人は必ず死ぬ。善人も悪人も富める者も貧しき者もいずれ必ず死ぬ。死んだらそれきり。それは無。だが無とは何か。語り得ぬ、経験し得ぬ無とは何か。無である死が不可知なら、死を巡るあらゆる物語は棄却される・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第二弾。
by 金魚屋編集部
⒋
本人はともあれ、あとに残された家族や恋人は、死んだらそれきりではやりきれない。そのひとたちは、せめてそのひとを思い出の中でうんと着飾ってやりたい、そして、せいいっぱい悲しみたいと願う。二度とふたたび会うことのできないそのひとの面影を抱きしめて。死というこの、自分たちとのあいだに横たわる絶対の径庭を埋めるために――そう思うのがすなおな気持ちではなかろうか。
しかし、である。
ここで立ち止まって考えてみよう。
むしろ死こそが、それも〈無〉としての死、つまり死んだらそれきりであることこそが、誰にとっても公平に与えられた唯一のできごとではないだろうか。
左右に長く伸びる直線を思い浮かべてみてほしい。それを、ひとの人生をあらわす時間軸と思ってほしい。直線の右から左へ向かって時が流れているものとしよう。右端には生誕、つまり「生まれて来ること」がある。左端には死がある。「生まれて来ること」は、死と同様、誰もが経る過程である。だが、これを公平と呼んでいいかは微妙だ。微妙という理由はいくつかある。ひとはみな、生まれる時や場所や境遇をあらかじめ自らの意志では選べない、という理由もある。一方、誰もが母から生まれ出たという共通の事実もとうぜんあるだろう。まあいずれ、母も生きた子宮もなく生まれ来る者たちの時代がおとずれるだろうけれど。
そんなことより、そもそもひとは、天才であろうと知的障害者だろうと、金持ちの家の子だろうとみなし児だろうと、どこかのカルト教団のように合同結婚式で勝手に決められた夫婦から生まれたと思ったら、人身売買さながら見知らぬ信者の養子に勝手に出されようと、虐待する親の下に生まれようと、幸か不幸か気づいたときにはつねにすでに与えられてしまっている。生まれてしまっている。境遇の差こそあれ、何はともあれこうして生を享けてあるという事実それ自体を公平というなら、そうとも言えなくはない。けれど、それは生まれて来なかった可能性に比べれば、何とも不釣り合いではないか。だって、誰でも生まれて来ないことができたはずだろう。なのに、こうしてげんに生まれついてあることの不可解さ、この落差は、どう受け止めたらいいのだろう?
いまぼくは、気づいたときにはすでに生まれてしまっているひとのことを語っている。これとの対照で「生まないこと」という観点も一方にはあり、それぞれの是非が主に倫理学という学問の筋で論じられている。「生まれて来ないほうがよかった」「生まないほうがよい」といういわゆる「反出生主義」とそれにアンチの立場(「生まれて来てよかった」「生んだほうがよい」)との四つ巴の議論である。ぼくがいま語っていることはそんなつもりはなくても、はからずも問題の一部に答える結果となっているかもしれない。けれどぼくは、それらの議論には関心がない。ぼくは生まれた者たちを横ぐしにして比べて、あれこれ論じるつもりはないのだ。問題にしているのは「生まれて来ないこと=〈無〉」と「生まれてあること」とのあいだに横たわる、絶対的な距たりなのだから。
これに折り合いをつけるとしたら、ほんとうは誰もがこの世に生を授かる前に、天界だかどこかは知らないが「さあ、ぼくはこれからあのひとの子どもに生まれるぞ!」「いや、なんだかひどい目に合いそうだな、やっぱやめとこーかな。」といった選択を――神の意思であれ当人の自由意志からであれ――おこなっているんだ、とでも考えるしかないだろう。生まれないという選択肢もあった。にもかかわらず、そのひとの子として生まれることをあえて選んだのだ。