No.139『法然と極楽浄土展』
於・東京国立博物館 平成館
会期=2024/04/16~06/09
於・京都国立博物館 平成知新館
会期=2024/10/8~12/01
於・九州国立博物館
会期=2025/10/7~11/30
カタログ=3,000円
展覧会は五月の末に見たのだが、その後ブヒブヒに忙しくて東京での会期中に間に合わなくなってしまった。でも展覧会は今年は京都国立博物館、来年は九州国立博物館に巡回するのでご容赦いただきたい。美術展は東京だけで開催されるわけではないですからね。
さて今回は『法然と極楽浄土展』である。法然は言うまでもなく浄土宗(浄土教)の創始者で大成者である。今年は法然が開宗してから八百五十年の節目なので、それを記念して数々の宝物が京都総本山・知恩院、東京大本山・増上寺などから集められた。
NHKなどの美術ドキュメンタリーで見たことがある方もいらっしゃるだろうが、古い仏像などを運搬するのは至難の業である。一つ一つの仏像の形に合わせた特注の緩衝材のパッケージを作り、運搬中の揺れを吸収する台座の上に固定して慎重に運ぶ。梱包も開封も神経を使う。運搬するだけでもかなりの予算と労力が必要なわけで、国立博物館でなければ開催できない展覧会である。ではまずは法然上人の御影から。
『法然上人像(隆信御影)』
一幅 絹本着色 縦四七・六×横二八・五センチ 鎌倉時代 十四世紀 京都・知恩院蔵
法然上人のお姿は木像や絵でいくつも残っているが、絵は剥落が激しいものが多いのでお顔がよく残っている伝・藤原隆信作の御影を紹介した(実際は隆信より後世の作)。後白河院の勅で源信『往生要集』を講義している場面を描いている。
法然は平安時代末の長承二年(一一三三年)に美作国(現岡山県)で生まれた。父はその地の押領使だったが法然九歳の時に夜討ちで殺害されたのだという。法然は出家して天台宗比叡山延暦寺で修行することになった。天台宗では前出の、執拗なまでに地獄の責め苦を描いた『往生要集』(九八五年頃成立)の著者・源信がすでに現れており、ひたすら念仏を唱える以外に極楽往生の道はないと説く浄土教の素地が出来上がっていた。
比叡山の経蔵で膨大な数の一切経を何度も読み返すうちに、法然は中国唐時代の浄土僧・善導の『観経疏』の中に「一心専念弥陀名号」の一節を見出し、ひたすら念仏を唱える専修念仏によって極楽浄土へ往生できるという思想に辿り着いた。
天台宗は密教も取り入れた綜合的大乗仏教だが、経典を修め厳しい修行を積むことでまざまざと浄土を幻視する(生きながら浄土を垣間見る)観相念仏を是としていた。簡単な念仏を唱えるだけの称名念仏(専修念仏)は観相念仏より劣るとされていたのだが法然はそれを逆転させた。承安五年(一一七五年)、法然四十三歲の時のことである。この年が浄土宗立教開宗の年である。
当時は武士の台頭期、というより平氏専横時代であり、保元の乱、平治の乱といった戦乱だけでなく飢饉や天災も絶えなかった。不安な世相を背景に、平明で簡単な法然の教えは貴顕から庶民に至るまで広く支持を集めた。その一方で他宗からの反発も強かった。解脱上人貞慶は『興福寺奏状』を著して朝廷に念仏停止を求めた。名僧・明恵も『摧邪輪』を書いて法然の教えを批判した。
建永元年(一二〇六年)、法然の二人の門弟が古代最後の帝王と言っていい後鳥羽上皇の女房を出家させ、それが上皇の逆鱗に触れて法然は土佐への流刑を命じられた。建永の法難である。実際には法然の庇護者で後白河院の元で鎌倉殿との折衝を行った九条兼実の取り成しで讃岐流刑に減刑されたが、法然は当時七十四歲であり苛酷な処罰だった。法然は建暦元年(一二一一年)に許されて知恩院に住み、翌年八十歲で入滅した。以上が開祖・法然の生涯のあらましである。
『選択本願念仏集』
一冊 紙本墨書 縦二七×横一九・一センチ 鎌倉時代 十二~十三世紀 京都・廬山寺蔵
法然が遺した経典(仏教論)は意外なほど少なく、建久九年(一一九八年)、六十六歲の時に撰述した『選択本願念仏集』がその代表である。浄土宗に深く帰依した九条兼実の求めで著した経典であり、浄土宗の根本聖典である。
内容は図録解説がわかりやすいので引用すると「称名念仏は阿弥陀仏があらゆる修行から選択取捨した極楽浄土へ往生するための本願の行であり、釈迦・諸仏も同心に称名念仏一行を選択取捨していることを、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)と善導の著作を主な典拠として体系的に述べる」(上杉智英)というものである。『選択本願念仏集』の著者は複数だが冒頭のひときわ墨色濃い二十一文字は法然真筆である。
