『ブラック・スワン』Black Swan 2010年(米)
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:
マーク・ヘイマン
アンドレス・ハインツ
ジョン・J・マクローリン
キャスト:
ナタリー・ポートマン
ヴァンサン・カッセル
ミラ・クニス
ウィノナ・ライダー
バーバラ・ハーシー
上映時間:108分
一流のバレエ団で「白鳥の湖」の主演を務めることになったバレエ・ダンサーのニナ(ナタリー・ポートマン)。彼女は純白で繊細な白鳥と官能的で野心的な黒鳥の両方を演じなければいけない重圧に困窮し、幻覚や悪夢に苛まされるようになる。そして舞台発表の日、官能と野心と美に目覚めたニナがたどり着いた究極の演技が披露される。
本作はアカデミー賞主演女優賞を受賞したナタリー・ポートマンの繊細さと攻撃性、純粋さと狂気といった表裏のパフォーマンスが一つの魅力であり、呼び物にもなっている。たしかに「演技の巧さ」という言葉が陳腐に思えるほどの狂気を表現したナタリー・ポートマンの仕事は、称賛に値するし、本作最大の魅力と言っても過言ではないだろう。だが本作を10年代のアメリカ映画の傑作に至らしめているのは、90年代のインディーズ映画の旗手ダーレン・アロノフスキー作品に頻繁に見られる手持ちカメラによる躍動のリアリズムと非常に古典的な悪夢的シークエンスの連続性にあると思われる。まずは本作の展開の仕方から見ていくとしよう。
■押し寄せる狂気■
印象論で言えば、『ブラック・スワン』は主人公ニナが抱き、混乱する狂気的で重圧的な心理を観客に体感させている作品ではないだろうか。しかし本作は何故これ程までに殺人的な重圧を観客に与えることができたのだろうか。それは映像表現の貢献だろうか。ナタリー・ポートマンの熱演だろうか。様々な要因が考えられるが、最も大きな要因は恐らく絶え間ない狂気の連続性ではないかと思われる。
オープニングから見てみよう。漆黒の舞台で白鳥の湖を舞うナタリー・ポートマン。やがて悪魔が現れ、カメラは手持ちカメラで大胆にぶれながら彼女らの周りを旋回し、勢いを強め、視覚的に惹きこんでいく。そしてCGを使った悪魔の変貌と強烈な音響で映画的に不安と悪夢を体験させる。悪魔と交尾しているかのようなダンスによって見せられる不快で刺激的な感覚はまだ終わらない。次いで彼女が出勤する地下鉄においてもカメラは執拗に彼女の狂気空間を醸し出すことに徹していた。手持ちカメラでバスト・ショットにしたまま歩く彼女の後姿を永遠と写すショットは、重圧的で閉鎖的な世界を表現していたように思える。そのためだろうか、彼女が見る景色は一切映されず、彼女が今どこにいるのかさえ観客には提示されない。極めて閉塞的な世界観に我々観客が閉じ込められているかのようだ。
そして彼女の視点ショットで覗く人影は、彼女の分身であるかのような錯覚を我々に提示し、謎めいた空気感を演出していたように思える。さらに背中の傷や強迫観念的な彼女の不安と孤独は、全て彼女の一人称視点で語られていくため、彼女が観たものが真実とは限らないことを観客は気付かされるだろう。とりわけトイレの中でいつの間にか指が怪我をしていることに気付くシーンが象徴的だ。急いで指を洗う彼女の表情を手持ちカメラと連続的なカッティングで魅せ、焦りと不安を醸し出す。指の皮を剥いていき、長々とはがれていく指の皮を引っ張り、痛みで観客は体を硬直させられるかもしれない。しかし次のショットでは指に怪我はない。一切の友人や恋人がいない孤独で空虚な彼女は、誰に自分の幻覚を話すわけでもなく狂気は静かに過ぎ去っていく。
このように我々は本作の作り手によって休むことを許されず、平穏さえ許されず、絶えず彼女自身が対面し目撃する様々な狂気的幻覚の数々を彼女と共に体験しなければならない。過激さと官能、日常的な狂気と驚愕、全てが108分もの間、ダイナミックに押し寄せる。そうした怒涛の狂気でクライマックスへと突き進む映画術は観客の心を何よりも惹きつける力を有していたように思えてならない。これはナタリー・ポートマンの貢献でもあり、アロノフスキー監督の魔術とも言えるだろう。混沌とした狂気と重圧を体感させる『ブラック・スワン』の悪夢と狂気の連続性は、ナタリー・ポートマンの功労的な演技に匹敵すると言っても過言ではない。