たとえその親から虐待されて死のうとも、世の悲惨さとそれでも生きることのかけがえのなさを、多くのひとと分かち合うために――スピリチュアル系によくみられるこうした考え方は、生まれてあることと、生まれて来なかったこと、言いかえれば「ある」ことと「ない」こととの不釣り合いを、自由意志による選択という「はじまりの物語」で埋め合わせ帳尻を合わせる。この考え方に共感するひとがすくなくないのは、そこに、なぜこの世はかくも理不尽なのかという疑問への答えを見出せるかのようについつい思えてしまうからだ。自由意志にもとづくこの選択は、因果必然による帰結ではない。かと言って偶然の入り込む余地もない。なぜなら神のものであれ人間のそれであれ、自らに因るという意味で必然にも偶然にも当てはまらない第三の意味づけとして、ぼくたちによって要請されたのがほかでもない、自由意志だからだ。その代わり結果は「自己責任」だからね、と。
でも、生まれて来る前の立場にあることなんて、いったい誰にできるんだろう。仮に前世という世界なり時空なりがあったとしよう。そこにおいて、魂か何かである自分自身が選択した結果であろうとなかろうと、生まれて来なければそれはたんに〈無〉なのであって、いかなる立場でもありえないのではないか。百歩譲って「無の立場」というものがそれでもあったとしよう(この主張そのものがすでに矛盾しているが)。そこには、全能の神ですら坐(いま)すことはできまい(坐すとしたら〈無〉とはいえなくなるだろう)。〈無〉のこの絶対性の前では、どんな生であろうと何らかの自発的意志や行為の結果ではなく、つねにすでに現実に生まれてある、というありかた以外に正対のしようがない。ここにデフォルトとしての不公平という思いが根ざすことになる。「生まれて来てよかった/生まれて来なければよかった」と。しかしこうして生じる不公平感には、どのような意味もつけようがない。なぜって、げんに生まれてあるというそのこと自体は、たまさかでしかないのだから。九鬼周造という哲学者は、このたまさかのことを「原始偶然」と呼んだ。だとしたら――そこにどんな意味もつけられないのであれば――公平も不公平もくそもないではないか。むしろ〈無〉が絶対であるなら、なにも「ない」のではなく、何であろうがともかくなにかで「ある」こと、それだけが〈無〉の対極において絶対ではないだろうか。
これに対し、さっきの時間軸のもう片方、左端に示された死が公平だというのは、事実問題というよりむしろ、権利上の話だ。事実のうえでは、ひとはたいてい死が公平であるとは思っていない。それどころかぼくたちは、あまりにも不公平かつ理不尽としか思えない死によって、げんみつにいえばその死にざまによって(死んだらそれきりなのだったら、これまた不公平もくそもない)、この場合なら死ぬまぎわに苦しんだといった理由で、生き残った方はそのひとと一つになって苦しみやかなしみ、恨みつらみ、憎しみといった感情に激しく囚われ、いつまでもそれを自身の中で反芻し、増幅させずにはおれない。
そのわけは、現実のあるとき、ある場所(x)であのひと(a)は死に、このひと(b)は死ななかった、あるいは自分(c)だけが生き残った、という打ち消しがたい事実、そして事実は死ななかったが死んだかもしれない可能性や、死んでしまったがひょっとしたら死なずにすんだかもしれない可能性、これらのどうにもならない思いが付きまとい、いつまでも離脱することができないからだ。事実(f)は厳然としてひとつであろうとも、いや、ひとつであればこそ、それには必ずそうでない可能性(p)がつきまとう。「死に別れるとわかっていたら、彼女に告白しておけばよかった。」「いつもと同じ道を通ってさえいれば、こんな事故になんて遭わずにすんだろうに。」およそひとが抱く後悔の念、トラウマ、ルサンチマンといったあらゆる負の感情の、これが淵源なのである。しかも事実である以上「いまのはドッキリでしたぁ!」「ハイもう一度撮り直し!」などとリセットするわけにはいかない。負の思いは凍結されるか、反芻されるか、増幅される以外に行き場がなくなって、いずれにしても消えることはない。そこで「どっちみち、みんな老いて死ぬことに変わりはないんだ。同じことさ。」と考えたところで、気休めにすらならないだろう。神の審判、因果応報、来世の物語の数々は、かくしていまも、これからもくり返される。
