増村保造『青空娘』1957年(日本)
監督:増村保造
脚色:白坂依志夫
原作:源氏鶏太
撮影:高橋通夫
出演:若尾文子/菅原謙二/川崎敬三
上映時間:88分
古い日本映画はセリフやテンポが遅く退屈で観ていられない、もしそういう固定観念をもっていたとしたら、おそらく増村保造という映像作家の映画に出会っていないからだろう。今から約60年も前に映画を撮りはじめた増村が描く映像の速度は、あまりに速い。むろんそういった新しい映画を用意する基盤は、1950年代半ばあたりに、同時代的に存在していたといえるだろう。中平康は前衛的な映画を1950年代に提示した最も早い監督の一人であるし、中平も加わった太陽族映画による性や暴力の前景化、それは個人の肉体の過激な運動をスクリーンに映しだし、当時の観客にとってそのような「スペクタクル」な描写は、観る者をスリリングな映画体験へと誘った。いや、そういった基盤はむしろ黒澤明による徹底的な自我の描写による力強い身体イメージからの系譜だと考えることもできる。
それでは、これらの肉体の映像化を決定的に差異化する要素とは何だろうか。むろん、それは映像テクストの中心的要素を担う俳優である。占領期的なイメージをまといデビューした三船敏郎と、占領期的な戦後とは違う次元で戦後イメージを体現した太陽族的な石原裕次郎では、映画において担う〈意味〉が全く異なっている。そしてそれは当然のごとく、占領期的な戦後スター女優である京マチ子と北原三枝との関係にもいえることだ。したがって、増村保造の作家性を考えるとき、彼の思想を体現する女優として、若尾文子について考察しないわけにはいかないのだ。今回は、増村と若尾が初めてコンビを組んだ記念碑的映画、『青空娘』(1957年)を取り上げ、増村映画の「新しさ」が見事に女優によって具現化されている瞬間をとらえたいと思う。
若尾文子のどこに魅かれるのか、この問いは極めて難しい問いである。例えば、原節子や京マチ子という女優を考えてみると、当時としては大柄な体格とその美貌、あるいは国際的に流通したスターイメージが構成する「貫録」からか、この二人は日常生活を切り取る低予算の映画にはフィットしない。逆にいえば、若尾文子はそういった女優のイメージとは対極にあり、低予算の映画であってもその映画を引き締める力を持っていたと思う。映画製作本数が軒並み上昇し続け、入場者数・映画館数とともに歴史的にみても頂点へと達した1950年代半ばから1960年あたりにかけて映画を量産する産業構造に適応する女優が求められるようになる。若尾文子はそういう時代、すなわち第二次黄金期といわれる時代に映画とともに生きたスター女優だった。
1960年代以降の若尾文子のイメージを持つ僕たちにとって、若尾文子の美貌は絶対的なはずだ。それは「大女優」として彼女が日本の巨匠たちと作ってきたイメージ、ファム・ファタールとしての魅惑的な「大人の女性」としてのイメージから過去を〈眼差す〉現代の観客の視点に他ならない。しかし、1950年代の若尾文子は「大女優」というよりも「スタア」であり、間違いなく圧倒的な人気を誇っていたのだが、近寄りがたい美しさとは全く別の受容をされていたのである。当時の観客や批評家の言説をここに並べるまでもないが、一つだけ例をあげておこう。当時、1955年から『平凡』の人気投票で第一位になりスターダムの頂点へと輝いた若尾文子は、しばらくの間、首位を独占することになるのだが、当時のファン雑誌の女性の12の類型の中で、彼女は「平凡型」に分類されている(ちなみに美空ひばりは「下町娘型」である)。そして、若尾文子は「どこにでもある平凡な顔、したしみ深い可愛い顔というのが若尾さんの人気の源泉」と書かれていることからもわかるように、どこにでもいるような平均的な女性として人気を誇ったのである*1。50年代の同時代の枠組みから若尾文子を眺めるために、現代に流通している「美しすぎる若尾文子」と対照的な当時のポスターのイメージを眺めてみても、その「平凡」さが読み取れるはずだ(図1)。
図1 増村保造『青空娘』ポスター
