来世はあるのか、人は悟ることができるのか。死の瞬間まで何かを求め迷い続ける人間に救済は訪れるのだろうか。そもそも人間は迷い続けている自己を正確に認識できるのだろうか・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第三弾。
by 金魚屋編集部
九.まんだら堂にて
⒈
名越のまんだら堂をはじめて訪ったのは、もう二〇年前になるだろうか。
春の彼岸入りの日だった。材木座海岸を眼下に、相模湾を見はるかす丘の上へ妹の墓参に訪れた後、その足で寄った。当時は大町の釈迦堂の傍に実家があったので、行こうと思えばいつでも歩いて行けたのに、いつでも行けるという思いが却って足を遠ざけていたのか、実行するまでにだいぶ時間がかかった。写真好きだった亡父が、よく休日の朝早くから通っていたので、この隠れた花の名所はかねてから聞き知っていた。
アクセスルートは小坪側、法性寺側といくつかあるが、実家に近い大町から入った。小坪トンネルの手前、横須賀線の線路伝いに民家の横の細い坂道を上っていくと、そのまま山道に続いている。鬱蒼とした杉林をくぐり羊歯の茂みを分け入りながら泥濘んだ小径を上ると、ほどなくして名越の三つの切通しのひとつに出る。そこを抜け土手を上がればまんだら堂跡である。この間、三〇分ほどだろうか。
まんだら堂とは一三世紀半ば頃より武士たちの墓所とされていた大規模なやぐら群をいう。その呼称から、この一帯がもと寺苑であった可能性もうかがえるが記録は残っていない。いつしか墓石は散逸し荒れ果てるに任せていたのを、戦後になって小山白哲という法華行者が庵を結んで妙行寺と名付け、埋もれていた五輪塔や宝篋印搭を掘り起こし、花を植え、霊廟の復元につとめたというがその死後途絶えた。やがて逗子市の管理下となって本格的な発掘調査が行われ、今日に至る。
寺はもうない。二〇年前に訪れた時は入口に管理人のものとおぼしい小屋がポツンと立っているだけで、山あいの開けた斜面に四季おりおりの花樹が植えられ、小さな里山の庭園という趣があった。蒼々たる茂みを掻き分け、人ひとりがやっと通れるほどの山路をぶらぶら散策していたら、思いがけず視界が開けお花畑に出くわした、そんな不意打ちを愉しむ風情があった。由緒正しい名刹にあるような、庭師の手の入った行き届いた園ではないところがまたよかった。初夏の紫陽花、秋の彼岸花がつとに知られていたが、私が訪れた春もよかった。
土曜の午頃だったがひとの姿はほとんどない。蜜を求めてぶんぶんと虻の飛び交う羽音があちらこちらから聞こえて来る。白木蓮の巨樹は未だ蕾だったが、いちめんに諸葛菜の紫の花弁が咲き乱れ、かしこに菜の花の黄が混じり、枯草の残る道端には、たったいま銀河から零れてきたような小さな犬ふぐりが青白く群れ集っている。箱庭のようにうつくしい。そこへまるでこの日のために取って置いたような暖かく澄んだ陽の光が射して、あざやかなまぼろしが燃えるようだ。四季をつうじて絶えることなく咲き続ける花たちは、それぞれの時が満ちるのを待ってはじめてそこに開いては消えていく。
花々の間から至るところで五輪塔が顔を出している。地水火風空を表す五つの石にそれぞれ梵字でばん、きゃ、から、ば、あと刻まれ数百年にわたって雨風にさらされ自ずと丸みを帯びた墓標たちは、山肌や苔むした土や大樹と溶け合い、何の衒いも変哲もなくただ黙している。その姿になぜこんなにもこころひかれるのだろう。
名も知れぬ死者たち、かれらをこの地へ葬った者や、そこに居合わせなかった者をも交えた夥しい死者たちの声を、残された石塊たちがなおわずかに宿しているからだろうか。声は誰にも届くことはない。だが世に留まらざるをえない多くの霊たちは、ただただ自らの声を誰か聴き届けてほしいと庶い希う。この世はそんな、自ら縛された霊たちで充ちみちている。私はあった。このようにして生きた。私は。いったいこれは何なのか。この思いは何なのか。誰もこれを見た者はいない。私を見る者はいない。
思いだけが地を這い続ける。
それはほかでもない、私自身の声でもありまた、これより生まれては死にゆく人びとの声でもあろう。
返って来ることばは何もない。ただ虚空に花を手向けるのみ。お互いに。
箱庭や五輪塔の意味するものが、そのときようやくわかった。
⒉
古より人びとは来世への思いを紡ぎ続けて来た。
かつてどれほどの人びとがおよそ報われない、悲惨で無為としか思えない生と死をくり返してはまたくり返し、世を埋めてきたことだろう。
