『SUPER 8/スーパーエイト』SUPER8 2011年(米)
監督・脚本:J・J・エイブラムス
キャスト:
ジョエル・コートニー
エル・ファニング
カイル・チャンドラー
ライリー・グリフィス
ライアン・リー
上映時間:111分
時はスリーマイル島の原発事故が騒がれていた1970年代末。母親を亡くした少年ジョー(ジョエル・コートニー)は気を紛らわすために親友で太っちょのチャールズ(ライリー・グリフィス)と共に大好きな映画撮影に熱中していた。そこにジョーと同じく母親不在の家庭問題に揺れるアリス(エル・ファニング)が映画撮影のヒロイン役として加わり、駅舎で撮影していると列車の脱線事故に遭遇する。彼らが逃げまどっている間も8mmカメラ(SUPER8)は回り続けており、そこには軍がトップシークレットとして扱う未知の生命体が映っていた。軍はすぐさま事態の収拾にかかろうとするが、既に「それ」は街の人間を襲い始めていた。そしてアリスまでもがさらわれ、ジョーはチャールズたちと共にアリスの救出へと向かう。
スティーブン・スピルバーグが製作総指揮を務め、『M:I:3(ミッション:インポッシブル3)』Mission: Impossible III(06)や海外テレビドラマシリーズ『LOST』のJ・J・エイブラムスが監督・脚本を務めた本作は、公開当初『E.T.』E.T.(82)と『スタンド・バイ・ミー』Stand by me(86)を掛け合わせたような作品だとしばしば宣伝されていた。たしかに本作は70年代に人気を得たジュブナイル映画という一つのサイクルの体裁をとっているが、単に友情や異星人との交流を描いた古典的SF映画の模倣やオマージュだけでは片づけられない魅力を有していると考えられる。むしろ友情や異星人との交流といったSFジュブナイル映画の要素は極力薄められており、その一方で強調されていたのは、主人公ジョーとアリスの関係性に見る主題、すなわちロマンスを絡めた「欠損家族としての絆」ではないかと思われる。
■視覚的に表現された暗喩的主題■
『スタンド・バイ・ミー』は男の友情を描いたが、本作は友情よりも絆を魅せている。『E.T』が少年の成長を描いた作品であるならば、本作はキリスト教の「赦し」や「絆」をテーマにした作品ではないだろうか。そうした「絆」と「赦し」の主題は、ジョーとアリスの家族間の憎み合いから見てとれる。
オープニング、リリアン工場の無事故記録の数字が1日に交換させられることで、主人公の母親が工場の事故で死んだことが視覚的に語られると憂鬱な表情を浮かべる少年ジョーの姿が映し出される。そこに現れたのは荒れくれた一人の男。彼はジョーの父親に追い出され、強制的にパトカーへと乗せられるわけだが、後に彼がジョーの恋相手アリスの父親であることがわかる。またアリスの父親は元来飲んだくれだったが、事故当時飲みすぎて工場を休んだばかりにジョーの母親が代理で出勤し事故にあったことも明かされる。彼は自分が死ねばよかったと懺悔しているが、ジョーの父親は一切聞き入れようとしない。そこに確執が生まれ、憎しみ合う大人たちは映画撮影をしているジョーとアリスの恋仲を裂こうとする。
その一方でジョーとアリスは映画撮影を通じて仲を深めていくわけだが、彼らを結んでいるのは傷ついた者同士の孤独に他ならない。元来育児に関わらない父親をもっていたジョーは唯一家族として見なすことのできる母親を失ったことで孤独に陥り、アリスは自分を捨てて家から出て行った母親の幻影に苦しみながら、酒飲みの父親を憎み、孤独に苛まされる。そのため本作ではほとんど二人は父親と話すシーンがないし、家庭的な面がほとんど描かれない。またジョーの父親(保安官)が家に制服姿の同僚たちを招き入れている描写からも家庭に仕事を持ち込む父親的身勝手さが表現されていたように思える。
一方でジョーの親友であり幼馴染のチャールズ一家は対照的。チャールズの家庭は大家族で、子沢山。父親と母親は仲睦まじく、子供たちのことを一番に思っており、ジョーにとってはまさに理想の家族と言えるだろう。そうしたチャールズとジョーの比較は、ジョーの孤独をより一層強調させるための表現と読みとくことができる。もちろん強調された彼の孤独は同じく家庭内の孤独感にさいなまされるアリスとの恋仲と結びつくことは言うまでもない。
何気なく語られる主人公のバックグラウンドを見てもわかるように、本作に登場するジョーとアリスの関係は単にBoy meets girlといった恋の図式ではなく、その背後には同じ境遇(欠損家族故の孤独)で結ばれた絆、というモチーフが存在する。だが真に興味深いのは、そのモチーフが地球外生命体として登場するモンスターと結びつく点ではないだろうか。