いっそ「せーの!」でみな死んでしまったらどうか。あたりまえの話だが、後で「何であたしたちまで巻き込むのよ!」と文句を言うやつは誰もいない。「後で」なんて時間差はそもそもないのがこの考え方の特徴である。「みんなで死ねば怖くない。」だ。終末論だとか人類滅亡だとか、そんなお話がいつの世にも出回っては消え、消えたと思ったらまた出回り、いつまでもくすぶり続けているのもそのせいだ。これを「死なばもろとも願望」と呼んでおこう。
ただこのアイデアには、誰もが納得するとは限らないという弱点がある。たとえ事実としては公平な結果になった(みな死んでしまった)としても、誰もその事実(人類が滅亡したかどうかという事実)を確かめうる者はいないからだ。抜け駆けする奴がいて事実はちがっていたとしても、そいつ以外にはわからないわけだ。抜け駆けしたってどのみちそのひとも死ぬことに変わりはないのだが、同時に死ぬというこの共時性が、みな横一列、一緒だよという公平感の元になっているのである。
しかし死の公平性は、これらいっさいの〈かなた〉に、いやむしろ手前にあるのでなくてはならない。それは、第一にそもそも比べる相手がいないという意味で、第二に自分の人生の価値を問わないという意味で(どんな人生を送ろうとおかまい〈無〉し)、つまりプラス、マイナスそしてゼロといった判断以前の公平さなので、しいてこれに比べ得るものは、生まれて来なかった可能性だけだ。生まれて来なかったことと死と、この二つは可能性という同じ土俵にあって、さっき〈無〉の絶対性と言ったことつまり、ただひたすら「ない」ことにおいて共通している。
けれど、生まれて来ないことは権利問題になりえない。生まない権利なら持てるかもしれないが、生まれて来ない権利などぼくたちには持ちえない。なぜって、気づいたときにはもう生まれてしまっているのだから(かといって、気づかないときがあるとしたらそれは「ある」のではなく、たんに「ない」だけだ。その「ない」をぼくは〈無〉と呼んでいる)。さっきの人生を真ん中にはさんだ時間軸のたとえでいえば、一方の端である「生まれて来ないこと/来なかったこと」と、もう片方の端である死とは、同じ〈無〉を意味するようでいて、対称の関係にはない。その両方にはさまれた「生まれてあること」がこの二つのいずれに対しても釣り合わないことは、すでに言った。くり返すが、死がじっさいに成就したそのとき、当人にしてみればそれはすでに死でも何でもない。したがって成就するような何ものも存在しない。人生を送っている以上誰にも避けられず、さりとて誰にも経験できない最後のイベントを、死というのだ。これに例外はない。生きてある以上、このイベントにはもれなく参加機会が与えられる。死は万人にとって、いっさい得るものも失うものも「ない」唯一平等に与えられる権利なのである(これが、死は権利問題だと言った一つめの意味だ)。
⒌
フロイトに「子ども時代は、そのものとしては、もうない」ということばがある。
深いことばである。
ぼくらはときに、忘れていた子どものころのエピソードを生々しく憶い出すことがある。けれどそれは、ぼくらが過去の記憶をいま、自身のそれとして再現しているというだけであって、そのものとして経験するわけではない。そのものとは、ぼくら大人にとっての遠近法であらわせば、まさしく子どもというその時空を生きた〈当のもの〉である。けだし、大人になったぼくらにはもはや不可能な経験である。
ひとは誰しも自らの出生に立ち会うことはできない。また、乳幼児期の記憶をそのままにたもつ者もいない。もっともごくたまに、自分の生誕を記憶しているという子どもがいる。ぼくの一人娘もたしか五、六歳のころだったと思うが、「あたしねー、ママからこうやって出てきたの!」と身ぶり手ぶりをまじえて語ったことがある。しかし、やがてそうと語ったこと自体、忘れてしまう。自分が盥につかったときの記憶を大人になってふりかえる三島由紀夫などはレアケースと言っていい。