平安時代と鎌倉時代を裁断するのは源平合戦による平家滅亡である。つい先日まで栄耀栄華を誇った平家公達の無惨な死は人々に浄土の存在を疑わせるにじゅうぶんだった。平家の公達はとうてい浄土に転生できるとは信じ難い無残な死を遂げた。それが禅宗の流入と普及によって世界を無の一如で捉える無常観思想を育んでいった。禅宗が完全に定着した室町時代以降、日本人の心性は基本的に禅的無常観に置かれているということができる。
法然の浄土宗は平安末期から源平合戦期の時代の大きなうねりの中から生まれた。それまでの仏教は教えを守り念仏を唱えるなどの修行を積んで初めて浄土に往生できると説く自力本願だった。観相念仏は自力修行によって華麗で清浄な浄土に至る方法である。しかし法然はひたすら念仏を唱えて阿弥陀如来の慈悲にすがる他力本願が正しいとした。そこには何をどうやっても、どう努力して足掻いてもどうにもならない現世の悲惨が深く影を落としている。
この法然の他力本願思想をほぼ極限まで展開したのが四十歲年下の弟子、親鸞である。親鸞はいわば絶対他力本願を唱えた。人間は完に全無力である。他者を救えないどころか自己すら信用できない。またこの世の善も悪も出自や人間関係の機縁で生じる現世の泡沫に過ぎない。人間はどちらに転んでもおかしくない弱い存在である。従って人間の無力を究めることが救済になる、という逆説が親鸞浄土真宗にはある。無力ゆえひたすら阿弥陀如来にすがるのである。いわば阿弥陀如来絶対帰依である。ただし親鸞は悪人正機説、絶対他力本願、阿弥陀如来絶対帰依を唱えながら、それによってもなお浄土往生が保証されるわけではないという所まで進んだ。
それはともかく親鸞は法然晩年の弟子の一人であり、建永の法難で法然が流罪になった際に越後国(現新潟県)に流罪になった。親鸞は法然赦免後も越後に留まり、その後東国(関東)で布教を始めたことが知られている。従って直接的に法然の法灯を継いだのは証空や聖光といった弟子たちだった。その流れが様々に分派して現在まで続く浄土宗を形成している。
『迎接曼荼羅図』(副本)
一幅 絹本着色 縦一一六・八×横五六・三センチ 南北朝時代 十四世紀 京都・清涼寺蔵
『迎接曼荼羅図』は『平家物語』「敦盛最期」の段で有名な猛将・熊谷直実ゆかりの来迎図である。正本は直実存命の鎌倉時代に作られたが退色が激しいので南北朝時代に模写された副本を紹介した。まあ実に見事な来迎図である。右下に菩薩が往生者(直実)の家に向かっている(浄土に迎接する)ところが描かれている。直実はこの絵の前で(正本の方だが)端坐合掌して念仏を唱えながら往生したと伝わる。
従来の仏教は極楽往生には九つの階位があると説いた。九品である。上品、中品、下品の三つの階位があり、それがさらに上生、中生、下生に分かれる。修行によって極楽浄土へ往生できると説く旧仏教では当然の階位である。
直実は熱心な浄土宗信者だったが最高位の往生である上品上生を強く望んだ。それに応えて法然が『迎接曼荼羅図』を描いて送ったという伝説がある。それは伝説に過ぎないがひたすら念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるという法然の教えと最上級の上品上生往生を望む直実の姿勢は相容れない。法然は書簡(消息)で直実の上品上生往生の願いをやんわりとたしなめてもいる。しかし否定せず受け入れた。浄土教が旧派から厳しく批判されながら貴顕の間に広く浸透した理由である。
平安末から鎌倉時代にかけて次々に新たな宗派が生まれた。それだけこの時代の動揺は激しかった。禅系は栄西臨済宗、道元曹洞宗だが、天台系から生まれたのが法然浄土宗、親鸞浄土真宗、日蓮日蓮宗、一遍時宗である。このうち浄土真宗、日蓮宗、時宗はしばしば時の為政者と対立して弾圧を受けた。他宗との相論も激しかった。しかし浄土宗は初期を除いて他宗派、特に旧仏教諸派との共存の道を選んだ。為政者からも、後鳥羽院の建永の法難以外さしたる圧迫を受けていない。徳川家康が帰依したのは浄土宗であり総本山・知恩院と大本山・増上寺を徳川家の菩提寺とした。
法然の専修念仏は親鸞と同じ絶対他力本願だった気配があるが、親鸞ほど教義を追いつめなかった。専修念仏は他力本願だがそれにより浄土往生を遂げられるという間口の広い救いの道筋を残していた。それが浄土真宗、日蓮宗、時宗が信と不信の間で揺れる苦しい生活を余儀なくされた庶民の間に根付いたのに対し、浄土宗が貴顕の間で支持された理由だろう。実際今回の展覧会のタイトルは『法然と極楽浄土展』である。浄土宗の遺品には平安仏画と見まがうような見事な作品が多い。仏教美術として見れば浄土宗は濃密な妄想空間で浄土を幻視していた平安仏教を引き継いでいる。
『二河白道図』
