来世はあるのか、人は悟ることができるのか。死の瞬間まで何かを求め迷い続ける人間に救済は訪れるのだろうか。そもそも人間は迷い続けている自己を正確に認識できるのだろうか・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第三弾。
by 金魚屋編集部
八.〈魂〉の場所
1.
吾峠呼世晴のマンガ『鬼滅の刃』が多くの読者のこころをつかんだことは記憶に新しい。
その理由は、大正時代という浪漫主義の香りを漂わせた、若い世代にはなじみの薄い時代設定の意外性や、いかにも『少年ジャンプ』的な主人公たちの成長と友情の物語、独特の「呼吸法」や剣技といった道具立てもさることながら、かつては広く人びとに共有され、いまは忘れられつつある独自のアジア的死生観にあったと思われる。
ひとことで言ってしまえば、このコミックは〝成仏マンガ〟である。
味方である剣士も敵である鬼も、ともに家族や愛するひとたちがいたが、理不尽な目に遭って離別し、惨苦を生きているという点で同じ境遇にある。双方は憎しみ合い、殺し合ったあげくほとんどの登場人物がこの世を去る。去りぎわ、生き別れあるいは死に別れていた愛するひとたちとふたたび出逢う。鬼もまた、もとは人間で家族もいたのだが、怨念のとりこになってそんな過去はすっかり忘れている。それが死を迎えると人間だったころの記憶と感情を取り戻し、思いを残していた者たちと再会、和解する。こうして鬼たちも剣士たちもそれぞれに自らの思いを遂げるのである。これが『鬼滅の刃』世界における〝成仏〟である。
(※以下ネタバレ注意)
物語のラストで、主人公たちは舞台となった大正時代から現代へと転生し、それぞれの青春を謳歌しているさまが描かれる。かれらは子孫に生まれ変わったという設定になっているのだが、本人たちはそれを知らずただの高校生として過ごしている。読んでいる読者だけが知っていて、その姿に感動をおぼえるのである。ふつうは逆で、本人のことは本人がいちばんよく知っているはずだが、本人と他人との対称性の破れが逆転している点がおもしろい。
このマンガから受ける感動は、読者が作者と同じ「神の視点」に立って、ことのなりゆきを、登場人物たちの生死をひとまたぎに一望できることによる。そこから逆に、読者自身もそんな前史を抱えているのではと思わせるところが隠し味である。そう思って読めば輪廻転生というこのマンガ全体に通底する死生観も、ⅩがYへと生まれ変わるさまを実況放送でも観るように眺めうる「神の視点」があってはじめて成立することがわかる。
だがそんな視点が可能だろうと(筆者は不可能だと考えている)、当の本人にとっては何の意味もなさないだろう。YがⅩだったときの記憶を思い出したからといって、それがどうしたというのか。そのひとはⅩの記憶を移殖されたか刷り込まれただけで自他ともにYとしかみなされないか、他人はどうみなそうとじぶんはYという身体に宿ったⅩであるとみなすかという差異でしかない。そもそもXが人間でYが仮面ライダーであれグレゴール・ザムザであれ、ⅩがYに「なる」その瞬間を目撃できる者はじつは誰ひとりいない。できるというひとは、そんな気がするだけで、ほんとうに見ることができたらおどろきである(ここには世界がひっくり返るような問題が横たわっているのだが、別のテーマで公表したい)。
物語の肝はそんなことにはない。ひとえに〝成仏〟としての実存にある。無事生まれ変わって「めでたしめでたし」となることが〝成仏〟ではない。じぶん自身が遂げようとしてついにかなわなかった存念があるなら、その者は〝成仏〟できずにいつまでもその場にとどまらざるをえない。思いを遂げたそのときはじめて、その者は〝成仏〟できる。ほかでもない、これがひとという生きものの生死の越え方なのである。
2.