自らの出生に立会人がいないとは、こういう意味だ。
ぼくが眠りに陥るとき、その「とき」を、ぼくの外部のどのような指標(脳波を測定するとか鼾をかきはじめたとか)にも頼らずに、当のぼく自身によって確定することができるだろうか。寝そべって本を読んでいたら、いつのまにか眠りに落ちていた。ふと気づいたら目が覚めていた。時計を見たら朝の八時だ。いけない、もう遅刻だ……それは、もはやその「とき」ではない。ぼくは「いま眠った」とこうして語ることは自由にできても、じっさいにそう思うことはけっしてできない。そして「目が覚めた」と思ったときにはすでに「眠り」ではない。それゆえぼくは「眠る」という事態が未だにどういうことかよくわからない。なるほど他人が眠ったり起きたりする様子を脳波を見ながら観察したり、その物理的なメカニズムを説明されたりすればそのことは、その観点としては理解できるが、自らの、つまり〈当のもの〉の観点からしたら体験している自身を同時に理解するなど不可能だろう。だからぼくは、何となく眠るということが苦手なのである。というか、本質的に眠れないのである。
その「とき」なんてものが、そもそもあるのだろうか? と問うてもいい。ぼくたちの生はまだ授かっていないこと(「未生」)と逝った後のこと(「死後」)とに前後をはさまれている。前後それぞれの意味するものはいずれも「ない」=〈無〉というしかない径庭だ。だとすればその「とき」は、生とその前後をはさむ〈無〉とを分け隔てる境界にあって、生にも、前後それぞれの〈無〉にも属さない。だって、そんなものがあろうはずがないではないか。ふと気づいたら自分は「生まれていた」ことになっていた。覚醒の場合ならば「目が覚めた」ことになっていた。そうとしか言いようがないではないか。
「死」も「眠り」も、こうしていつのまにか到来している。では出生や覚醒同様、「ふと気づいたらぼくは死んでいた。」「ぼくはいま眠ったばかりだ。」とは語れるだろうか。語ったり想像するだけならこうして誰でもできる。しかしくり返すが、じっさいにそう思うことはけっしてできない。なぜって、これらはぼくたちの経験の外にあるからだ。〈無〉を経験することは誰にもできない。そういいながらも、こうして語ってしまっているではないか、と反論するひともいるだろうか。このときの「こうして」が含意するニュアンスを「超越論的仮象(なんちゃってごっこ)」と呼んでおこう。
ややこしいことを言うつもりはない。「超越論的仮象(なんちゃってごっこ)」とは、けっして到来しないのに、あたかも到来するかのように装うものごとや考え方をいう。だって、何がぼくに到来しているのだろうか。到来って言われても、そいつにともなうものなど何もないではないか。ということはつまり「死」だって「眠り」だって、ぼくに到来することはけっしてない、というべきではないか。ならばこの生も到来しないとはいえないだろうか。それはふと気づいたらはじまっていたのではなく、そもそもはじまりがないのだ。「死」だって「眠り」だって到来しないのであれば、あるのはただこの生だけだろう。この生だけしかないなら、それにはどんな境界も引かれえない。はじまりもなければ終わりもない。この意味で生は永遠であり、永遠の〝いま〟なのである。
とは言ったものの、そうこころから思うひとはあまりいないだろう。時計を見ると、いまは西暦二〇二四年一月五日七時二〇分だ。現時点ではヒトの受精の「とき」までリアルタイムで測定する方法は確立していないかもしれないが、技術的にはいずれ可能だろう。今日でも、脳波や心電図を測定していれば入眠や覚醒の時点はもちろん、死の「とき」だって判断できるはずだ。たとえば脳波の停止を死と定義するならば。ただしそれは、他人の死を観察しての話であることはいうまでもない。にもかかわらず、それはいずれおとずれる自らの死に置きかえられる。客観的世界から突きつけられた外的証拠の存在が、立会人を欠くはずの存在をこの世界の中に客観的かつ相対的に位置づけ直すわけだ。一方に〈当のもの〉という直接性の原理があるとすれば、他方に第三者という観点によって保証される客観的世界の原理がある。世界はこの二つの重ね合いによってできている。