一幅 絹本着色 縦一一六・八×横六二・九センチ 鎌倉時代 十三世紀 兵庫・香雪美術館蔵
『二河白道図』は浄土宗始祖・善導の『観無量寿教疏』に典故を持つ絵である。ただし日本でしか絵画化されていない。絵の真ん中に白い道(線)が見えるが人間はこの白道を渡って阿弥陀仏がいらっしゃる極楽へ往生するのである。この白道は河の上を通っており炎に包まれた側と大水に満ちた河に分かれる。炎は瞋恚(怒り憎しみ)、水は貪愛を表している。実に日本的な平面立体絵画であり、鎌倉期ならではの大胆で動的な仏画である。
『阿弥陀二十五菩薩来迎図』(早来迎)
一幅 絹本着色 縦一四五・七×横一五五センチ 鎌倉時代 十四世紀 京都・知恩院蔵
『阿弥陀二十五菩薩来迎図』は右下の家の中にいる往生者の元に、阿弥陀如来が二十五菩薩を引き連れて来迎に来たところを描いた絵である。願主が誰かはわからないが位の高い人が臨終の際に掛けて念仏を唱えて往生するために描かせた作品である。右上に化宮殿が描かれておりこれは上品上生の往生を意味する。こういった動きの激しい仏画は鎌倉末期にしか描かれていない。また浄土宗が貴顕の上品上生往生の願を否定していなかったことがよくわかる。鎌倉仏画屈指の名品で国宝指定されている。
『山越阿弥陀図』
一幅 絹本着色 縦一三八×横一一八センチ 鎌倉時代 十三世紀 京都・永観堂禅林寺蔵
『山越阿弥陀図』も日本にしかない仏画である。古代の山岳信仰や山上他界観が仏教と習合した作品である。山越に現れた阿弥陀如来が往生者を迎えるところを描いている。僕だけではないと思うが、日本の深い山中にいると山越に阿弥陀仏が見えるような気がすることがある。
中上健次の『熊野集』に旅の破戒僧が里で女とねんごろになり毎晩女を抱くが、営みの最中に女が「お太子様ぁ、お太子様ぁ」と痴呆のように言うのに耐えかねて、女を殺して家を出ると山越に阿弥陀が見えたという小説がある。阿弥陀様を見て破戒僧は「つっと目をそらした」という結末だったように記憶している。山越の阿弥陀仏が見えたとして人はその前に立って真っ直ぐ目を合わせられるのかどうか。これも鎌倉仏画の傑作である。
『當麻曼荼羅図』(貞享本)
青木良慶・宗慶筆 一幅 絹本着色 縦四一五・七×横四二九・七センチ(描表装含) 江戸時代 貞享三年(一六八六年) 奈良・當麻寺蔵
もう一つ浄土教の名品を。奈良の當麻寺に伝来した『綴織當麻曼荼羅』は古代から浄土教美術の至宝として知られていた。浄土教の三大聖典の一つ『観無量寿経』を図像化した曼荼羅だからである。法然の法灯を継いだ高弟の証空は『綴織當麻曼荼羅』が浄土宗の祖・唐の善導が著した『観無量寿経疏』の内容を正確に図示しているのに気づき、その後『綴織當麻曼荼羅』の写しが数多く作られた。オリジナルの『綴織當麻曼荼羅』は唐時代の中国か日本の奈良時代に作られた作品で痛みが激しいので、図は貞享三年(一六八六年)に描かれた青木良慶・宗慶筆の写しである。阿弥陀如来を中心に世の諸相が描かれている。密教曼荼羅とはまた異なる浄土宗系の曼荼羅である。
『勢至菩薩坐像』
一軀 木造、金泥・截金、玉眼 像高五六センチ 鎌倉時代 十三世紀 京都・知恩院蔵
『如意輪観音坐像』
一軀 木造、金泥・截金、玉眼 像高四一・八センチ 南北朝時代 応安五年(一三七二年) 茨城・法性寺蔵
比較的法然の活躍した時代に近い鎌倉期の名品仏画ばかりを紹介したが、展覧会では室町・江戸時代の名品の数々も出品されている。それらは実際に展覧会に足を運んで、あるいは図録を入手してご覧下さい。
ただ仏教美術はなかなか厄介である。まあどれもこれも同じに見えてしまうのは否めない。日本人は子どもの頃から仏像、仏画を見慣れているからなおさらである。しかしいくつも作品を見ていると少しずつ目が慣れてゆくものである。
『勢至菩薩坐像』は鎌倉時代中期の作品、『如意輪観音坐像』は室町南北朝時代の作品である。制作時代が約二〇〇年ほど違うわけだが、パッと見てすぐに南北朝時代作の『如意輪観音坐像』の造形が甘くなっているのがわかるだろう。この作品だって名品なのである。しかし鎌倉期の仏像の厳しさはない。室町時代を代表する美術は仏像仏画ではなく、水墨画と墨書になってゆく。
ただまあそうは言ってもそんなに簡単に平安仏画・仏像と鎌倉時代のそれを見分けることはできない。他の時代も同様で専門家の調査に頼るしかない。しかし数多く作品を見てゆけば、少なくとも各時代の典型的な作品の特徴は目に馴染んでなんとなく時代を推測できるようになるものです。
鶴山裕司
(2024 / 08 /08 15枚)
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