1950年代の若尾文子のパフォーマンスの魅力は、その「軽妙さ」にある。若尾文子が妖艶さをスターペルソナとして確立する前の、例えば、溝口健二の『赤線地帯』(1956年)の若尾文子と『偽れる盛装』(1951年)の京マチ子のスクリーンの身体を比べてみればいい。明らかに若尾文子のしなやかな身体の運動とそれがもたらす「軽さ」が、キャラクター造形に大きな貢献をしているのがわかる。同じように機智に富む芸者や娼婦を演じても、若尾文子ほど、軽やかな動きと機転の利く会話が絶妙にマッチする女優は同時代にいないのだ。
1952年にデビューした若尾文子には、占領期的戦後のイメージがないこともスターイメージに大きく影響している。文化的・社会的・歴史的現象としてのスターは、それぞれの時代によって大衆に欲望される理想化された集合的イメージである。スクリーンの表象のレベルでこの当時の若尾文子の顏や身体を考えると、田中絹代の戦前的美の規範と、戦後直後に求められた原節子や京マチ子のような大きなパーツによる強烈な印象(バタ臭い顔といっていいだろう)とのちょうど中間にあたる。若尾文子の顏のパーツはたいして大きいわけでもなく、原節子や京マチ子に比べるとこぢんまりとしていて、戦前と占領期的美の規範の中間であるように思われる。そしてそれはスクリーンの「動き」においてもあてはまる。田中絹代の静的な身体と原節子や京マチ子の動的な身体(小津映画以外の占領期の原節子のイメージ)を止揚させる若尾文子のそれは、動的であるが決して原節子や京マチ子ほどぎこちない動きではなく、そこにある種の静的なしなやかさを残すような身体の運動であり、その独特な身体表象を僕は「軽妙さ」と表現したいのだ。さらに言えば、まだ洗練されていないこの時代の若尾文子は、あどけなさが残り、アングルによってはたまにコミカルに見える顔が、親近感を与えているのだと思う。だから、例えば増村保造の傑作『巨人と玩具』(1958年)で野添ひとみが演じた島京子を、若尾文子が演じたらどうなるだろうなどと空想させられたりもする。
このような若尾文子と増村保造が大映という場で出会ったことは、映画史における事件だといっていい。それほど、この二人は日本映画史にこれまでになかった「革新性」をもたらした。増村はこれまでの巨匠たちの映画を過去のものにすることに意図的であった。彼は、自分の作家性を俳優の「身体」を使って映像化すると同時に、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちと同じように評論誌に批評を書いていくことによっても実践し、既存の映画や身体を過去のものとしていった映像作家である。もちろん、上述したように、中平康が、これまでの日本映画が社会的な主題と荘重深刻なスタイルをもった作品を作り、それを日本の映画ジャーナリズムがもてはやしたことが日本映画の動脈硬化をもたらし、それを「荘重深刻派」と批判したことからも、1950年代の新しい流れが同時代的にあったことが理解できるだろう。中平康の「反・荘重深刻派」と題された文章は、増村保造の「ある弁明―情緒と真実と雰囲気に背を向けて―」と同じく、『映画評論』(1958年3月号)の特集「新人宣言」に掲載され物議を醸した。
増村保造はそれまでの巨匠たちとは違い、東京大学法学部を卒業し大映に入社し、東京大学哲学科に再入学した後、イタリアに留学しフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティに学んだインテリ映像作家という特異な出自をもつ。その留学体験から日本映画を相対化する増村は、その批評実践で、「大部分の人間が環境に埋没」しており、「敗北と犠牲に酔う情緒なるものに興味も、魅力も感じない」とそれまでの日本映画の巨匠たちを一蹴する*2。細かい議論はさておき、増村の映像理念を分かりやすくまとめてみよう。増村の映画を、すでに名声を確立していた巨匠たちの映画と比較してわかりやすく説明するなら、小津安二郎や木下惠介が綺麗で整えられたセットや美しい自然のなかに人間を配置したり、背景や自然と融合させたりするのに対し、増村映画は、そういった自然や周囲の環境を切り捨て、映画の身体と人間の内面を同期させるようにカメラを人間に向け克明に描いていく。前者の人間の情緒は、海や山など、あるいは部屋の空間などの環境が語るのに対し、後者の情緒は、剥き出しの人間の身体そのものが語る。つまり、身体こそ物語を語るべきものなのだ。だからこそ、増村は、『明星』に連戴された源氏鶏太の小説のメロドラマ的構造を骨抜きにし、その枠組みから逸脱するような演出を若尾文子に施し、高橋通夫のカメラワークを駆使することで、新しい青春映画を完成させた。それが今回取り上げる『青空娘』である。
