『007 スカイフォール』Skyfall 2012年(米・英)
監督:サム・メンデス
脚本:ニール・パーヴィス 、ロバート・ウェイド 、ジョン・ローガン
キャスト:
ダニエル・クレイグ
ハビエル・バルデム
ジュディ・デンチ
ベン・ウィショー
レイフ・ファインズ
ナオミ・ハリス
上映時間:143分
イスタンブールでの任務中に新人エージェントの誤射によって死亡したことになった英国諜報部員のジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)。その後、007不在のMI-6は何者かによってテロ攻撃を受け、英国政府からはMI-6の存在そのものを疑問視されるようになってしまう。負傷しながらも生存していたボンドは英国に帰国し、エージェントとして復活するが、彼の前に現れた敵は、かつての諜報部員シルヴァ(ハビエル・バルデム)であった。彼は過去に己を見捨て裏切ったM(ジュディ・デンチ)への復讐に燃えており、ボンドはMを守るため、生まれ故郷であるスカイフォールへと向かう。『007/カジノ・ロワイヤル』(06)『007/慰めの報酬』Quantum of Solace(08)に続くダニエル・クレイグの007新シリーズ三作目。
一見すると典型的なスパイ・アクションのように思えるが、『007 スカイフォール』は007史上最もイギリス的な主題を有した作品ではないかと思われる。と言うのも本作は(イギリスのロイヤル・ファミリーに見る)「伝統」と(産業革命やパンク・ロックを生み出した)「革新性」の両方を備えた英国の特徴を物語に組み込んでいるように思えるからだ。すなわち「伝統と革新の両義性」というイギリス的主題の表現である。
007の旧・新シリーズとも絡みながら展開する英国的主題が、本作においてどのように表現されているのかを明らかにするために、まずは個々の展開(プロット)によって暗喩的に表現された新世代と旧世代の対比構図から見ていくとしよう。
■「新」が「旧」を脅かす時…■
序盤。イスタンブールでテロリストの男を追っていたジェームズ・ボンドは相手と格闘している際に新人エージェントの黒人女性イヴの誤射によって被弾し、川に転落する。イヴがボンドのことを「old dog(古犬)」と呼ぶように、彼女とボンドは新世代と旧世代の関係として読み取れるだろう。とりわけニューフェイスのイヴが古犬を撃ち殺す光景は、世代交代と古株の転落を暗喩的に物語っていると言える。実際にボンドはその後に帰国するが、引退を勧告され、エージェントへの資格審査では落第点を取り、身体的・精神的な老いを見せていた。こうしたボンドの肉体的な衰えは、『007/カジノ・ロワイヤル』Casino Royale(06)から始まるダニエル・クレイグの新007シリーズで重視されてきた「ボンドの人間味を表現する」という方向性と一致しているが、本作は単に彼の老いだけを描いてはおらず、むしろニューフェイスの台頭と世代交代の懸念を強調していたように思われる。
例えばエージェントQと美術館で会うシーンでは、ボンドがQを「若造」と言って批判し、「世代交代か…」と苦笑いを浮かべる。しかもQが絵を見て「どんな凄いものでもいずれは朽ち果てる」と指摘するように、ボンドがそこで見つめている絵画は軍艦が沈み、哀れな姿で回収されている絵画であった。こうしたイコンは、明らかにボンドの老いとニューフェイスの台頭、いわゆる世代交代を意味していると読み取れるだろう。さらにボンドが宿敵シルヴァに趣味を訊かれ、「Resurrection(復活)」と答えているのは、何度も復活しなければならない状況にある年老いた自分への皮肉であり、英国的なブラック・ジョークに他ならない。
