人は必ず死ぬ。善人も悪人も富める者も貧しき者もいずれ必ず死ぬ。死んだらそれきり。それは無。だが無とは何か。語り得ぬ、経験し得ぬ無とは何か。無である死が不可知なら、死を巡るあらゆる物語は棄却される・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第二弾。
by 金魚屋編集部
1.
死んだらそれきり。
それがいちばんよいのではないか。
ぼくはそう思う。
ぼくだけではあるまい。
ゆるぎない信仰や死生観など持っていないし、持ちようもないいまどきの多くの人びと、わけても多くの日本人は「いずれお迎えが来るから。」などと言いながら、とりたてて何か期待するわけでもなく希望も恐怖すらもなく、ただ漠然とそう思って過ごしているのではないだろうか。
でも、ちょっと考えてみるとこれは、けっこうつらいことだ。
どんなに苦しい目にあっても、やりたい放題好き放題、勝手気ままに暮らしても、善人でも悪人でも、大金持ちでもホームレスでも、死ぬときはひとりきり、死ねばそれっきり、あとは何も「ない」のである。
日本人はよく無宗教と言われる。
無神論者という意味ではない。日本人に無神論者などいたためしがない。そうではなく、自分にはとくに決まった宗教も信仰もない、そんなの考えたことさえない、といいながら年が改まれば神社へ詣でるし、盆やお彼岸には墓参りに行くという、おどろくべき習性をもつ大多数の日本人を指して言うのだ。「死んだら千の風になるゥ~」などと珍妙な歌を口ずさむ者までいる。そのひとはただ死を考えたくないために韜晦し、ぼやかしているのだろうか。それとも、何も考えなくてすむにはちょうどいい気休めが歌なのだろうか。まあぼくも日本人のひとりではあるのだけど、何が何やらわけがわからない。
死んだらそれきり。
このことの意味を、あなたは一度でもマジメに考えてみたことがあるだろうか。独りで死んでいくなんてイヤだなあ、と思ったことくらいはあるだろうか。あなたにずっと連れ添ってくれて、これからも死ぬまで一緒だよと言ってくれる伴侶や連れ合いがいたとしよう。いま生きているあなたにとってそれは幸せなことだろうと思うし、きっとあなたが死ぬときまで大いに心強いにちがいない。けれどいよいよというとき、その相手はあなたの身代わりになって死んでくれるだろうか。いや、身代わりになってくれようとくれまいと何のかかわりもない。けっきょく死ぬのはあなたなのだから。ほかでもない、あなたが死ぬのである。そしてあなたは風になるわけではないし(なってどうだというのか)、ホトケ様になれるわけでもない(なれたからってそれが何だというのか)。それっきりである。あとは何もない。何ひとつ「ない」のだ。
⒉
誤解のないよう言っておこう。これは、あなたが死んだ後には何も残らない、という意味ではない。自分が死んだら世界も同時に消滅すると考えるひとがいる一方、自分ひとり死んだって世界は何ひとつ変わりはしないと考えるひともいる。後者の方が多数派だとは思うが、どちらの考えも誤りではない。双方は矛盾対立するというより、ぼくたちはふだん自分と相容れない者の立場を行ったり来たりしながら世の中を生きている。前者でいえば世界とは、自分とともにある、あるいは自分そのものである世界を意味するので、このとき世界はたしかに何か重要なものを失うのである。賛否は別として、ぼくたちはそのように他人の立場でものを考えることができる。このような往復をくり返すことでぼくたちは世界や、自分と他人という概念を知らず知らず身につけているのだ。
そんな話をしているのではない。自分が死んだ後で何が残ろうとも、何ひとつ残らなくても、どうでもいいことではないか、とぼくは言いたいのだ。残ったところで「後は野となれ山となれ」だ。それはあなたが見たり聞いたり手にしたりできるわけではないのだから。
あなたはこう思うだろうか、「きみの言うとおり、ほんとうに死んだらそれきりだとしよう。ならば、その時が来るまでは自分の欲するまま、好きなように生きるのが一番幸せなんじゃないか」と。
あなたの主張はある意味正しい。けれども世の中そうは問屋がおろさない。欲と二人づれではそうそう生きられないようこの世はできている。欲を掻いて失敗する者の何と多いことだろう。得をするやつがいれば必ず損をする者がいる。中にはあえて損をしたり、他人の幸福のために自分を犠牲にするのが一番の生きがいだというひともいる。だが同じことだ。損得や運不運は自分の意志や努力だけでは決まらない。損得勘定だけで生きているというひとだって、他人の幸不幸には無関心でいられなかったりする。自分の幸不幸しか考えたことがないというひとでも、この世は何と不公平にできているのだろうと、義憤をおぼえることさえある。ひとの一生、山あり谷あり。そうこうするうちに光陰何とやら、はや人生も尽きる。
そこで「あの世」があるというわけだ。