だがどんな生を送った者であろうと、かの世では応分の報いを享けることだろう。
この世は魂がおのれを磨くために与えられたかりそめの場所である。現し世はあくまでも手段であり方便であって、目的ではない。此岸にあってはどうにも合点のゆかないことも、あちらへ還ってみればそのほんとうの意味が知れるであろう。
けっこうなことだ。天界やら涅槃やらの高みから眺めみれば、なるほどそうかもしれない。
だがこの生は? これはいったい何なのか。
わたしたちはいまこうして生きている。ほかでもないこの生を送っている。どんなに儚くてもさんざんでも、これっきりでみなおしまい。
あるひとはいう。いやそうじゃない。わたしたちはひたすらおろかだから、この生だなどとつい目先のことにしかこころがおよばないのだ。
ちがう。別のひとは反論する。おろかに見えるけれども、ほんとうは一切合切承知しているのだ。眼を閉ざしているのは自分自身なのだ、と。
私が言いたいことは、そんな考えとは縁もゆかりもない。あの世のことどもは、いま向こうの世界に在す霊たちのことは、あちらに委ねてもいい。委ねるしかないと言うべきかもしれない。ではこの霊は何なのか。かつてこなたにいた当のものは、これはいったい何だったのか。
「何だったのか」という思いは、成長していつの間にか大人になった者が子どものころをふとふり返ってみたときにおぼえる感慨と似ているようでもあるが、まったく異なる。じっさいわたしたちは「そんなこともあったなァ」と懐かしむことはあっても、「あれは何だったのか」とはゆめ思うまい。
これこそが忘却のかたちなのである。
子どもだった私も大人になったいまの私も、どっちも同じ私であることに変わりはないだろう。これは疑いようのない事実にみえる。
けれども二つの「私」の間には切断がある。越えようのない断絶がある。はたして忘却が断絶を招くのか、断絶が忘却を呼び寄せるのか。どちらにしても、断絶なくして大人になるなどありえない。大人と子どもとは、どこかでまったく異なる生きものになってしまうのだ。中には子どものままついに大人になれないひともいれば、子どものようになってしまう大人もいるにはいる。だが、そこに断絶があることに変わりはない。
子どもの私、あれは何だったのか。
それは捨て去られ、埋められ放置されたきりでいるのではないだろうか。大人になるための階梯として。
そう考えるひとは珍しくない。階梯、それは人生の梯子である。わたしたちは大人になるための代償として、失われてはならなかったはずのなにかを失う。よく言われることだ。それは必ずしも誤りではない。また、子どもじみたこだわりでもないように私は思う。もちろん取るに足らない感傷だと冷笑したってかまわないのである。
ただ「失われてはならなかったはずのもの」とは何だったのか。大人のわたしたちはわかっているのだろうか。それは端から失われてなどいないのに、失われたことにされてしまったのではないか。
なぜって、そうではないか。ほんとうに失われたものは、失われたという記憶ともども失われ、二度とふたたび浮かび上がることはないだろう。失われたという思いがすこしでもあるなら、それは「忘れないで」という誰かの声が聴こえるからではないのだろうか。
わたしはもう大人になった。子どものころはいろいろあったかもしれない。でもその後だって紆余曲折、さまざまあっていまのわたしがある。みにくいあひるの子はちゃんと白鳥になった。あるいはその逆かな。どちらにしたって、わたしはわたし。それでいいじゃん。何でよけいな心配をされなくちゃいけないの。
もっともだ。
しかし多くの子どもの魂が、それでも打ち棄てられたままであるという思いは否みがたい。打ち棄ててきたのはわたしたち自身だというのに、誰も気づいてすらいないとはどういうことか。
言うまでもないが、長じて大人となり、一人前に立派に生きているあなたをどうしようというのではない。いまさら子どものあなたに戻れ、などと言うのでもない。第一私の知ったことではない。まして子どもと大人、どちらが大事か、と問うているわけでもない。ただそのとき、その子の「いま」って何だったのか。そのとき生きられた当のものは、いったい何だったのか。それが訝しく思えてならないのだ。立派な大人になってめでたしめでたし。それもいいだろう。ふたたびあのころに戻れたなら、と嘆くもよし。どっちも同じていどにおろかなことだ。時というものはそんな塩梅に、貯金したり貸し借りしたり先送りしたりなんてできるものじゃない。そのようにまぼろしを積み上げてどうなるというのか。