以上のことから導き出される『ブラック・スワン』の魅力は次の4つではないだろうか。まずは役者の献身的な演技。次いで手持ちカメラを主軸にした視覚的世界観演出。古典的な悪夢描写。そして絶え間ない悪夢と狂気の連続性である。この4つが絡み合った時、本作は観客に困窮と不快の美を提供していたように思う。
作り手がどれだけ意識していたかは不明だが、少なくとも本作の映像と音響の戯れ、役者の仕事に至るまで、それらすべてがプロット構造から表現される重圧の感覚を生み出すのに貢献していたように思える。それは映画でしか成しえない技であり、低予算のインディーズから出発した古典的かつ偶発性に富んだ表現を好むアロノフスキー作品ならではの表現性と言えるかもしれない。
■自我の分裂■
『ブラック・スワン』は手持ちカメラやCG合成を使った近代的な技術を用いる作品である一方で、サイレント時代から描かれてきたドッペルゲンガーの主題を有した古典的な作品でもある。とりわけ本作は1913年のサイレント映画『プラーグの大学生』(13)というドイツ表現主義映画の代表作とよく似ている。『プラーグの大学生』は一目惚れしたブルジョワの娘を手に入れるために悪魔と契約して金持ちなった青年を主人公とした作品である。彼は悪魔との契約でブルジョワ社会に入り、目的の女性を手に入れようとするが度々鏡の世界から抜け出したもう一人の自分に邪魔をされる。そしてドッペルゲンガーに人生を滅茶苦茶にされた彼は、もう一人の自分を撃ち殺してしまう。悪魔の解放から喜んだのも束の間、彼は自分の胸から流れる血を見て驚き、絶命する。『プラーグの大学生』は鏡の世界にいるもう一人の自分を自我の分裂として表現し、欲望と自我を結び付けて描いた作品である。こうしたアイデンティティと欲望の問題については、アメリカやヨーロッパの映画でしばしば描かれてきた。
その一方で『ブラック・スワン』は自我の分裂を主題にそえているが、終盤まで分身の正体がわからないように構成されており、現代版のサイコ・スリラーとも言える作りになっている。しかし本作は他のサイコ・スリラーとは違って、主人公が自我の分裂を伴いながらも「白鳥の湖」を成功させるという目的のために邁進していく心理的ロード・ムービーの体裁をとっているという点で興味深い。
前述したように本作はバレエ団の頂点に立ち、幻覚と欲望に支配されながらも最高の舞台に立つのだという彼女の欲望が強調して描かれており、作品を通じて彼女が「白鳥の湖」を完成させるまでが描かれている。そうした彼女のマスターピースを完成させる旅を考えれば、本作のラストは、一種のハッピーエンドと読めるのではないだろうか。主人公が幻覚と自我の分裂に苦しみ、精神的に火だるまになって転がり落ちながらも成し遂げた最高の舞台。文字通り身も心も捧げた白鳥と黒鳥の完成形。それがあのラストに表現されているのだと思う。だから彼女は最期に涙を流すのではあるまいか。その涙と歓喜は『プラーグの大学生』の主人公が見せた驚きと解放感ではなく、彼女の中で完結した最高傑作の喜びだったのかもしれない。
そう考えれば『ブラック・スワン』は彼女が自我を分裂させることによって自我を形成した逆説的物語、つまり、ある女性が挑む自我形成の物語ということになるだろう。そうした自我の崩壊と形成の主題は、本作がサイコ・スリラーというジャンル映画や重圧的で胸苦しい映画だけでは終わらせない奥深さを有した作品であることを明らかにしてくれるに違いない。またそのような古典的主題は、古典回帰という近年のアメリカ映画の傾向を示唆しているように思われる。CGや手持ちカメラによる近代表現と古典回帰の混合性。それが『ブラック・スワン』の魅力の一つであり、アメリカ映画の今ではないだろうか。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■