世界は変わった! 紙に印刷された文字の小説を読む時代から、VRでリアルに小説世界を体験できるようになったのだ。恋愛も冒険も、純文学的苦悩も目の前にリアルな動画として再現され、読者(視聴者)はそれを我がことのように体験できる! しかしいつの世の中でも悪いヤツが、秩序を乱す輩がいるもので・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、極めてリアルな近未来小説!
by 遠藤徹
十九 『三四郎』第九章 「君、あの女を愛しているんだろう」(後編)
d:ずるい決心
店を出ると、よし子が兄のところへ行くところであることがわかる。母から野々宮に言付けられているであろう小言を、自分もこれから野々宮経由で聞かねばならない。そこに『よし子がいてくれるほうが便利』だと、『三四郎は腹の中で、ちょっとずるい決心を』する。
「それで、二人で行くわけよね。純朴なようでいて、実際結構狡猾なところがあるのよね、っていうかやっぱり小心者なのよね、三四郎は。まあ、それも子供みたいな純朴なずるさだけど」
「この前は美禰子と歩き、今度はよし子と歩く。三四郎もけっこう世のなかの常識にとらわれないところがあるよね」
「というより、そういう女に関心があるのよ、きっと。郷里のお光さんみたいなのとは違った女性が刺激的に感じられるんじゃないかしら。でも、野々宮は『「妙な客が落ち合ったな」』と妹に言うのよね。当時の社会規範からしたら不道徳な行為だからよね」
よし子は、この前かってもらったバイオリンへの不平を兄にぶちまける。和製だから音が悪い、待たせたのだからもっとよいのと買い換えてほしいと訴える。
「そうやって遠慮なく兄に甘えるさまを、三四郎は『広い日当たりのいい畑へ出たような心持ち』で聞いている。つまり、三四郎はよし子のすることなすことにとても肯定的なんだよね」
「でも、次によし子は美禰子からの言づてがあると告げた上で、『「うれしいでしょう。うれしくなくって?」』と言うわよね」
「それに対して野々宮は『かゆいような顔』をする」
「三四郎が見ているからね。感情を表に出せない感じだよね」
美禰子からの言づては、文芸協会の演芸会に連れて行ってほしいというものである。野々宮は、今日妹を呼んだのは、国から縁談話がきているからだという。三四郎は、自分の用件を終わらせて帰ろうとする。
「母からは、三十円あれば四人家族が半年食える。それを簡単に用立てろというのは、無分別だという言づてが野々宮宛てに来ているわけだけど、野々宮は当然母の代わりに三四郎を叱ったりはしない。ただ淡々とその内容を伝えるだけだ」
「それから科学者らしく、四人家族が三十円で半年暮らすためには、一人一日四銭で暮らさねばならないけど、あまりに少ないのではないかという分析をしてみせる」
「それで三四郎が、田舎の生活をはなして聞かせるのよね」
「東京と熊本とでは、同じ日本でもまったく異なる経済状態があることが暗に示されるわけだ」
「大きな格差ね」
「それは、貨幣経済の世界、つまり貨幣を媒介として物を購入しなければ生活が成り立たない世界と、まだ半分それ以前の地縁的自給自足性が残っていて、貨幣経済になりきっていない世界との対比でもあるよね」
「そのことは、与次郎が手にした金が競馬で消え、穴埋めにわたした三四郎の金がよし子のバイオリンとなり、三四郎の不足を穴埋めした美禰子の金が三四郎の家賃と会合費とシャツ代となり、それを穴埋めするための金が、郷里から送られるという展開でよく表されているわよね」
「うん、半年分の暮らしという生活と密着した田舎の金が、都会ではいろんなものに変容するわけだからね」
実のところ、『三四郎』が書かれたのは、紙幣が統一されてまだ十年もたたない時代であった。
明治初期の貨幣状況は滅茶苦茶だった。各地で藩札など、ばらばらな紙幣が乱立している状態だったからだ。そこで、全国共通紙幣として『大政官札』や『民部省札』などを政府が発行した。けれども、発行額に制限を設けなかったために価値が下落し、さらには印刷技術の未熟さゆえに贋札が出まわって信用が下がるという混乱を招いたりした。
