世界は変わった! 紙に印刷された文字の小説を読む時代から、VRでリアルに小説世界を体験できるようになったのだ。恋愛も冒険も、純文学的苦悩も目の前にリアルな動画として再現され、読者(視聴者)はそれを我がことのように体験できる! しかしいつの世の中でも悪いヤツが、秩序を乱す輩がいるもので・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、極めてリアルな近未来小説!
by 遠藤徹
二〇、『三四郎』第十章 金縁眼鏡の男(上編)
とは言ったものの、ほんと疲れた。
時計を見ると、深夜の、というか早朝の四時前だった。すでに二十四時間以上、この作品のなかを全力で探り続けてきたことになる。通常の読者であれば、とっくにリセットモードが作動して、「本」から引き戻されているところだ。つまり、すでにやり過ぎてるってこと。
作品体験は、あくまでバーチャルなものだから、実際に、作品内を歩いたり走ったりするわけではないのだが、「体感」であるだけに、疲労はある。特に、文字を読み取ってそれを五感の体験へと変換する情報を提供し続けている脳の消耗が激しい。自動車だって走り続ければエンジンがオーバーヒートするし、パソコンだって機種によっては発火するほど熱くなる。脳だって発火するかもしれない。なんせ、もともとが慢性的な睡眠不足で疲弊していたのだ。いくら時間がないといったって、フル回転というわけにはいかない。だって、にんげんだもの。
「ああ、もうだめだ。俺。もう一語も読めねえ」
この場合、「もう一歩も歩けねえ」ではなく、このように「もう一語も読めねえ」が正確な表現なのだ。
「わかったわ」
高満寺はなんともなさそうだった。きっと、目を開いたままでもこの人の脳は眠ることができるのに違いない。あるいは、普段から脳は眠ったままという可能性だって考えられる。筋肉がすべてを代用しているのだと考えれば大いに納得されるところである。
俺は十五分間の仮眠を許された。寝不足の上に、ここまであまり豊富にあるとはいえない知性と感性をフルスロットルで使い続けてきたせいで、俺の脳はエンスト寸前だった。
「ちょっとだけ寝ていいよ。十五分経ったら起こすから」
そういわれた直後、一瞬の間も置くことなく、返事もせずに俺は落ちていた。
そして夢を見た。
懐かしい夢だった。
「泥棒転じて、刑事になったってやつね」
皮肉っぽい口調。
「まあね。アメリカ映画辺りでよくある展開だよね」
その人はピンクのパジャマ姿だった。懐かしい人だった。もういないはずの人だったけど、ここにはいられる。いや、いていいのだ。というより、いて欲しかった。
「どう思う? この流れ」
「そうね。あんたにしちゃ、頑張ってると思うわ」
「たどり着けるかな? 犯人に」
思わず、内面の不安を吐露してしまっていた。
「あら、不安なのね。じゃあ、ヒントをあげましょうか?」
「ぜひ、お願いしますよ。先輩!」
ピンクのパジャマ姿の先輩は、うろうろと歩き回った。それは、本来彼女にはできないはずのことだった。でもいいのだ。夢の中なんだから、自由にすればいいし、俺もそうしてほしかった。
「そうねえ」
彼女は踵を軸にしてくるりと身を翻した。きっと、ずっとやって見たかったことだったんだろうな、って俺は思った。ほほえましい姿だと思った。
「こうして、君がわたしに会うことができた、っていうのがヒントかな」
「え、どういうこと? 漠然としすぎて、まったくわかんない」
「うん、でもこれで十分だと思うよ」
そういって彼女は笑った。かつては表情筋もあまり動かせなかった。だから、俺の記憶のなかの彼女は唇の端をかすかに歪める程度の笑顔しか見せたことはなかった。でも、いまの彼女はにっこりと、そして、表情豊かにほほ笑んでいた。それは、うれしいことだった。俺が見たかった笑顔だったからだ。
「つまり、さっきのヒントは俺の無意識によってしっかり受け止められたってことだね」
「そう、そういうこと。後はそれをゆっくりと意識化すればいいのよ。焦らないでいいから。物語の続きを探索しながら、じっくり待てばいいのよ」
夢の中の彼女。いないはずの彼女、もはや存在の位相が違っているはずの彼女に、こうして俺は会っている。そのことの意味について考えるということ、かな。
「単純にいえば夢だから、だよね」
「そうね。単純にいえばそうね」
「つまり、あれか」
なにかつかめそうな気がした。俺のなかで何かが動いているという感触があった。あと一歩で、なにかに気づけそうだ。さあこい、浮かんで来い。エウレーカさせてくれ!
じりりりりり!