ところが、わたしたちはまぼろしに左右されてばかりいる。
幼児期のトラウマといわれるものも、そんなまぼろしのひとつだ。ほかでもない、トラウマとは――亡霊の声である。過去に置き去りにされ、成仏できずにさ迷い続けているもうひとつの「いま」、もうひとつの自分自身の声なのである。わたしたちはいつだって亡霊の声に呼ばれているのだ。
⒊
ずいぶん昔の話だが、NHKで臨死体験を特集したドキュメンタリーを放送したことがある。いまは亡き立花隆がインタビュアーをつとめていた。立花自身『臨死体験』という二冊本を世に問うてベストセラーになったばかりだった。その本でも紹介されているが、出演者の中に、『死の瞬間』というこれもベストセラーとなったシリーズで知られるエリザベス・キューブラー・ロス博士がいた。このひとも世を去って久しい。彼女はTVカメラに向かって繭のかたちをしたぬいぐるみを手にかざしながら語った。「死の体験は生との断絶ではありません。それはあたかも繭から蝶へと脱皮するように別の世界へ旅立つことなのです。おそれたり、嘆き悲しんだりすることはありません。死とは、むしろ祝福すべき旅立ちなのです」そう言うと、持っていたぬいぐるみをくるりと裏返した。するとあらわれたのは羽を広げた艶やかな蝶の姿だった。
永きにわたるターミナルケアの経験をつうじて、明日をもしれない死に向き合い、おそれ苦悶する人びとが、やがてそれを安らぎとともに受け容れていくさまを日々目の当たりにしてきた彼女のことばには、胸にひびくものがあった。が一方、どこか違和感をおぼえずにはいられなかった。脱皮しかがやける世界へ羽ばたいて行った蝶にとって、繭はもはや無用の脱け殻にすぎない。上り終わったら無用になるハシゴのように。けれど繭の中にいたのは蝶ではない。さなぎだったはずだ。それはどこへ行ったのか。
蝶になったら、さなぎだったときのことなどそれっきり忘れ去ってしまうだろう。自分がそれでよければいい、というよりそれ以外の生は知りようがないのだから、いいも何もない。蝶が「ああ。わたし羽が生えていよいよ空を飛べるのよ。とうとう自由になれたのよ。わたし、これでほんとうの幸せをつかめるのだわ」なんて思うわけがない。さなぎは、蝶というまったく異なる存在になってしまい、そこに記憶という、自己同一性を保証するしくみは何ひとつない。「異なる存在になる」と言ったが、このときの「~になる」は断絶あるいは飛躍の「なる」である。「とうとう自由になれたのよ」という思いが蝶に生じることはありえないのだ。
生まれ変わりや輪廻転生といった昔から伝わる話と、これは同じことだ。そもそも私が誰の生まれ変わりで、次の世は何に生まれようが、どうでもよいことではないか。私の中に何やら「魂」と呼ばれる本体があるとして、そいつがどうであろうと、この私とは何のかかわりがあろうか。私の生まれ変わりだという人物がいたとしよう。その人物が「前世」のことを思い出したとしよう。それはしかし、赤の他人が時を経て私の記憶を勝手に再生している、という不埒な話にしかならない。それらは、たとえ物理的には同じ私であっても私ちがいでしかない。しかし、このちがいはたとえ一般的に理解はできても、私にも誰にも証しできない。
キューブラー・ロスの話も「輪廻転生」の話も、とうてい受け入れがたいと思うのは「死とはこの世界の軛を脱すること」だとか「因果応報」だとか「有情無情、すべては一つ」などと、いかにも思わせぶりな物語のオブラートで包むその一方、この生の中のけっして損なってはならないものを、なにか別のものに糊塗しゴマ化し、徒に時を先送りしているとしか思えないからだ。
わたしたちはほんとうは何を欲しているのか。覚醒か。進化か。予定調和か。最終的に円を閉じる「真の自己」か。そうだとして、それらがいま、ここに生きているこの私にとって何だというのか。
けっして損ってはならないもの、それはほんのつかの間であっても、ただそれきりであっても、二度とふたたび訪れることはなくても、まぼろしであっても、この絶対の時ではないのか。流されゆくばかりの浮草のようなこの身を生き、このジレンマと理不尽にみちた世の真っただ中を生きる、ただこのことにしかないのではないか。