二つの原理のかかわりについて語り出せばきりがないので、とりわけ後者の物理的基盤の上に前者が成り立つという大方の「常識的」な考え方だけ批判しておこう。この考え方は、前者を「心的なもの」と一括りにするあやうい陥穽にひとを誘う。昨今の心身論や心脳論はその典型である。なるほど手を抓られれば痛い。この瞼を開ければモノが見える。しかし後者の立場にとって前者はそもそも実在するはずのない困惑のタネなのだ。なぜなら、後者の原理は前者を物理的因果性の中に定位するところまではあるていど成功しても、その内実、たとえば感覚質、いわゆるクオリアと呼ばれるものもそのひとつであるような内実を与えることまでは、不可能だからである。他方、前者にとって後者は必要条件であるとまではみなせるかもしれないが、十分条件ではありえない。双方を結びつける根拠はただ前者の側に、ほかでもない〈当のもの〉の側にしかないからだ。これは、前者の根拠は客観的世界の原理の中には見出せないということを意味する。西暦二〇二四年一月五日七時二〇分が「いま」であるといえる根拠は、宇宙創成から当該の時点に至るまでのすべてのプロセスのどこにも存在しない。ただ「いま」であるということ、そのこと以外にないのだ。後者の立場からもとうぜん同様の言い方ができる。「いま」が西暦二〇二四年一月五日七時二〇分であるといえる根拠は、ただ客観的世界の原理の中にしかありえない。では「いま」は「心的現象」なのだろうか。そうだとすれば、その内実(心と呼ばれるものの中身)が問われなくてはならない。しかし、問われるような何の内実が存在するだろう。「いま」の内実を問うとしたら、この世界全体が問われなくてはならないだろう。
さて、だいぶ道草をしたが、ぼくが言いたかったことをまとめるとこうだ。〈無〉は経験できない。この意味で、生まれて来ない経験はとうぜん不可能だが、生まれて来る経験は不可能とは言えないだろう。ただ、そこに立会人は原理的にいない。気づいたら生まれていたというだけだ。このたまさかさに選択の余地はないし公平性を求める意味もない。生まれてある、そのことを他人と横並びに比べて何の意味があろう。にもかかわらず、ついそうしてしまうのは、生まれて来ることを生まれて来ないことと縦に紐づけて考えずにはいられないからだ。とうに存在し「ない」過去をふり返って、〈この〉生が存在しなかった可能性に思いを馳せる。それは〈この〉生の価値を問い続けずにいられない無限ループに陥ることになる。
一方、死はどうだろうか。それは生まれて来ないことと〈無〉において同型、つまり経験不可能だ。けれどすでに生まれてしまっている者、そして「いま」を生きる者にとって、その意味は前者とは異なる。生まれて来ないことは、経験不可能性によってそのひとに過去を向かせ、自身の生の価値を問わせる。これに対し、死は同じ経験不可能性でも、また、死なない可能性によってでもなく、いずれ必ず現実に直面しなくてはならず、直面したとたん〈この〉生は根こそぎ〈無〉に帰する、このことによって未来を向かせるのである。死というイベントには立会人どころか当事者、〈当のもの〉が存在しない。このため「当人にしてみれば」という観点もまた無効化される。あるいはそのような観点の〈かなた〉にある。いや「ない」というべきだろう。このような〈かなた〉性、いっさいの紐づけから断ち切られることこそが、〈この〉生を往く誰にとってもひとしく与えられる権利としての「死の公平性」のもう一つの意味である。それゆえ、それは〈この〉生の価値を問うたりはしないのだった。価値それ自体の〈かなた〉にそれはあるからだ。