またMを審問する諮問委員会のシークエンスも新体制と旧体制の対立が象徴的に描かれていた。まず目が行くのは諮問委員会に出席している大臣である。彼女はジュディ・デンチ演じるMよりも一回りは若く、Mに対して攻撃的な姿勢をとり、MI-6を攻撃する。この新世代の英国政府と戦後からMI-6に従事してきたMの対立は、ボンドがニューフェイスの誤射によって転落していく光景を暗喩的に再現したものとしても読み取れるだろう。すなわち新体制の英国政府によってMI-6は転落させられるという表象である。
ニューフェイスと古株。新体制と旧体制。こうした新旧の対立構図は、伝統と革新の混合に揺れる現代のイギリスそのものではないだろうか。すなわち伝統と革新の両義性という英国的主題である。ボンドを演じたダニエル・クレイグが「(監督の)サムと話し合うなかで、本作をイギリスの基本的価値観に深く根差した真のイギリス映画にしたいということになった」と述べているように、本作は新旧の混合を戸惑いながらも柔軟に認めてきた英国の今を表現していると言っても過言ではない。
地下鉄テロの描写など現代のロンドンで渦巻くテロへの不安を扱っていることからも本作が現代の英国そのものを活写しようとしていることが伺える。また旧シリーズに毎回登場したQとマネーペニー、男性M、旧ボンド・カー、ワルサーPPK/Sが続々と登場するという展開も旧007シリーズ(伝統)と新007シリーズ(革新)を混合させるという新旧混合の美学を感じさせてくれる。勿論、伝統的007を新世代で「Resurrection(復活)」させる美学は、伝統と新世代の混合に揺れながらも尊重する英国そのものの姿であることは言うまでもない。そのように考えた時、『007 スカイフォール』はダニエル・クレイグが述べた通り、伝統と革新が混合する戸惑いと美学を尊重した英国らしい007となるだろう。伝統と革新の両義性、それが本作『007 スカイフォール』における一つの価値ではないだろうか。
だが一方で、本作が007シリーズという非物語的要素を用いて現代の英国そのものを暗喩的に活写した作品という位置付けだけでは片づけられない魅力を有しているのも事実である。例えば撮影監督ロジャー・ディーキンスの映像表現もその一つだ。
■ロジャー・ディーキンスの仕事■
アカデミー賞受賞作品『トゥルー・グリット』TRUE GRIT(11)でマット・デイモンから絶賛され、3度のアカデミー賞受賞経験を持つ撮影監督ロジャー・ディーキンスの仕事は、本作が007シリーズであることを忘れさせてくれる。もしくは彼の印象的な視覚表現は、主人公が格闘していることを忘れさせてしまうかもしれない。なぜなら彼の独創的な表現において、格闘といったアクションは、グラフィックな美的さを際立たせるための身体表現的な材料であるかのように見えるからだ。とりわけ感嘆させられるのは、上海のビルディングの中で繰り広げられる格闘シーンではないだろうか。
上海の摩天楼は全体的に透明感のあるブルーの色調で統一されている。ガラスを手前に配置し、グラフィックなイメージ映像を奥に配置するなど、奥行き感に満ちた構図が印象的に映し出される。しかも格闘シーンにおいては、ボンドとテロリストの表情は映されず、どちらがボンドなのかもわからないようになっていた。そこに映し出されるのは、澄んだブルーに満ちたデジタル映像と二人のシルエット。そして彼らの周りを取り巻くガラス窓と床に散りばめられたガラスの破片。その一つ一つのショットは、デジタル的な世界観をイメージさせつつも表現主義的でノワール的な世界を匂わせていたように思える。
さらに上海のすぐ後には、マカオの幻想的な世界観が観客を魅了するだろう。イルミネーションの明かりが闇夜を照らし、古風な建物は電気信号によって染め上げられている。そこにタキシードを着て佇むボンドは、ジェームズ・ボンドというよりもスクリーンに映し出される美的イメージを際立たせるためのモデルであるかのようだ。