物語はシンプルで、若尾文子演じる小野有子は、伊豆の高校を卒業し、育てられた祖母の死にさいし、東京の父母のもとで暮すことになるが、本当の母は別にいることがわかり、小野家の継母を始め、その家族に女中扱いされる日々を過ごすことになるシンデレラ的ストーリーだ。増村は、環境によって何かを語ることを避けるとすでに述べておいた。それではここで、増村が都市をどのように描くかみてみよう。小津が室内の片隅にそっとカメラを配置し、フレーム内にあるすべてのものや、俳優の動き、あるいは服装や間など、完璧なまでに計算された様式美をやや下の方からとらえるとしたら、増村は室外でパフォーマンスする俳優のすぐ真下から、その俳優をあおるように狙い(図2)、生々しい肉体をスクリーンに描き出す。その個人としての人間は、フレームをはみだして、極めて不安定な構図を作っていることすらある(図3)。
図2 東京に到着する若尾文子 図3 迎えに来る女中のミヤコ蝶々
この映画のショット構成をみてみると、増村が「風景への無関心」を徹底的に貫いていることがわかるだろう。例えば、都市のスピード感を表すのに増村は、東京の雑踏や人ごみを映すことなく、次々とフレームインしてくる俳優の身体とそれが発する言葉を徹底して速める演出をする。そのようにして、これまでの日本映画が描き損なってきた「速度」という主題に挑戦しようとする増村の気概が感じられる力のこもったシーンが多くみられる。
図4 フレームインする人々 図5 街行く人と対話する若尾文子
ここで実践されている対話の速度は、同時代の映画に比べて圧倒的に速いテンポで話されている。さらにカメラのアングルによって感じさせる「圧迫感」と、周囲の情景を描くことなくフォーカスする人間の身体と会話のスピード感によって、観客を一気に映像の世界へと引っ張っていく。このような「速度」の映像化には、増村による対話の演出だけでなく、高橋通夫によるカメラワークの技術も大きく貢献している。俳優の微妙な動きにあわせて、絶妙な間合いでカメラを細かくティルトやパンすることによって、俳優の動きや、ショットとショットの間に「速度」を導入しているのである。
一人の人間を愛し、映画を愛するイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニに学んだ増村が師の影響を受けているとすれば、その一つにフレーム内を人間の身体で埋め尽くし、画面を高密度化させるところだろうか。フェリーニは、主人公を過密化する画面に配置し、その後、一人にして空白を挿入することで、主人公の心情を映像化する。つまり、画面の過密度化/過疎化というカットの運動は時間の経過と「余情」を体感させ、過ぎ去った「時間」と心的「距離」という主題を導入しているのだ。しかし、増村はそういうモンタージュの時間的運動と効果に興味はない。「私は情緒をきらう」、「新人宣言」で増村は確かにそういった。
図6 過密度化するフレーム(1) 図7 過密度化するフレーム(2)
おそらくそのような効果に興味を示さないのは、増村が批判対象とする巨匠たちのようにセンチメンタリズムを描いてしまうからだろう。その証拠に、若尾文子演じる有子が、やっとの思いで本当の母と再会をはたしたこの物語のクライマックスである料理屋の感動的なシーンで、ずっと団体客による炭坑節の陽気な唄が流れているし、そもそも、これまでのメロドラマであれば観客を泣かせにいくような情緒的な演出を徹頭徹尾避けている。戦後、多くの観客を獲得し流行した母物映画や、涙を誘う典型的なメロドラマ映画は、社会的テーマを主題とし、物語の展開と分かりやすいオチ、あるいは犠牲的精神によって涙を搾り取る構成になっている。だが増村の映像をみると、そういった映画から距離をとり痛烈な批判をあたえているように思われるのだ。そしてこれまでの映画との決別は、増村の実践を具現化する若尾文子というスター女優によってこそ可能になっている。
