<人は必ず死ぬ。善人も悪人も富める者も貧しき者もいずれ必ず死ぬ。死んだらそれきり。それは無。だが無とは何か。語り得ぬ、経験し得ぬ無とは何か。無である死が不可知なら、死を巡るあらゆる物語は棄却される・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第二弾。
by 金魚屋編集部
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順風満帆、まどかに満ち足りた人生を送るひとがいる。紆余曲折・艱難辛苦、最後はハッピーエンドで幕を閉じるひともいる。逆もある。なぜかくも酷い目にあわなくてはならないのか。世の中を、すべての人間を、存在するなら神を、呪わずにはおれない悲惨な運命をたどるひとは尽きることがない。しかもどのみち人びとは「忘却の穴」に永久に封じ込められる。「忘却の穴」――ハンナ・アーレントのよく知られたこのことば* を、ぼくは特定の忌まわしき歴史についてだけではなく、およそ人間存在というそのありかたに、言いかえれば歴史というもののありようそのものについて用いたい。過去とは、歴史とはもとより「忘却の穴」によって出来ているのだと。歴史という名の下に無数の物語がつむがれてきたのは、よかれあしかれ、忘却それ自体を忘れるためではないのか、と。
*ハンナ・アーレント(1906-1975)はドイツ系ユダヤ人の政治思想家。「忘却の穴」は彼女の代表作のひとつ「全体主義の起源」(邦訳はみすず書房より刊行)でナチスのホロコーストを形容した語。
身近な例はいくらでもある。認知症に陥るひともそうだ。このひとたちは症状が進むにつれ、忘れてしまったこと自体忘れてしまう。だがそれを悲惨とばかり思うのは、ぼくたちが忘却の意味をよくよく胸に刻んでいないからだ。そのひとにとってみれば、えてしてそれがさいわいでもあるのだから。忘却とは、忘れるよう切に望まれたことと、けっして忘れられず、かつ忘れ去られてはならないこととが、お互いを包み込もうとして生じる稜線上の雲である。しばしば前者がまさるゆえ、雲はたいてい厚く垂れ込めているが、晴れ間が見えることもときたまある。雲の下には、こよなく美しい嶺々とゆたかな森や渓が息づいている。けれど本人も含めて誰もそれに気づかない。気づくことができるのは、ただ一瞬の晴れ間に立ち会うことができた幸運な隣人だけだ。忘却にこそ、そのひとの生がひそかに証しされている。かれには悲惨と幸福、悲劇と喜劇がともにあるのだ。
ひとの一生には、絶対の「相」あるいは「座」とでも言うしかないなにかがある。それに比べられる何ものもなく、その重量に耐えうるものはそれ自身のほかになく、他に誰ひとり代わることも担うこともできない。そのひとという「座」に、これ以上どんな価値を加えたり減らしたりする必要があろう? そんなひとの一生をプラスマイナスの価値ではかり、ここにはない他のもので担保し埋め合わせる。もしくは先送りにする。そのようなすべての考え方を、ぼくはフョードル・ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の主人公のひとり、イヴァンとともに拒否したい。――虐待され殺められた幼な子たちの魂とともに。
シモーヌ・ヴェイユもぼくと同じことを考えていたらしい。こう言っている。
「カラマーゾフの兄弟」のイワンの言説。「たとえこの巨大な構築物が最高にすばらしい驚異をもたらすために、たったひとりの子どものたった一滴の涙という代償しかいらないとしても、ぼくはね、そんな代償を払うことを拒絶する」。
わたしはこの感情を全面的に支持する。ひとりの子どもが流す一滴の涙を埋めあわせると称するいかなる理由も、わたしにこの子の涙を受けいれさせることはできない。およそ知性が構想しうるいかなる理由をもってしても。たったひとつの例外は、超本性的な愛によらずには理解できぬ理由、神がそれを欲したという理由だ。このためなら、わたしはひとりの子どもの一滴の涙どころか、悪そのものでしかない世界をすら受けいれる。
(シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」一三八頁、冨原眞弓訳、岩波文庫)
しかしぼくは、引用した文の最後、「たったひとつの例外は、超本性的な愛によらずには理解できぬ理由、神がそれを欲したという理由だ。」という箇所で、彼女と袂を分かつ。なぜならイヴァンの抗議は、ぼくたちに対して圧倒的優位に立つ神(何しろ一方は全知全能、他方ぼくたちはその被造物にすぎないのだから)に唯一、対等に主張できる権利を有するからだ。その理由はほかでもない、シモーヌ自身が別のところに書いている。「在ったことをなかったことにするのは、神にもできない。創造が放棄であることを示す、これにまさる証左があろうか」と。(「ヴェイユの言葉」七〇頁、冨原眞弓訳、岩波文庫)
