言わずとしれた、浅野あつ子の名著だ。全6巻の長さにもかかわらず、一気に読めてしまう面白さである。受験生を持つ親がまず、子供を差し置いてハマる。
主人公は天才的なピッチャー巧で、キャッチャーの豪との運命的な出会いから物語は始まる。二人とも、春から中学生となるという年齢だ。つまりまだ、ほとんど小学生の話なのである。
大人がハマるのは、その彼らの唸らされるような成熟度にある。が、大人子供という感じではない。彼らはただ、勝負師なだけだ。すべてを知力と肉体感覚の両方で捉え、相手との勝負のかかった駆け引きをする者は、もとより大人でも子供でもない。
子供らしさは多分に子供の演技であることがある。が、真に無邪気な者はその無邪気さによって、無邪気なままに成熟することがある。巧の弟、青波はそういった存在だ。兄が球を投げること、その言葉にならない肉体感覚の喜びによって世界を把握しようとしているのに対して、身体の弱い青波は肉体の苦しみを通し、その果てにある透明な感覚で世界を捉えようとする。
青波の憧れの存在はいうまでもなく兄だが、青波の透明な眼差しと、ふと口にする言葉には、巧も虚を突かれ、敵わない瞬間がある。
球と自身の肉体とだけを見つめる天才ピッチャーの巧は、そもそも人間関係に難がある。そのために母の真紀子とも折り合いが悪い。と言うより、真紀子には理解できない。
巧を誰よりも理解するのは、中学1年いや小学6年で彼と出会い、惚れ込むキャッチャーの豪である。巧の球を受けられるのは自分しかいないと自負し、巧の球を受けるための存在であろうとする。病院の一人息子で、本来なら受験勉強に打ち込まなくてはならない立場というのも、受験必読書としてなかなか泣かせる。
その豪が、だが巧に怒り狂い、殴りかかる瞬間もある。その理由は、はたで見ているものには、きっとよくわからない。バッテリーだけのあうんの呼吸は、しかし二人にとっては明々白々の現実に相違ない。たとえば豪は言う。自分を信じなかった。巧が、自身の球を俺が捕れないのではないかと一瞬、疑った。それでわずかに制球が乱れたのだ、と。
おそらく、そうなのだ。ある種の人々は、他の人たちの目には見えない世界を自明のものとして生きることができる。そこでの世界への確信とは、あくまで肉体感覚の確かさと等しいに違いない。
それを捉える天賦の感性を、我々は天才と呼ぶ。天才・巧はこの上なく魅力的な主人公だが、天才を理解しうる周囲の少年たち、いや人間たちの瞠目すべき知力と胆力、繊細なまでの機微が全6巻を支え、一気に読ませる。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■