そのことがあざやかに表現されていたのが『海に眠るダイヤモンド』というテレビドラマである(脚本・野木亜紀子、二〇二四年一一月二〇日から一二月二二日までTBS系列の「日曜劇場」で放送)。一九五五年から六五年にかけての端島(現在の軍艦島)と二〇一八年から二四年の東京を舞台に、二つの異なる世界が同時並行しながら進行し、半世紀という時空を越えて結ばれる物語である。
高度経済成長期、国内有数の炭鉱の採掘場だった端島は、最盛期には五千人を越える人びとがひとつの家族のように暮らす活気にみちた町だった。そこで生まれ育ち、将来を誓い合った若者・鉄平(神木隆之介)と島の食堂の看板娘で幼なじみの朝子(杉咲花)。ある日、朝子は鉄平から「今日の夜、話がある」と呼び出される。約束のその夜、プロポーズを受けるつもりでそわそわと嬉しそうに待っている朝子。ところが夜が明けても、彼女の前に鉄平が姿を見せることはついになかった。坑内火災事故で命を落とした兄の内縁の妻リナと、その間にできた幼い子とを連れて駆け落ちしたという噂だけを残し、かれは行方知れずとなる。
一方現代では、造園業で成功した会社の社長いづみ(宮本信子)がかつて思いを寄せていた若者に瓜二つのさえないホスト・玲央(神木隆之介が一人二役)とたまさか出くわし、じぶんの家に連れ帰って居候させる。この玲央が過去と現在をつなげる触媒の役割をになうのである。過去をたぐり寄せていくうちに、玲央はそれまでの自暴自棄だった人生を生き直すようになる。そんな再生の物語でもある。
「いとしいひとの思い出はすべて、あの島へ置いてきた」。そう独白するいづみはかつての朝子そのひとであり、別の相手と結婚していまは孫もいる。だがその夫や弟とも、端島で親しかった友人たちとも死別し「いづみさんって、なんか……独りだよね」と玲央に言われる彼女は、「裏切られるのは、慣れているもの」と言いながらも鉄平のことが、あの最後の夜のことがいつまでも忘れられない。
鉄平が遺した日記を読んだ玲央はかれに関心を抱き、その行方を追う。そして真相が明らかになる。鉄平はヤクザの遺恨を買ったリナとその子の身代わりとなって追われる身となり、朝子に危害がおよばないようにと消息を絶ったのだった。玲央は「あの夜の朝子さんを迎えに行こう」と、ためらういづみの背中を押して一緒に長崎へ行く。長い逃亡生活の末、八年前に亡くなっていた鉄平。その終の棲家を訪ったいづみは、思わず息をのんで窓から外へ出る。そこでは色とりどりのコスモスの花が庭を埋め尽くし、海の向こうの端島を見つめていた。それはかつて朝子が「お婿さんになるひととコスモス植えたいけん。持っといて」と言って渡した種から鉄平が育てたものだった。
「誰もいなくなってしまったけれど……あるわ、ここに。私の中に。みんな……眠ってる」
そうつぶやくいづみは五十数年前の端島銀座にいる。端島という亡霊とともにいる。そこへあの夜の朝子があらわれ、いづみと向かい合って座る。あの時と同じブルーのカーディガンとイヤリングをした朝子だった。
「わたしの人生、どがんでしたかね」
「うん。朝子はね、きばって生きたわよ」
笑みを交わし合う二人の朝子。そして、あの時のままの朝子の前に若き鉄平が姿を見せる。
「お待たせ」
「待ちくたびれた」
「ごめん」
鉄平は一輪の白いコスモスを差し出す。それを見た朝子、
「キラキラしてる」
「朝子……オレと結婚して下さい」
涙をこぼしながら「はい」とうなずく朝子。
画面からは、つまり視聴者には慎重に隠されているが、鉄平の手にはコスモスが挿されたギヤマンの花瓶が握られていたはずだ。それは朝子が「ダイヤモンドの指輪より欲しか」と言っていたギヤマン――鉄平が朝子に贈ろうと自ら作った青いギヤマンの花瓶だった。だから朝子は「キラキラしてる」と泣いたのだ。見せないことで視聴者に想像力を要求する、そんな場面が散りばめられているのがこのドラマのいいところだ。