「この世」ではどうしても報われない。このままでは死んでも死にきれない。そんな思いを抱くひとは数えきれない。そんな多くのひとたちのために、はるか昔に誰ということもなく考え出されたのが「あの世」である。運不運はあろうとも、理不尽な目に遭おうとも相応の報いというものがある。それが天国と地獄というわけだ。「因果応報」は誰にでも公平に与えられ、必ずや成就する。このような考え方は、報われない多くの人びとがいる限り、そうそう手放すことができない。
すると「あの世」に重きをおくあまり、「この世」にいる間に「善行」をストックしておけ、だとか、「この世」に報いを求めてはならないなどと説くストイックというよりイソップ寓話の「キリギリス」に対する「アリ」のようなひとが必ず出てくる。「あの世」からみれば「この世」がどんなに悲惨であっても不幸であっても、それにはちゃんと深い意味があるんだよとそのひとは言う。「きみだって、いつかわかる時が来るよ。」そう固く信じるひとたちからしてみれば、死んだらそれきりではせっかく貯めた預金を失うようなもので、とてもやりきれまい。
もっとつらいのは、最愛のひとに先立たれた家族や恋人や友だろう。それも不慮の事故や事件に巻き込まれ理不尽に命を奪われたりすると、なおさらだ。そのひとたちにとって文字どおり永遠の訣別となる「それっきり」の死は、とうてい受け容れがたいだろう。死が当惑と悲痛にみちたできごとであるのは、それがいつだって「蚊帳の外」からしか、うかがい知れないからだ。
⒊
死は誰もが経験する。じっさいこれまでの人類の歴史をとってみても、数百億人か数千億人か知らないが、どれほどの人間が死を迎えては去って行ったことか。そんなごくあたりまえの事実はみな承知しているつもりでも、身近な者が先立つのを目の当たりにしようとも、いざ自分が死ぬとなれば、ためらわれたり、恐怖に駆られたりする。なぜか。自分の死だけは、自分しか経験できないからだ。しかも後にも先にもただ一度きり、そして経験したその瞬間、いっさいが終わるからだ。
おわかりだろうか。ぼくたちは生きている。生きている以上、とうぜんながら死なない限りは、つまり「死ぬ」という経験を身をもってしない限りは、それがじっさいどういうことなのか、ほんとうの意味はわからない。ところが、いざ死んでしまったらどうなるか。死者にとって、死という経験をふり返るなどできはしない。ふり返るどころか、そもそも死は誰にも経験できないのだ。え、何だって? きみはついさっき「死は誰もが経験する」と言ったばかりじゃないか。
非難するのは少々待ってほしい。経験すると言ったのは、他人の死であって自分自身ではない。それも正しくは、他人の死を伝え知ったり、目の当たりにするという経験だ。もし自らの死を経験できるというなら、それはじつは死んだのではなく、生きているということではないか。ぼくは「死者にとって」とあたりまえのように語ったけれど、じつは「死者」なんていう存在や立場など、ありはしないのだ。よく「死者」が動いたり口をきいたりするゾンビのお話や、自らの「死後の体験」を語るひとたちがいる。おかしな話である。そのひとは「死後の世界」から蘇ったのではない。たんに死ななかっただけだ。「死人に口なし」と言われるとおりである。死に証言者はありえない。ひるがえして言えば、およそ証言者がありえないできごと、それが死なのだ。
ここまでムズムズしながら読んでおられたひともおられるにちがいない。きみの言うことはやはり矛盾している。「死は誰にも経験できない」というなら、死んだらそれきりかどうかなんて、それこそ誰にもわからないじゃないか、と。もちろんそうだ。わかりはしない。それっきりで証言者もいないのだったら、誰も判断だってできっこない。だからなおさら、さっきからそれっきりだと言っているのだ。
では仮に、死んで肉体だけが消え、魂のような何らかの意識体だけがとどまっていたとしよう。ぼくは、それを死と呼んでいいのか大いに疑問に思っているのだ。それでいいのか、と言いたいのだ。理由はおいおい話そう。
ともあれ自分自身が経験できない以上、まして他人の死を当人として経験できようはずもない。したがって経験を共有することだってできない。死とは究極の「ひとごと」なのだ。数百億人だろうと数千億人だろうと、どんなにひとの死が目撃され語られ続けてきたところで、死を経験した者は有史以来、誰ひとりいないのである。
しかも死に臨んで正対する〈当のもの〉は世界でたったひとり、この自分しかいない。これこそ、まことにおどろくべきことではないだろうか。死に臨むときはみなそれぞれ独りだというつまらぬ意味で言っているのではない。じっさい世界で自分以外の誰が〈これ〉に正対しうるというのか。だから、われこそがラスボスだ、死ねばこの世界も消滅するのだという考えが一定の説得力をもつのである。
(第01回 了)
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*『〈寓話〉死んだらそれきり。』は24日にアップされます。
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