やがて、ドイツに製造を依頼した『ゲルマン紙幣』あるいは『明治通宝札』を基準として、それ以外の紙幣を禁止し、紙幣が統一されたのは明治三十二年の末になってようやくのことだった。だから、このころ東京では、貨幣経済が一応確立されていたにせよ、三四郎の故郷の熊本ではまだまだ物々交換的な価値観が根強く残っていたと考えることができるわけだ。
話の片がついて三四郎が帰ろうとすると、よし子も帰ろうとする。野々宮が縁談の話をもう一度しようとすると、よし子はその話はもういいという。『「知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって、好きでもきらいでもないんだから、なんにも言い様はありゃしないわ。だから知らないわ」』という。
「よし子は、自分本位ね」
「美禰子もそうしたいんだろうけど、親のない身で、兄が先に結婚してしまうから、それができなくなっちゃうわけだよね」
「そこへ行くと、よし子は、家もあれば、兄もまだ未婚だから、なんとでもわがままが言えるのよね」
「でまあ、その調子でよし子が断る次の縁談が、美彌子に回っていくことになるわけだよね」
「間接的には、よし子が、兄や三四郎の元から美彌子が奪い去られるきっかけをつくることになるわけだよね。あくまで間接的にだけど」
e:対岸の火事
兄妹を残して三四郎は風の中を一人下宿へと戻る。美禰子だったら、送っていこうとするだろうに、よし子のことは兄に任せて平気である。夜の下宿で風の音を聞きながら、三四郎は運命について考え、風の音にすくむ。
風の音が、運命の連想となり、与次郎に翻弄される自分という連想へと誘う。『上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている』それも『和気藹然たる翻弄をうけるよう』なかたちでである。そして、与次郎のことを『愛すべき悪戯者』だと考える。
「確かに、三四郎が自分から作った人間関係は、野々宮とのつながりだけで、それも母親の仲立ちがあってのことよね」
「そう、野々宮がらみで美禰子と二度遭遇し、よし子の見舞いにも一度行っている。広田先生とも、確かに一度は電車で会っているけど、放っておけばそれきりだったかもしれない。つまり、与次郎以前に、親しくなる可能性があったのは、野々宮とよし子だけだったということになる」
「けれどもすべてが大きく動き出すのは、与次郎が広田先生と引き合わせてからよね。広田先生の引っ越しがらみで、初めて美禰子との関係性が本格的なものになって、菊人形に一緒に出かけたりすることになるわけだからね」
「さらには与次郎の借金のおかげで、美禰子と個人的な貸借関係で結ばれ、二人で絵画展を訪れるということも可能となった」
「そういう意味では、よし子としかつながれそうになかった三四郎を美禰子とつないだ与次郎は罪作りでもあるわね」
「まさに、翻弄されてるっていう感じだね。でも、困ってる感じじゃない。本人が、和気藹然たる翻弄っていってるわけだから、なかなか心地よいめまいの感覚があるんだろうね」
「楽しんでる感じよね」
母から送られた三十円を枕元に置き、それを美禰子に返しに行くのを楽しみにして三四郎は眠りにつく。すこやかな眠りはしかし、半鐘の音でさまされる。
「火事ね」
「でも、言ってみれば対岸の火事だ。自分に災いが及ぶ可能性はない。三四郎は窓から眺めるばかりだから」
「その赤い火を見つめているときに、『三四郎の頭には運命がありありと赤く映った』っていうのはどういうことかしら」
「他人の運命だね。自分が自分の運命の風に翻弄されるように、赤い火に翻弄される運命もあるっていうことを思ったのかな」
「でも、それはあくまで他人事なのよね。だって、『三四郎はまた暖かいふとんの中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた』ってあるものね」