端島のもう誰も立ち入ることのできない住居の上階の窓辺には、そのギヤマンの花瓶が――江戸時代、オランダ語の「diamant」が訛って用いられたのが発端だという――ひっそりと置かれ、キラキラと青いかがやきを放っていた。
これは、置き去りにされた魂を置いてきた魂が迎えに行く物語である。そして、ともに歓待し饗応し合う物語である。時という青海の中で育まれ、ひっそりとかがやき続けるダイヤモンドの話である。
『鬼滅の刃』とちがって、このドラマには「神の視点」はほぼ存在しないと言っていい。いや正確には「神の視点」は亡霊たちの目線と重なって区別できない。窓辺から射し込む光にかがやく青いギヤマンの花瓶は、「神の視点」であるカメラ目線でとらえられているようにみえるが、同時に鉄平と朝子にしか見ることのできない二人だけの目線でもある。こうした二重性が『海に眠るダイヤモンド』というドラマのすぐれた点である。
思いを遂げるとはどういうことか。思い残すことがもはやない、ということだ。思いを残した者はいつまでもその場にとどまるか、あてどもなくさまようことになる。思い続けてもはや思い残すことはないというひとが〝成仏〟し、生まれ変わって次の世へ赴く。
もっともこれで思い残すことがないのだったら、生まれ変わる必要も次の世へ行く必要もないだろう。そんなことはどうでもいいとまでは言わないが、好き好きでいい。当人が「もういい。これでいいのだ」とこころの底から思えればそこで打ち止め、幕引きである。ただ幕を引くためには、じぶんにとってもっとも大切なひとたちと出逢い直さなくてはならない。一堂に会する。ともに歓待し合う。歓待と饗応。これこそが何よりも肝心なのだ。時とは、そんな亡霊どうしが時空を越えて出逢い、集うために存在するまぼろしの海である。
『海に眠るダイヤモンド』のラストシーンをくり返し観るたびに涙腺が決壊せずにおれないのは、たんに歳をとっただけだろうと嘲笑されればそれまでだが、杉咲花という希代の名優のあの万感を宿した切ない表情だけでなく、おそらく私の中のダイヤモンドが置き去りにされたままいまも眠り続けているからだろう。
3.
圧政に苦しむ人びとはいまも昔も、世界中どこへ行っても絶えることがない。
しかし中には、おろかで残忍な為政者の下で虐げられているにもかかわらず、その治世にこのうえない幸福を感じているひともいるだろう。宗教もまた同様である。傍からみればどんなに虐げられていても理不尽な目に合っていても、本人はそうとは思っていない。不幸の原因はむしろじぶん自身か世の中にある。そう思いこそすれ教えそのものに疑いを向けたりはしない。そしてますます信仰にのめり込む。そんなひとたちはたいてい世間から非難され呆れられ、憐みの目で見られたりする。あなたは間違っている。騙されている。目を覚ましなさい。そう説得されもしよう。たとえ現実を受けとめる力が残っていなくても、どんなにつらく厳しくても、真実を知りほんとうの自由を得る可能性を手にする方がよほどマシではないか、と。
啓蒙の立場からみればそうかもしれない。だが非難され説得される側は、そうされればされるほど、ますますじぶんたちの正しさへの信念を深めるばかりだろう。何、目を覚ませだって。そのことばをそっくりあなたに返すよ。このとき両者は「正しさ」と「真理」の帰属をめぐるイニシアティブ争いの関係に入っていて、平行線をたどるばかりである。
さて、ここにもうひとつの立場がある。「立場」と言えるかどうかはともかく、これまでくり返し語ってきたこと――「あるがまま」の生である。この立場からしたら、どんな生であろうと可も不可もない、よくもわるくもない。自由でも不自由でもない、幸福でも不幸でもない。当の生それ自体がすべてであってそれ以上でも以下でもない。当人が「これでいいのだ。私の時はとうに満ちた」とこころからそう思えるのならば、それ以上何を望まれえようか。他人にあれこれ口をはさむ資格があろうか。