またスカイフォールのイメージも印象的である。007の故郷であるスカイフォールは、上海やマカオのデジタル的イメージとは対照的に、荒廃的なイメージで覆われており、宿敵シルヴァの隠れ家(小島)も退廃的なイメージが先行する。新体制英国とMI-6が対比され、ニューフェイスと古犬ボンドが対比されたように、美的な視覚表象もまたデジタルVS荒廃的世界という構図で対比させられていたと読解するのは、いささか読みすぎというものであろうか。
何にせよディーキンス的とも言える闇と光のコントラスト、そして退廃的で静的な表現性によって、本作は従来のダニエル・クレイグ版007(カット割りの多い00年代のハリウッド・アクション)とは一線を画すことになるだろう。むしろ本作は、逆に安定したアクションを展開させ、その安定し、どっしりと構えた画面の中に構図的な美を表現していたように思える。列車をクレーンで破壊してボンドが車両に飛び乗るシーンでもアクションを際立たせるよりかは、画面的な構図が尊重されていたように思う。そうした安定した構図が保たれていたからこそ、観客は、刺激的な状況でも冷静にスーツを整えるボンドの紳士的振る舞いを堪能することができたのではないだろうか。
映画は往々にして映画監督だけが全てを牛耳っているように思えるが、役割分担を重視するハリウッドの映画産業においては撮影監督の演出が多く介入する。勿論サム・メンデス監督も先に挙げた美的世界観を構築するのに大きく関わっていると思われるが、少なからずこれらの視覚世界はロジャー・ディーキンスという撮影監督の力量が関わっていることも頭に入れておくべきだろう。いずれにせよ本作『007 スカイフォール』が従来の007シリーズにはないような、まるでそれは映画小僧が撮ったかのような構図的な美を漂わせる映像表現を魅力としていたことは間違いない。又そうした視覚表現が本作をアクション映画というジャンルの枠に収まらない作品へと昇華させていたように思える。だがその一方で本作は、しばしば象徴的な形で、ジェームズ・ボンドの忠誠心という非常に古典的なモチーフを描いていた。この点にも注目してみるとしよう。
■忠誠心という美徳■
本作の悪役であるシルヴァとボンドは、ある種、同じような境遇を持った存在として位置付けられる。二人ともMの決断によって見捨てられ、死んだと思われた人物であると同時に、死の淵から復活(Resurrection)した諜報部員でもある。しかし彼らが着ている白と黒のスーツが示すように、二人は復活した後、対極ともいえる方向に進んでいくことになった。互いに逆の方向を進んだ二人の行く末は、壮大なサスペンス・シークエンスとして象徴的に描かれていたように思える。それがMへの襲撃シークエンスである。
シルヴァは監獄から脱出し、Mを抹殺するために諮問委員会の会場に向かうが、ボンドはMを救出するために会場へと向かう。同じ境遇に立たされ、同じ場所へと向かう二人を分けているのは、言うまでもなくMI-6への忠誠心である。委員会でMが大臣に向かって読み上げた一つの詩の内容のごとく、忠誠心と絶対なる信頼こそ、MI-6ないしは英国の武器であり、ボンドを007という忠実なる諜報部員に至らしめている根本的な理由ではないだろうか。一方シルヴァはMへの忠誠心を捨て、復讐に燃えるようになった男であり、まさしく反騎士道ないし反ジェームズ・ボンドと言えるだろう。
こうした忠誠心と騎士道精神への誓いが、登場人物の善と悪を分けると同時にサスペンスとも絡んでいくプロットは至って英国的と言えるかもしれない。またロジャー・ディーキンスの視覚表現が本作を非007的なるものへと昇華させていること、そして伝統と革新の両義性を表現した物語世界を踏まえれば、『007 スカイフォール』は恐らく007シリーズの中で最もイギリスという国家を暗喩的に表現した作品であると同時に、伝統と革新の両方を有した007作品と言えるだろう。そういう意味において、今後の007が革新と伝統のどちらをとるかが気になるところだ。今後の007シリーズの主題に注目したい。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■