世の中や人びとの生のいとなみを高みから眺め、カッコにくくって、それ自身からはみちびきえなかった異なる意味を与える。いまここにはないが、いつかはきっとたどり着くだろうと、ようよう至りえない無限遠点へ目的を定め、わたしたちすべてのいとなみをそこへ達するためのステップに擬せる。嘘も方便。真実へ至るためにはしばし嘘だって必要さ。こうした考え方がみな誤っているとは言わない。そう思わなくては生きられないひとだっている。けれども、そこには決定的な欠落がある。もとい、どんなものであろうと、ひとの一生をなにか他のもので埋め合わせられるというすべての考え方を、私は拒否したい。
親鸞という鎌倉時代の僧は、そのあたりの機微をよくよく心得ていたひとだと思う。さもなければ自ら『教行信証』という書物に「往相にして還相」ということばを残しえたはずもない。「往還」、あちらへ往ったひとは、きっとこちらへ還って来なくてはならない。そしてはじめからそこにいたかのように、何喰わぬ顔をして市井の人びとの中に溶け入り、ともに迷いともに悩み、愛し、泣き笑う。聖とはそういう者ではあるまいか。〈かなた〉は〈こなた〉に、〈こなた〉は〈かなた〉に。
⒋
聖人といえば、キリスト教やイスラム教には「神の愛」に生きるというひとがいる。恋人を求めるよりも激しく神を求め、すべてをかなぐり捨て、おのれの救いも忘れ去り、狂える者のようにひたすら神を求める。身もこころも神とひとつになって生きる。みてくれは聖人、裏返せば妄執ここにきわまれりと言うべきこのひとたちを、さいわいに思う。自ら望んでであれ望まれてであれ、また誰に対するものであろうと、ただその存在のためだけに自らの存在をそっくり賭し、抛つことができるなら、それ以上にさいわいなことがあろうか。それが神である必要はあるまい。神がそれを要求しそれを拒む者をほろぼすというなら、どうぞご随意にというほかない。開き直っているのではない。どんなかたちの愛であろうと、愛することはわたしたちの生そのものなのだから。神の創造の意義があるとしたら、愛とことばと、ただこの二つにしかない。かなしみよろこび。笑い。おどろき。惑い。ためらい。誇り、怒り、ねたみ、みえっぱり、おそれ、恨み憎しみ、嫌悪、苦悶、焦燥、狼狽、羞恥、憂愁、寂寥、あわれみ、慈しみ……あふれては尽きることのないこれらの思いの、そのひとつでも手にしてよくよく味わい直してみればわかることだ。わたしたちはなぜ感情などというものを与えられたのだろう。なぜ「思い」と呼ばれるものがあるのだろう。合理の外にしたがうもののないはずの自然が、そんな面倒で厄介なものを自らわざわざ産み落とす縁など、どこにあるだろう。
なぜわたしたちは生を〈ここ〉へ与えられたのか。たまさかか。はたまた神のたわむれか。おそらくはどんな理屈も、この不可解さを詳らかにはできないだろう。なぜなら理屈とはどんなものであれ、それについての因果の鎖を行き着くところまで遡って、わたしたち自身を納得させる手立てであるが、この不可解さは、そもそも因果性を遠く離れているからだ。理由などどこにもありはしない。哲学者・九鬼周造はこれを〝原始偶然〟と呼んだ。
生まれてきてよかった。生きてきてほんとうによかった。しみじみ思うひとがいる。かたや世の中を、すべての人間を、運命や神を呪って止まないひとたちも、星の数ほどいる。どちらにしてもわたしたちは「忘却の穴(ハンナ・アーレント)」に永久にはまり込み封じられる。わたしたちはつい、それを穴の外から眺めているように思いがちだが、大きな錯誤だ。自らの外と内を代わる代わる眺めうるような便利な場所も視点もありはしない。あると思っているうちに、いつしか自分が穴の中にいることに気づくだけだ。歴史はこのような陥穽と錯誤の折り畳みからなっている。
ひとがひとであるかぎり背負わずにはおれない業。弱さみにくさ。この世へのかぎりなくそして身も蓋もない愛着や我執。無念の思い。そんなどうしようもない無明を、執着を、それゆえにせいいっぱい愛しみ、楽しもうではないか。これらが虚しく、たんに越えられるべき梯子であるなら、越えたその先とてひとしく虚しい。
私はひとの成長を認めない、と言っているのではない。成長しようとしまいと、そのひとという場、そのひとにおいて生きられた当の場は、ほかでもないそのひと自身のものだと言っているだけだ。もちろんそのひとの肉体も精神もいつかは朽ちる。誰かに蹂躙されもするだろう。まるごと抹消されることだってあるだろう。それはしかし、どんな死だって同じことだ。そのひとという場を占拠し取って代わることも、なきものにすることも誰にもできはしない。なぜならそのひとという場は、ただそのひとにしか占めることができないことをもって、そのひとと呼ばれるのだから。
ひとはなぜ生きるのか。