「女中」として東京の家で働く若尾文子の、細かい所作や振る舞いをみてみると、その動きから、頭の回転の速さや聡明さが感じられるだろう。あるいは、振り向くときや、歩くときの軽やかな動きは、太陽族映画の気持ち良さとは異なる爽快さを提示している。とくに、バストアップやクロースアップで若尾文子がみせるパフォーマンスに注目すれば、細かいまばたきや目線の移動、あるいは口元の微妙な動きなどの表情や、指先の動きによって、画面内は「動き」に満ちているのだ。それでいて、せかせかしたキャラクターとならないところが、増村と若尾の技術の巧みなところだ。このようなキャラクターを小津映画に登場させることを想像してみるといい。極めて新しく異質な、しかし、それでいてリアルな都市の人物像が描かれていることがわかる(むしろ、この時代、小津映画の登場人物の方がリアリティのない異質な存在だろう)。
『青空娘』、これはメロドラマ的構造をもった青春映画であり、垂直軸ではすれ違い続ける本当の母親に再会するメロドラマが、そしてその再会に突き進む過程での二人の男との恋愛ドラマが水平軸として描かれている。しかし、この水平に進んでいくドラマは気持ちよく解決されることなく、絵の先生である二見と、長女の友達であり有子にプロポーズする広岡との間で宙吊りになっているように思われる。少なくとも、不十分なかたちで「解決」されているようにみえる。増村はその「解決」にも無関心なようだ。増村が、イタリア留学の経験によって痛感したのは、「日本人の性格がすべて二重構造を持っている」、つまり「本来の内面的な性格と社会の中で見せる外面的な性格とが全く異なる」ということであった。そういう経験を経て、増村は自分の作品のなかで、「内」/「外」という二面性を持つこれまでの日本の精神文化から「外」=「外面的な性格」を一切排除し、「『素顔』――日頃は蔽われている単純素朴な内心の愛と哀しみを、せい一ぱい白日の下で躍らして見ようと考えた」わけだ。「外」、すなわち「環境の排除」、というのは、身体だけを焦点化し風景を描かないことを意味しない。増村は、これまでの日本映画のように風景が映画の物語に「意味づけ」を与えることを嫌がっただけでなく、身体のリアリズム=モダニズムを追及しようとした作家のはずだ。だからこそ、先生への気持ちを広岡に打ち明けておきながら、(先生には彼女がいると勘違いしたままだが)「なんとなく」広岡と一緒にいる未来を描いた状態で映画を終えるのである。
恋愛関係の不十分な「解決」を批判してはならない。なぜなら、増村は継母や兄弟による意地悪に負けることなく、青空のように明るく生きる娘、そのありのままの姿、「単純素朴な内心」を嘘偽りなく描いたのだから。日常生活の中で、自分の気持ちが自分にとってはっきりわかることなどそうあることではない。むしろ、曖昧なまま、本当の気持ちなど、理解することなく僕たちは暮らしているはずだ。環境や風景によって意味づけられる効果としての「物語」ではなく、その物語の過程で必死に生きる人間の現在形の身体を、増村保造と若尾文子はこの映画でエネルギッシュに創造しているのである。
【註】
*1 「女性美に関する十二章」『平凡』1955年1月号(第12巻・第3号)149-155頁. また、なぜ1950年代半ばにおいて、このような「親近感」や「庶民的」なスターイメージが要請されるようになったのかは、原節子、京マチ子、高峰秀子、若尾文子を中心とする戦後のスターダムの変遷から筆者が修士論文『映画的身体の歴史社会学―占領期/ポスト占領期におけるスター女優の身体表象と言説分析―』2015年(未刊行)で扱っている。
*2 増村保造「ある弁明―情緒と真実と雰囲気に背を向けて―」『映画評論』1958年3月号(第15巻・第3号)16-19頁. 以下、増村の発言のカッコはすべて「ある弁明」からの引用。
北村匡平
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■