すると、このさいの「こころから」を、どう解するべきか。問題はこの一点に絞られてくる。思った者勝ち、という考え方もとうぜんあるだろう。「うまく騙しおおせてくれ。そうしてくれさえすればいい、それでけっこうだ」と。自由とは「自由」感(という表象)にすぎないという主張とそれは似ている。ならば「真実に目覚め」たというひとは、それが「真実」であるとどうして言えるのか。「真実」感(という表象)にすぎないと言えないのはどうしてか。
あることについて、それが「真実」なのかと懐疑することは可能だが、可能であるためには、それが「真実」であるか否かにかかわりなく、「真実」の意味そのものは、あらかじめ確立されているのでなくてはなるまい。したがってそれを判定する水準、ものごとを客観的に検証できる領域、たとえば科学の領域もまたその身分を保証されているのでなくてはならない。だから、ふつうひとは「真実」感などと言い出して話をややこしくする必要などなく、たんに「虚偽」または「錯誤」だと言えればいいのである。
「自由」にも同じ論法が使えるだろう。たとえ錯誤であるとしても、科学的な検証ができなくても、それを錯誤かもしれないと懐疑しうる程度には「自由」という概念も用法も確立されている、と。
しかし、そんな話をしているのではない。
「あるがまま」であることと、それが「真実」であることは、次元のちがう二つのことがらであるようにみえながら、ひとつでありうる。そうだと言える根拠は、それを事実として客観的に検証できるか、できなければ事実を自ら証しできるかにある。後者の場合それは「じぶん自身を偽れるか」という問いの形をとる。裏返して言えば、自身に対して「こころから」ほんとうだと言えるか、と自らに問うことである。どんなウソつきでも、じぶんにだけは誠実であるほかない。だって、自らにウソをついたところでバレバレではないか。
でもときにはウソかほんとうか、じぶんでほんとうにわからなくなることがある。いつも演技ばかりしていたら、それが素なのか演技なのかほんとうにわからなくなってしまった役者や政治家のように。杉咲花は音楽家・角銅真実との対談で「(役に)心が侵食され過ぎることはある意味怖い」と言っていた(NHK「スイッチインタビュー」二〇二四年二月放送)。役柄と役者は一体でありながら他者である、だから理解しきれないものが必ず残る。その距離がむしろ大事なのだと。聡明なひとだと思った。ペルソナに憑いては憑かれ、こころごと投げ出す経験をいくたびも重ね、自身を追い込んできたひとにしか言えないことばである。
ほんとうにわからないのだったら、そのことがその役者や政治家の素であるほかないだろう。はじめは正直者だったのだが、ウソばかりついているうちに区別がつかなくなってしまったひとはどうするか。そんなじぶんを受け容れるしかないだろう。じぶんに誠実であるほかないとは、そういう意味でもある。他人にウソをついたかどうか、いやそもそもウソをつくという意味すらわからなくなってしまったひとは、とうぜんながらウソをつくこともできない。誠実なウソつきもいれば、不誠実な正直者もいるだろう。しかしそんなことも込みでじぶんをまるごと受け容れ「これでいいのだ」と思えるとき、「ほんとう」であることと「あるがまま」であることとは、同じ次元にあるだろう。この次元にある者が、自身に対して「こころから」ほんとうだと言えるか、と誰かに問われたら、かれは自らがどうであるかを判別して「そうだ」と答えるだろう。そこに一点の曇りでもあるなら、かれはいつまでも〝成仏〟できないだろう。
ここまで私は、ひとの〝成仏〟の可能性を語ろうとしてきたのだった。それを語れるのならば、〝救い〟にも同様のことがいえるはずだ。〝救い〟とは、〈魂〉の場所が確保されるということだ。〈魂〉の場所とは当のそのひとにほかならず、ただ自らにあってしか証しされえない。誰にとってもの〝救い〟などありはしない。そもそも誰にとって何が〝救い〟であるかを、何者が決定できるというのか。