どこから来て、どこへ行くのか。
尽きることなくくり返されてきたこの問いかけの声を、はるか高みから回収しようと「来迎」しては、その向こうへと霧消する。あるいはそんな「高み」へ上ったところでナンボのものかと、「虚しさ」の論理をわたしたちのこの生への毒消しの処方箋として示す。
けっこうなことだ。それらもやはり、梯子を上って外したというにすぎない。上ってしまえば、来し方のことはとうに忘れ去っている。そもそも梯子のないひとだっているというのに。
そのひとの底のまた底で、澱のように沈んだきり秘められけっして消し去ることのできないもの、誰に取って代わることもできないただそれきりのもの――それらをひとつたりとも棄て去ることなく、はるか彼岸へ放ちもせず、そのままそっとすくい取る。
そんなことが誰にできようか。
成仏できない亡霊の声にただじっと耳を澄ませ、その声の中に込められたひびきにただふるえ、虚空へ眼差しを送るのみか。
しかしわたしたち自身、それらの声のひとつではないのか。亡霊ではないのか。生ける者と逝ける者。この脆弱な薄皮に包まれた、ばあいによってはミュータントやサイボーグとしての身体をまとう以外に、何のちがいがあるだろう。ならば、わたしたちもまた、いつしかあの星屑や箱庭に開く花々のひとつとなって虚空をいろどることだろう。
⒌
すこし疲れをおぼえた私は、霊廟の隅にあったベンチへ座って暫くぼうっとしていた。市による発掘と復元作業が進んだいまは二〇年前の箱庭の面影はなく、それまで花畑の中に散り、隠れていた巨大な霊廟が眼前いっぱいにその全貌を現しつつあった。初夏と秋、土日祝日と月曜の期間限定で公開され、この年はさらに新型コロナウィルスの流行が重なって、一年ぶりの解禁となった。
霊廟を後にすると、名越の街道を歩いて引き返し、妙本寺の前を抜け、鎌倉駅東口まで出た。十代のころから十数年間通った路だ。昼をだいぶ回っていた。以前はよく、小町通りにある『ひらの』という小さなラーメン屋に入ったものだ。店内はカウンター席で十人も入れず、メニューは味噌と醤油の二種類しかなかったが、飾り気のない昔ながらの支那麺の香味は老いた亭主の人柄と相まって飽きさせなかった。がその店もこの春に閉じた。
小町通りの賑わいを眺めながら、ふたたび二〇年前のことを思い出した。あのときも春先だというのに汗ばむほどの陽気だった。前年も、その前年の墓参も。鶴岡八幡宮へ続く段葛の桜並木も芽吹きそうな気配だった。セーターを脱いでシャツ一枚になり、駅の西口へ回って市の図書館を過ぎ、細い路地伝いに旧吉屋信子邸から旧前田侯爵邸まで足を伸ばした。前田邸の方は戦後になって『鎌倉文学館』と呼ばれ一般公開されている。薔薇の庭園がうつくしい。その先には旧川端康成邸がある。引き返す途中、笹目町の実家の前を通り過ぎた。路地には行き交うひとの姿はなかった。家はひっそりとしていた。私は寄らなかった。
妹が二十一で死んでから三年経った春、私は永く続いた家庭の諍いに倦み、当時習志野に構えていた家を離れた。都心からそう遠くない離島の海のほとりに佇んで、私は五月の優しい風と光をいっぱいに浴びていた。このまますべてを棄てよう。自らを滅し去ろう。それからありえないような時をさまよい、私は戻った。そして今度は確執の原因となった鎌倉を遠ざかった。それでも妹の墓だけはひそかに訪れていた。
まだ時間があるので、駅前の『たらば書房』で立ち読みしてから、横須賀線に乗って帰ろうとしたそのときにふと、でもここにもうひとつの眼差しがある、と思った。親の眼だ。親にとってわが子は、いくら立派に成長しようがひたすら放蕩三昧のバカ息子だろうが、永久にわが子であることに変わりはない。世の中にひとの親ほどおろかな者はいない。それでも子の魂を、これっきりの生をまるごとすくい上げうる存在がもしあるとしたら、ただこのおろかな親の眼差し以外にあるまい。
その父と母も、いまはもういない。
もっとも自らの母を前にして「わたしの母は誰ですか」と告げて去ったひとの子もいる。これはこれで命がけの切断である。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほいける 紀 貫之
萩野篤人
(第07回 了)
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*『人生の梯子』は24日にアップされます。
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