さて、〈この〉生を前後にはさんだ同じ〈無〉にそのようなニュアンスの差異をもたらすのが、時間という不可解な存在である。過去・現在・未来という、時間に特有のこの不可逆性・非対称性はぼくたちという存在と切り離すことができない。時間を条件づけるのは、過去と未来という一方は過ぎ去り、他方は未だ生じないという意味での二つの〈無〉ではない。あくまでも「いま」、すなわちぼくたちの〈この〉生の方なのだ。ほかでもない、〈この〉生が〈無〉を二分し自らの前後に割り振ることによって――過去や未来というジレンマにみちた概念とともに――自らとともに立ち上げたのが、時間なのである。
*無としての死をテーマにしたすぐれた論考に、哲学者・入不二基義のものがある。とりわけ「「私の死」と「時間の二原理」(山口大学 時間学研究 第3巻 一七~三〇頁、二〇〇九年九月)」および「問いを問う」(ちくま新書)」第五章「死んだら無になるのか、それとも何かが残るのか?」の二つは、本文の⒋および⒌に相当する内容を、精密な論理のことばで語っている。一方、筆者は死にゆく者(へ)の〈寓話〉として語っているのである。入不二への批判はいまはひかえ、この哲学者へのリスペクトとして掲げておく。ご興味のある読者は、ぜひ読み比べていただきたい。
⒍
そんなわけで、げんに生きているひとが死に対してさまざまな想像や解釈を積み重ねるのは、気持ちはわかるしそのひとの自由だが、気休め以外なんの意味も「ない」物語にすぎない。だから、さらにその先のこと――「その先」なんてありはし「ない」のだが――つまり「死後の世界」のことまであれこれ思い描いたり期待や希望を抱いたりするのは、およそ考えるに値しないばかりか、人心を惑わす迷妄というべきではないか。
だってそうだろう? 「この世」でもさんざんだったのに、「あの世」でも裁きを受けたり、煉獄の火に焼かれたり、生まれ変わって新たな生を往く。あるいは好き放題やりまくっておいて、天国で永遠の安らぎを与えられる。それとも地獄の業苦か。もういい。「この世」と「あの世」でプラマイゼロ。たくさんだ。そんなやりくり算段、帳尻合わせはもうけっこう。そうは思わないか。
ひどいのは輪廻転生ってやつだ。アジア圏の多くの篤信のひとたちには悪いが、これは霊魂不滅を信奉するひとにとって、なおさら救いがたい考え方だと思う。なぜって、この考え方はひとの生がはらんでいる、けっして棄て去ってはならないものを「因果応報」だとか「有情無情、すべては互いにつながっている」といった意味ありげなオブラートで包みながら、根こそぎ剥奪していくからである。ぼくが誰の生まれ変わりで、次の世はどこで何に生まれ変わろうが、どうでもいいではないか。昔流行ったTVドラマ「木枯し紋次郎」のセリフを借りて「あっしにゃかかわりのねェことでござんす」と言いたくなる。転生するというなら、そこに同一不変の何かがなくてはなるまい。が、それは一体どこの誰だというんだ。霊魂? 真我あるいはアートマン? 百歩譲って、ほんとうの自分ってヤツがぼくの中のどこかにひそんでいるのだとしよう。この手の物語は何かと応用がきく。ここに次から次へと不幸やトラブルに巻き込まれ、心がすっかり折れてしまって、生きる希望をことごとく失ったひとがいるとしよう。そんなひとにも生まれてこのかた、ずっと自分を見守ってくれていた天使か聖人か守護霊がいて、そのひとにこう語りかける。「何をめげているんだい? それもこれも、きみが自分で選んだ道じゃないか。わざわざ進んで紆余曲折、山あり谷ありの道を選んだのは君だろ。ほかでもない、きみ自身が架けたハシゴを上がるためじゃなかったのかい?」と。
なるほど、自ら望んだ結果なら文句のつけようもない。こうした意味ありげなお話が、ぼくたちが生きるうえでときに必要なこともわからなくはない。けれど、そのほんとうの自分ってヤツはいったい何様だというのか。そいつがぼくの本体だとしたら、〈この〉ぼくはそいつの僕か、はたまた仮面か影か。まあ何だってけっこう。そいつはいま、げんにこうしてあるぼくではないじゃないか。愛するひとや家族と過ごした、二度とふたたび戻らないあの永遠の時でもないではないか。「あの永遠の時」と言ったけれど、それはいま〈この〉時以外のどんな時でありえようか。ぼくは〈この〉ぼくのほかに、何を生きうるっていうんだ?
