。
映画のスクリーンをカラオケテレビのようにして歌詞や曲名が表示されるカラオケ描写など、往年の日本映画で構築されてきた約束事やタブーを意図的に無視し、あまりに新鮮で、あまりに大胆な演出を次々と挿入するダイナミズムは、もはやテレビ的というよりも映画的と言えるだろう。なぜならバラエティ感覚の演出をスクリーンで観るとカラオケの歌詞やトレンディ・ドラマのような(いや、それ以上の)過激演出が新鮮味を持った刺激として迫ってくるからだ。まさしく本作はテレビドラマだけでも過剰と思われがちな演出の数々をスクリーンに投影したことで、真に映画ならではの体験(未だかつて体験したことのないような新鮮な映画体験)をもたらしたと言える。そういう意味で、本作はテレビ的な演出を映画的へと変貌させた映画作品と位置付けることができるだろう。
近年の日本映画の中で最も大胆で挑発的なタブー破壊映像を映画館のスクリーンで見せつけるダイナミズムは、もしかしたら保守的な映画評論家たちに「本作はテレビ映画だ」と言わせ、批判的な見解を導きだすかもしれない。だがテレビ番組の演出をそのままスクリーンに投影し、極めてシリアスなロマンスの問題を随所に挿入していく構造は、日本映画の新たな姿そのものとして見ることもできよう。その新鮮さと大胆さだけで本作は十分に価値があるのではないだろうか。また男女の赤裸々なパフォーマンス性が本作を日本映画の秀作へと導いていると評価することもできる。それは言うまでもなく、俳優陣の演技や表情、仕草から滲み出る言語化不可能なパフォーマンス性の魅力である。
■パフォーマンス性という映画の魅力■
映画には様々な魅力がある。ショットとショットの衝突による映像の魅力。音響の魅力。脚本の魅力。そしてパフォーマンスの魅力である。本稿でのパフォーマンス性とは、『男はつらいよ』の渥美清に見るような決して真似をすることができない、その場限りの雰囲気や表情から滲み出る魅力的な刺激のことを指している。もちろんこのパフォーマン性は映画固有の刺激ではなく、テレビでも同様の刺激が得られるだろう。例えばお笑い芸人のコントやドキュメンタリー作品に映る被写体の表情、演技なき自然体の声といった人間にしか享受できない刺激(パフォーマンス性)は、カメラが俳優を映像として捉え、幻想的な物理的現実の再現としてスクリーンに投影し、観客に認識されることによって初めて魅力的となる。これには文法がなく、言語化するのは不可能である。また一般的にテレビよりも映画の方がパフォーマンス性に力を注ぐ傾向にあると言われるのは、映画が暗闇の中でスクリーンを注視し続けなければいけない環境下にあることを前提にしているからだ。テレビでは常に何かをしながら画面を見ていることが多い。そのため一瞬の表情や仕草などに表現されるパフォーマンスが受容されにくい欠点があり、言うまでもなく映画にはそれがない。そのため映像注視の前提を持つ映画は、非常に繊細かつ瞬間的な煌めきを表現することが可能となり、パフォーマンス性は映画に適した表現性として評価されてきた。
本作『モテキ』は、そうした俳優陣のパフォーマンス性を前面に押し出した作品に思えるし、それが本作の大きな魅力の一つになっていたように見える。例えば長澤まさみが雨の中、浮気に対する心境を暴露するシークエンスや麻生久美子の重たい執念、エロティックでドラマティックなキス・シーンの数々、または彼女たちの微笑み、全てが自然体で、彼女たちの人間性を活かした表情や仕草や声が観客を引き込んでいく。
そしてパフォーマンス性は、時に劇的な展開を魅せるロマンス描写とも絡み合う。麻生久美子が森山未来とバイバイして、歩いていくシーン。思いつめた表情で歩く彼女をカメラはバストショットで捉え、ビルにハートマークが点灯されているのを彼女が見ると何かに勇気づけられたように彼女は走っていく。ここまでをワンシーン・ワンショットで写し、彼女の心的変化と微妙な恋心を的確に表現していた。そして甘いキス・シーンも徐々に近づく二人のくちびるをカットバックによって焦らし、じっくりと見せつけていくから素晴らしい。
またラストで森山未来が長澤まさみを追いかけていくシーンもミラーボールの反射する輝きで深夜の森が染められ、ロマンティックな感覚を漂わせる。そして文字通り、泥だらけの純情は、旋回するカメラワークで『キャリー』Carrie(76)のプロムでのダンス・シーンのごとく幸せいっぱいに見せるから巧みではあるまいか。これほどまでにドラマティックな表現とパフォーマンス性は、二時間もスクリーンを注視し、大きなスクリーンで包み込むような世界観を体感できる映画でしか体験することができない魅力と言えるだろう。
しかしポップなバラエティ番組のように大胆なコメディとミュージカル(カラオケ?)、MV的感覚でスクリーンを染め上げる本作をテレビ画面で見てしまうと「まるでテレビみたいな映画だ」と払拭されてしまうかもしれない。だからこそ本作は映画館で見るべき作品なのである。あのスクリーンにカラオケの歌詞が表示される新鮮さと彼女たちのパフォーマンス性、そしてドラマティックなロマンス演出を堪能するには、スクリーンで体験するしかない。まさしく本作は映画館で観るべき日本「映画」であり、近年増殖する「映画館で観ることが魅力にならない作品」とは全く異なる新世代の日本映画であったように思われる。日本映画の質が下がっているというのは「古いものこそ優れている」と勘違いしている保守派の人間が抱く幻想だ。『モテキ』の主題歌である「夜明けのBEAT」という曲名のごとく、日本映画は躍動の夜明けを迎えようとしている。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■