「なんだか、非人情だよね」
「わたしたちがテレビで見る遠隔地や外国の災害や戦争の映像に感じるものに近いのかもしれないわね」
「なんていうのかな、理解はあるけど、共感はない感じかな」
「野々宮の家の近くで若い女が轢死したのに遭遇したときと同じで、自分はそこにはいないのよね」
翌日、金を返すのを口実に美禰子に会おうともくろむ三四郎。だが、授業が三時までびっしり埋まっており、それから行ったのではよし子も戻っているかもしれないし、恭助までいる可能性がある。つまり、三四郎は美彌子の保護者代わりである恭助に会うことを、恐れ、回避していることがわかる。けれども、再び和気藹然たる翻弄者与次郎が、美禰子が原口のアトリエでモデルになっていることを教えてくれる。
「二人で会うチャンスってわけだ」
「与次郎って、ほんと三四郎を翻弄するのが趣味よね」
「本人は意識していないのだろうけれど、無意識の攪乱者だね」
「さて、あと少しだ」
「待って、まだまとめができてないわよ」
「そうだったそうだった。えーと、 この章では、まず最初に与次郎が企てた『文芸上有益な談話を交換する晩餐会』が開かれ、そこで物理現象は法則に従うが、人間現象はなんでもありだという話になるんだったよね」
「そうね、このなんでもありってところは、つまり殺人もありってことにつながる気がするわ」
「なるほど、人間が法則化できないってことのひとつの証左なのは確かかもね。人間は人間を殺すことすらできるんだから」
「で、次は与次郎に『「君、あの女を愛しているだろう」』と喝破される場面が来る。でも、与次郎はむしろよし子の方が三四郎に似合うと思っているのよね」
「与次郎に貸して失った金を三四郎は母親に無心した」
「ほんと、ダメ息子!」
「はい、ではどうぞ」
「ぬしゃ、いいかげんにしとけよ、だらが!」
「大金だから、さすがに母親も事態を重く見て、その金を野々宮に送った。だから、三四郎は野々宮経由で、母の小言といっしょにその金を受け取らねばならない」
「で、野々宮の家に行く途中入った唐物屋で、美彌子やよし子と会うのよね。香水を探していると聞いた三四郎は、ヘリオトロープというのを適当に選ぶ。まったくいい加減な男だわ」
「よし子も野々宮のところへ行く途中だと知って、三四郎はずるい考えをし、よし子といっしょなら、野々宮もそれほどきつく小言を言うまいと思って、連れだって野々宮のところへ行く」
「その夜、家事を見るけど、他人事でぐっすり寝ちゃう」
「翌日、野々宮から受け取った金を返すという口実で美彌子に会うことを考える三四郎だけど、恭助に会うのを恐れたりしている」
「ってことは、三四郎には罪の意識があるってことよね。恭助の妹に、釣り合わない自分がちょっかいを出してるってことはわかってるってことよね」
「同時に、恭助は、三四郎を委縮させる現実的な力をもってもいるってことよね。実業界か政治界かわからないけど、現実で実際に活躍しているわけだから」
「お母さんにお金送ってもらって、それもって女に会いに行く男とはだいぶ格が違うわけよね」
「たはーっ、なんか情けない」
「で、びびってる三四郎に、また与次郎が助け船を出す」
「美彌子が、一人で原口のアトリエにいるっていう情報よね。つまり、兄抜きで会える場所をちゃんと設定してあげるわけよね」
ってことで、いないはずの恭助が、しっかり三四郎を脅かしてもいることが明らかになったりしたわけだ。まだ現実に何の根もおろしていない脛かじりと、社会にしっかり根を下ろしている大人の男の対比。
「これって、けっこう重要なポイントだよね」
「そうね、なんかわかんないけど、近づいた感はあるわね」
「よし、さらなる一歩を進めよう」
「そうしましょう」
(第32回 了)
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* 『虚構探偵―『三四郎』殺人事件―』は毎月13日に更新されます。
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