けたたましい音が俺の期待をさえぎった。俺は、網にかかった沼の主であるところの鯰のように、深い眠りの泥沼から引きずり出された。おいこら呪うでぇ。わしは沼の主や。沼の主生け捕ったら呪ったるでぇ! そんな風に凄んでみても、まったく甲斐のない相手が目の前にいた。
「はい、時間よ。起きてえ!」
ああ、なんてこった。あと少しで、何かつかめそうだったのに。もう一度あのレム睡眠状態に戻りたかった。でももう無理だ。目の前にいるのは、ピンクのパジャマでほほ笑むあの人じゃなくって、極彩色のレオタードから筋肉を露出した巨女だった。そう、彼女が露出しているのは肌ではない、筋肉なのだ。
それでも、十五分間の眠りは意味があった。頭がだいぶすっきりした感じがあった。
「なんせ、タイムリミットがあるからな。仕方ない。始めようか」
高満寺に渡されたウイダーインゼリー・マルチビタミンを喉に流し込みながら、俺は十章へとダイブしていった。
ちなみに、俺が寝ている間に、高満寺の奴は、たらふく飯を食らったようだった。
「管理局から弁当が二個送られてきたんだけど、あんた寝てるし、あたしが代わりに食べといたげたから」
なんだかよくわからないが、この場合返事は「ありがとう」で正しいのだろうか。
a:青春の血
病気だという広田を見舞いに、三四郎が柿をもって訪れると、広田は友人と柔術の組み手をして組み敷かれているところである。
「この辺、滑稽だよね。組み敷かれながら、『「やあおいで」』と三四郎に笑いかける広田って、ほんと愉快だと思う」
「あら、大変!」
文庫本と見比べていた高満寺が、ふいに素っ頓狂な声をあげた。
「どうかした?」
「ここでも凶器がひとつ紛失してるわ。包丁が一本消されてるもの。本当なら、三四郎が土産にもってきた柿を、広田がナイフで、三四郎が包丁でむくはずなのに、広田が一人でむいていることになっちゃってるじゃない」
「前は野々宮のナイフだったよな」
「ええ、そして今度は広田の包丁よ」
つまり、犯人は凶器を二つ調達したということになる。なんのためだろう。犯人が二人いるのか? それとも、ナイフと包丁という二つの凶器を、なんらかのかたちで使い分けるということなのだろうか?
「広田の友人は中学教師の生活難について語るよね」
「『蘊蓄』によると、実際かなりの不況だったみたいよ。この小説が書かれていた明治四一(一九〇八年)というのは、日露戦争後の恐慌のさなかにあったわけだもの。それ以前の一八九〇年に第一恐慌があったようだけど、それは日清戦争で得た賠償金で何とか収集できたみたい。でも、日露戦争は賠償金が取れなかったから、恐慌を収束することができなくて、その後不況が長期化したらしいわ」
「帝大進学者を育てる第一高等学校の広田ですらたいした給料はもらっていないみたいだから、地方の公務員だとなると厳しかったんだろうね」
「授業以外に、柔術まで教えて、それでも立ち行かなくて妻子を国元に送り返してるくらいだものね」
その話を聞いた三四郎は、『自分の寿命もわずか二、三年のあいだなのかしらん』などと、自分の高等遊民生活も、あとわずかで終わってしまうのかもしれないというぼんやりした不安を感じる。
「この時代、大学を出てエリートになったとしても、必ずしも明るい未来は用意されていなかったわけだね」
「でも、そんな将来に対する不安も、いまの三四郎にはさほど響かなかったみたい。昨夜体験した対岸の火事と同じ事でしかないのよね。なぜって、いまの三四郎は『いまこの時』でいっぱいいっぱいだからよ。つまり、美禰子のことでいっぱいいっぱいってわけ。自分のリアルはそこにしかなくて、他人のことも、自分の将来のことでさえ、新聞記事と同じくらいの現実感しかないわけよね」
「それが現代人の常だって三四郎は考えるわけだ。『現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切り捨てる習慣である。切り捨てねばならないほど世間が切迫しているのだからしかたがない』って」
「そして新聞のたとえが出てくる。今日で言えばテレビのニュースかしらね。『新聞の記事は十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう余裕がない』って。知らない他人の死や泥棒や辞職も「事実」にすぎず、被害にたいする「共感」は伴わないって考えてるわけよね」
「三四郎の場合は、新聞記事どころか、線路の轢死死体にも、近所の火事にすらどこか現実感を伴っていない感じがするね。ほんとうに自分のリアルが狭い範囲でしかない感じがする」
「だから、広田から借りた『ハイドリオタフヒア』つまり、十七世紀英国の作家トマス・ブラウンの『壷葬論』ってやつに書いてある、諸行無常みたいな哲学も、『まるで古いお寺を見るような心持ち』がするだけなのよね」
「いまで精一杯。他人の轢死も、他人の家の火事も、広田の友人の運命のようなほんの二三年後の未来に待ち受ける不況のあおりも、過去に異国で書かれた著作の内容も、すべて遠いものでしかない。ましてや自分の死のことなど遠すぎるわけだ。『三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である。考えるには、青春の血が、あまりに暖かすぎる』っていうのはそういう意味だよね」
そんな、『目の前には眉を焦がすほど大きな火が燃えている。その感じが真の自分である』と感じつつ、原口のアトリエを目指す三四郎の行く手に、子供の葬式がやってくる。
「これもまた遠い出来事なのよね。『ハイドリオタフヒア』も子供の葬式も等しく遠い。近いのは美禰子だけ。そして、他人の死には『美しい穏やかな味わい』を感じることができるが、美禰子を思うと『美しい享楽の底に、一種の苦悶』を感じる。その苦悶を払うために進むことしか、いまの三四郎には考えられない」
「青春の血っていうより、これはもう恋の血だね。典型的な恋する者の近視眼だね」
(第33回 了)
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* 『虚構探偵―『三四郎』殺人事件―』は毎月13日に更新されます。
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