ところが、えてしてこれを越権して顧みないのが宗教なのである。「自らにおいて」証しされたかどうかは、当のそのひとを除いて誰ひとりたしかめることはできない。「当の」とはそんな到達不可能性の表現である。セーレン・キルケゴールのいう「単独者」もまた、この到達不可能性に端を発しているだろう。そう考えれば、誰もが「単独者」として放り出されてあるほかないともいえる。かたや宗教という物語は、この「誰もが」という点をとらまえて、「単独者」のこの到達不可能性を「誰もがかけがえのない存在だ」という物語にすり替えてしまう。杉咲花が怖いと言ったのは、こうした物語化のことだろう。それによって他者のことを理解したつもりになってしまうから。
ひとがひとを救済する権限も能力もありはしないというこの不可能性の中で、宗教といった物語に惑わされることなく、けっして到達できない〈魂〉たちを縒りあわせ、歓待し饗応し合うための幽かな糸がそれでもあるとしたら、何だろうか。
4.
私は霊感が乏しい人間というか、俗にいう心霊体験というものには、まったくと言っていいほど縁がない。
それでも令和元年の夏、河口湖畔のホテルに一泊したときのことだ。夜中ふと目を覚ました。時計を見たらまさしく「丑三つ時」だった。じぶん以外誰もいないはずのその部屋に、誰かいる気配を感じて目が覚めた。よくある状況だ。姿は見えず、声も聞こえない。けれど部屋にただよう存在感というか圧が濃厚だった。ベッドに横たわりながらああ、ひょっとしたら以前この館で亡くなったひとが何か訴えたくて出てきたのかなと思った。
「ぼくは感度が鈍いものだから、きみの気配くらいしか感じられないんだ。ぼくにどうしてほしいんだい。わからないんだ、わるいけど」
天井に向かってそう話しかけた。あるいは話しかけたという夢を見ただけかもしれない。すると天井の近くで「パチッ」という乾いた音がした。
とある考えが浮かんだ。考えが浮かんだというより、見えたと言ったほうが正しいかもしれない。この手のリアリティの質は、夢の中だろうと醒めていようとちがいはない。なぜならそれは、思考のリアリティだからである。――亡霊ってよく言うけれど、どのみち生きてあるぼくら自身もまた、ことごとく亡霊みたいなものだという点では、きみと一緒じゃないか。ぼくらはトラウマや苦しみや狂気にいつまでもどこまでも翻弄され、世をさまよう。そこには肉体を持つ持たないのちがいはあるかもしれないけど、そんなありかた自体は、フレーム自体は不変ではないのかな。ということは、亡霊こそがこの世をおりなしている当のものではないだろうか。きみもぼくも、どいつもこいつも亡霊だらけの世界。けどね、そんな世界の真っただ中に〈かなた〉がある。いま・ここにこうしてある、こいつの底がそっくりそのまますっぽ抜けてしまうんだ。それが〈かなた〉ってことさ。昔のひとはこれを〝即身成仏〟なんて呼んだっけ。神仏の世界の話をしているんじゃないよ。むしろそんな世界の底がみんなすっぽ抜けるってことだ。きみやぼくという存在がそれぞれに分かたれて時をさまよう理由も、きっとここにある。とは言っても多くの亡霊たちは、じぶんの場所がないという思いから離れられない。だからあるべき場所を訪ね求めて、いつまでもどこまでも時をうつろうはめになる。そんな場所など端からないのだけどね。それでも〝成仏〟の機はいつでも、誰にでも与えられている。それ以上失うものがないというひとほどにね。きみだってそうだよ。
――そんなことを考えているうちに、そろそろと圧が遠のいていくのを感じながら私は眠りについた。
萩野篤人
(第05回 了)
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