もうひとつ、どうも気に喰わないのが「宇宙の法則」やら「天の則」やらにしたがって生きよ、という「賢者」たちの格言めいたものである。言わんとすることはわかる。ごもっともだとも思う。ぼくたちは何がよいことでなにが悪いことか、なにが自然で何が不自然なことか、何が大切でそうでないかを、どういうわけか小っちゃい子どもでさえ弁えている。自分がなにか大いなる存在につながり、一体になっているという感覚。その大いなる存在に自分が丸ごと受け容れられ、許されているという感情。自分はちゃんと正しい道にしたがっているのだという、ちょっぴり胸を張りたくなるような心持ち。それらは聖人でないぼくたちにはそうそうおとずれはしないが、極上のワインやスープみたいにほんのちょろっと味わうだけで、もう天に昇るかのように心地よくなるものだ。癒されたり救われた気分になるのもそんなときだ。よいこと、自然なこと、こころから気持ちのいいことは、誰だってほんとうは望んでいる。
けれど「宇宙の法則」にしたがうのがいちばんよいことなら、動物たちでも木々でも石ころでも、人間以外の森羅万象、あらゆる存在は、みなはじめからそうではないか。どうして人間だけが(人間だけかどうかほんとうはわからないけれど)それから外れ、迷い、望んでもいないはずのことを欲し、負わなくてもいい苦しみを嘗めるのか。魂、磨こうとてか。強いひとはそれでもいい。でもぼくを含めて多くのひとは、もっぱら自分の弱さゆえに身をもち崩し、進んで堕ちてゆく。それを自由意志といったり自業自得といったり、だから輪廻して永久にさまようのだと、にべもなく片付けられては、どうにもやるせないとは思わないか。
賢いひとたちは、こうのたまう。
「しまいはみな成仏するんだよ。」
「ひとはいつか天界へ至るよう定められているんだ。」
「いいかい、すべては偶然じゃない。何ごとにもちゃんと深い意味があるのだよ。不幸も苦しみも、魂が成長するためのプロセスなんだ。」
そんなこと言われたって、すべてお見通しという方々はそれで結構かもしれないが、ただの凡人でしかないぼくにとっては、ただハシゴを外され、はぐらかされているとしか思えないではないか。
生きる限りは誰しも背負わざるをえない宿業や宿痾。おのれの弱さみにくさ。出口のない愛憎。尽きることのない執着。無念の思い。やくたいもない日常のくり返し。それらを否定したり、霧消させようとしたりせずに、どうして苦しみかなしみそのままに肯じることができないのか。もしも〈この〉生に意味があるとするなら、あの世になどあろうはずがない。なぜ時を先送りして、〈この〉生が尽きた果ての、さらに向こう側にまで意味を求め続けなくてはならないのか。いま〈この〉場所の他に、このどうにも救いようのない無明の場所の他に、どこにそれはあるというのか。
この煩悩を、このどうにもならない無力さを、とうてい救いがたい生を、それゆえに尊ぼうではないか。精いっぱい愛しもうではないか。「この悲惨は本物である。だから慈しまれなくてはならない。」シモーヌ・ヴェイユ* はそう言った。なぜ「だから」と彼女はわざわざ順接表現を用いたのか。ぼくが代わって答えよう――ほかでもない、それら煩悩や悲惨によってこそぼくたちは、ぼくたちの生はあるからだ。
*「重力と恩寵」一七二頁、冨原眞弓訳、岩波文庫。シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)はフランスの思想家。兄は数学者のアンドレ・ヴェイユ。かれが創設メンバーでもあるブルバキは、二〇世紀の数学に大きな影響を与えた。
(第02回 了)
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