というのも、彼(宇宙人)は元にいた星(Home)に帰ろうとするが、人間に虐待され研究材料にされていることがしばし強調される。そのため彼は人間を憎み、攻撃する。だが彼を前にしたジョーは「わかるよ。その気持ち、理解できる。でも悪い人ばかりじゃない。苦しいのはわかるけど、それでも生きていくしかないんだ」と語りかけ、彼はジョーを殺さず、見つめ続け、共鳴したかのようにその場を去っていく。
こうした描写は、本作における異星人との関係性が『E.T.』のような「Friend」の仲ではなく、「孤独と憎しみを背負い、傷ついた者同士」の関係性であることを暗示していたように思える。そうした「欠損家族同士(傷ついた者同士)から芽生える絆」は、子供たちと宇宙人だけではなく、互いに憎しみ合っていた父親たちにも見ることができるだろう。終盤で行方不明となった子供たちを救おうと一つの車で現場に向かう父親2人。彼らはジョーの母親が事故死した当時のことを振り返り、懺悔し、赦し合う。それはキリスト教的な赦しから生まれる幸福論であり、至ってハリウッド的美徳と言えるかもしれないが、本作においては大変に重要な意味を持つだろう。なぜなら子供たちだけではなく、家族の大黒柱である父親たちが赦し合ったことで、事故以来傷つきあった家族は初めて互いに傷を補完し合い、一つのコミュニティとして形成することができるからだ。それは観客にハッピーエンドという言葉では収まりきれない幸福感を提示する役割を持っていると言える。
とりわけラストで初めて父親たちが子供達(アリスとジョー)を抱きしめるシーンは、欠損家族が家族として結ばれた瞬間であり、一つの家庭に帰結して孤独が解消されたことを暗喩したシーンに他ならない。そして言うまでもなく、彼らが見つめる先にはHomeへと向かおうとする異星人のロケットがある。このラスト・シークエンスで、彼らは初めて一つの場に集まり、互いの欠損家族を補完し合い、Homeへと帰結するのであって、本シークエンスはまさしくクライマックスと呼ぶにふさわしい主題の完成形を示した場面として読み取れるだろう。
さらにこの場面では、欠損家族ゆえの孤独を解消したことをより強調するために、ジョーがいつも大切に持っていたペンダントを有効に機能させていた。というのも、ロケットが発射されようとする時、ふいにジョーが常に母の形見として持っていたロケット・ペンダントが宇宙船の磁場に吸い寄せられるのである。手を伸ばして掴んだペンダントには母親の写真が入っており、ジョーは自らの手でペンダントを手放す。8㎜フィルムに残る母の幻影と共に劇中で何度も強調され、孤独の象徴として表現されていたペンダントを手放すことは、ジョーが母親から離別と自立をはかったことを意味しているのではないだろうか。
又、その後に映し出される静かに結ばれたジョーとアリスの手は、彼らの恋が実ったことを意味していると同時に、憎み合っていた2つの家族が結ばれたことを象徴していたように思える。そして彼らと同じように、(地球に漂着して以来)孤独となった宇宙人が絆を求めて故郷(Home)へと帰って行く様を輝かしく見せて、本作は幕を閉じる。こうした流れを見ても本作が傷ついた者同士の絆を暗喩的に描き、互いを補完し、新たなコミュニティを形成していく過程をドラマティックに描いた作品であることがわかるだろう。
だが真に重要な点は、そのような暗喩的主題にあるわけではない。真に価値があると思われるのは、本作が数々の主題を言葉で説明するのではなく、視覚的な表象として暗喩的に示している点ではないだろうか。凡庸な作家や脚本家はしばしば登場人物の心境や境遇を言葉によって説明し、登場人物が孤独であることをアピールするが、映画が暗闇の中で二時間集中して画面を注視する環境にあることを利用した映画は、説明的ストーリーテリングを好まない。むしろ真に視覚的な表現を駆使する映画は、視覚的な表象やイコンによって主題を示し、表情や仕草、目線で彼らの心境を語っていく。本作はまさしくそのタイプの映画であるということは、既に論じた視覚的主題を読み解けば明らかだ。
しかも本作は、視覚的な主題を表現しただけでなく、そのような表現性をSF映画およびジュブナイル映画というジャンル・サイクルの枠組みの中でやってのけ、興行的な成功を収めてしまったから傑作である。さらに驚くべき点は、本作の監督J・J・エイブラムスが本作の脚本を単独で書いているという点ではなかろうか。このことは本作が彼のオリジナルであり、彼が巧妙な表現性を有した映画作家であることを示唆している。だが一方で、映画が集団芸術であるのも確かだ。事実、本作の魅力は彼の脚本や視覚的表現性だけにあるわけではない。とりわけ作曲家マイケル・ジアッキノの貢献が大きいように思える。
■『LOST』の作曲家マイケル・ジアッキノ■
マイケル・ジアッキノは、J・J・エイブラムスが製作総指揮を務める海外テレビドラマ人気シリーズの『LOST』の作曲を務めただけでなく、『M:I:Ⅲ』や『スター・トレック』STAR TREK(09)など、これまでエイブラムスの作品に必ずと言ってよいほど関わってきた。エイブラムスの右腕的存在とも言えるジアッキノは、本作『SUPER 8/スーパーエイト』においても『LOST』のエピソード終盤における感動的なクライマックスで流れる清く涙腺を刺激するサウンドトラックの如く、希望的でありながらもセンチメンタルなサウンドトラックを作り上げている。そのメロディを言葉で表すのは不可能なので、これ以上の説明は不要だが、あえて言うならば、彼のスコアは「欠損家族故の孤独と絆」という主題を印象的に表現したということだろうか。そのメロディは、作品で確認してほしい。
しかしながら本作はマイケル・ジアッキノのメロディだけでなく、音響効果も極めて効果的であった。サスペンスやショック・シーンにしたって、エイブラムスの映画表現の巧さがにじみ出ていたように思える。保安官がモンスターに襲われるシーン。ガソリンを入れる保安官。ガソリンのメーターは上がっていくにつれて鈴のような音が鳴り響く。そこで林の中で何かの音がして、近づいていく保安官。まるで心臓の鼓動のようにメーターのサウンドの周期が早まり、最高潮へと達すると静かにサウンドがおさまっていく。命の砂時計が尽きるように、無音。破裂するような勢いでショック音が鳴り響き、緊張感は一気に爆発する。ガソリン・メーターの音響を効果的に用いた緊張は、後に起こる「何かが近付いてくる」サスペンスに一層の緊張を付与してくれる。本シーンは巧みに計算された聴覚的な表現と映像が噛み合ったサスペンス・シーンであり、CGの爆破よりも刺激的な感覚を体感させてくれるだろう。
■懐古趣味に溢れた映画■
これまでは映像と音響の表現性について論じてきたが、ここでは本作における懐古趣味について触れたいと思う。そもそも本作の舞台にもなっている1970年代は、ハリウッド第九世代と呼ばれるスピルバーグやフランシス・F・コッポラ、スコセッシ、デ・パルマという大学出身の映画オタクたちが大作映画や従来の枠組みにとらわれない映画を作っていた時代だった。彼らが若い時に愛用していたのが、本作のタイトルにもなっている「SUPER 8」、いわゆる8mmカメラである。
その8mmのカメラで映画を作る本作の主人公ジョーは、70年代に少年期を過ごしたJ・J・エイブラムスの幼少期を想起させてくれる。実際に本作のシーンには、70~80年代の大作映画を彷彿とさせる場面や台詞が満載ではあるまいか。例えば「あの火事は軍が起こしたものだ」と暴露する男二人をカーテンのシルエット越しに映すショットは、『インディ・ジョーンズ』Raiders of the Lost Ark(81)シリーズを思い出させてくれるし、映画マニアの少年たちが撮っている自主制作映画に登場するロメロ化学とは、78年の『ゾンビ』Down of the Dead(78)によって一躍その名前が知られるようになったゾンビ映画の師ジョージ・A・ロメロの名前から取っている。さらに木々が揺れ動き、何かが近づいてくるというのは、『ジュラシック・パーク』Jurassic Park(93)であるし、ラストの閃光の輝きに溢れたショットは、『未知との遭遇』Close Encounters of the Third Kind(78)を彷彿とさせる。そして「子供の純粋さが大人たちを改心させ、悪やモンスターを倒す」という構図は、スピルバーグ映画における王道のモチーフ「イノセントの勝利」。さらに絆を謳った異星人と少年の交流やジュブナイル映画という70年代のサイクルを現代版にアレンジし、従来の約束事や既に廃れた題材を現代版にアレンジする本作の試みは、懐古趣味の喜びにあふれていた。
70年代から90年代の古き良きハリウッド映画の黄金時代を思い出させ、現代の映画人やシネフィルが少年時代に体験した、あの頃の古き良き映画を思い出させてくれる趣向を「映画愛」と言うのは、あまりに高尚すぎではないだろうか。むしろ懐古趣味的な描写は、エイブラムスのサービス精神に溢れた「ジョーク」というべきかもしれない。
そう考えれば、本作は懐かしき光景を観客に提示し、懐古趣味的な笑いを誘いながらも「欠損家族故の孤独と絆」という再生の主題を視覚的に表現した作品と言えるだろう。又、サスペンスやアクションを現代的な緊張感で包み込んだ点を評価すれば、本作は間違いなくここ10年の間でベストのSF映画であったと結論づけることができる。さらに先に論じた懐古趣味をハイ・バジェットな映画に盛り込み、興行的な成功を掴みとってしまったことを考慮すれば、本作はこれまでのSF映画の集大成的作品と言えるかもしれない。もちろんそれは本作『SUPER 8/スーパーエイト』が、J・J・エイブラムスの早すぎるマスターピースであることを示している。エイブラムスと大作ジュブナイル映画の今後が楽しみだ。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■