信仰ゆえに例外を認めたシモーヌと、信仰ゆえにイヴァンをつうじて抗議の存在論的弁証を神に対して挑んだドストエフスキーとの分岐点がここにある。「全面的に支持」すべきなのは「この感情」ではなく、シモーヌのことばに接木するなら「在ったこと」の絶対性にもとづく弁証なのだ。なるほど「創造が放棄」であるのは認めよう。しかし、神にはいわば「創造責任」がある、とイヴァン=ドストエフスキーは主張しているのだ。かれらの主張は、この弁証において信仰にけっして劣らないのである。
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死んだらそれきり。
それは、天国と地獄、審判、輪廻転生などという、よくよく考えれば人心を惑わすだけの死生観に比べれば、まだましな考えではないだろうか。
なぜなら〈無〉としての死は、いっさいの価値、いっさいの物語からの絶対的な解放であるから(とうぜんながら、そのような「解放」という物語からもだ)。
泣いても笑っても、かなしみもよろこびも、恐れも安らぎも、苦しみも愉しみも、痛みも快さも、諦めも望みも、迷いも悟りも、闇も光も、さらには「死んだらあとはただの〈無〉」というこの思い自体も、ひとたび〈無〉の当事者になったとたん、そのまま滅する。〈無〉はそのようないっさいの思いや経験やことばの〈かなた〉に、いっさいの「ある」ことの裏側にひかえているのだ。「裏側」というのは、何らかの場所ではない。そもそも存在しないものに与えられる場所などないという意味だ。それは表に出てはならないし、出ることもできない。しかし誰の背中にもべったりと貼り付いて離れない。
いや、これも適切な言い方ではない。〈無〉としての死が、誰ひとり避けられない普遍的なステージであるとしたらどうか。「普遍的」とは、どんな世界においても成り立つという意味だ。これを論理学では「貫世界同定」というが、これは死の存在しない可能世界はないだとか、死んだら無でない可能世界はないと主張しているわけではない。そのような世界があろうとなかろうと、〈無〉としての死にあっては、誰ひとりその当事者にも証言者にもなりえないと言っているのだ。そもそも〈無〉が成就されることなど、ありえないのだから。「ない」ことそのことが「ない」のだから。「表側」からみれば、ただただ「ある」のみ。これっきりのこの生のみ。
それだけだ。だから、
死んだらそれきり。とはかりそめの言い方でしかない。ほんとうは死というステージなど端から存在しない。それどころか死などというもの自体、存在しない。死とは、できごとに付けられた名ではない。それより先へは進めない、この世界のへりにある墓標の呼び名であり、お釈迦様の掌の先なのだ。
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「死生観というものは、ひとそれぞれでいいではないか。」
「真実はただひとつでなくてはならない。」
そんな反論が聴こえてくるようだ。否。そういう問題ではないのだ。ぼくは「めいめいがよければ、それでもういいじゃないか。」だとか「ほんとうはこうなんだよ。」という話をしているのではない。
ひとはパンのみにて生くるに非ず。ひとが生きるには物語が必要だ――これまた真実にちがいない。〈無〉もこうして語ってしまえば、物語のひとつにすぎまい。
そうではないのだ。
〈無〉は「物語のひとつにすぎない」世界も、また「ただひとつのほんとう」の世界をも突き抜けてしまっている――とこう語りながら、またしても物語の中へと囲い込んでみたところで、自分の前に出来る影をひたすら追い続けるようなもの、追いかけても追いかけても追いつきはしない。それゆえぼくは、こうして語ってはいるが、じつは〈無〉について語っているのではない。
ぼくは、ひとの生について語っているだけだ。
こうした考えをぼくはゼロの理念もしくは、理念のゼロと呼びたい。
ぼくたちのこの世界の真ん中に、すべての物語のど真ん中に――底無し穴がポッカリ開いている。示すことも、埋めることもできないその〈無〉という穴を、それでもなお〈かなた〉を指すかのように指さして「ゼロ」と呼ぶのである。
誰にでもおとずれる〈かなた〉。それでいて、誰ひとり到達できない〈かなた〉――それが死である。
とうてい救いようのない絶望に身動きもできず、呼吸すらままならない多くのひとたちにとって、それは残された最後の賭けであり、比類なくリアルでありながら、かつどこにもありえないただひとつの「ユートピア」でありうるだろう。そしてまた、それ以外の何ものでも「ない」。
こう言うと「それならさっさと死んじゃえばいいじゃん」というひとが必ず出てくる。そう思うひとは、ぼくがここまで言ってきたことをくり返し読み直してほしい。どうせ死ぬか死なせるつもりなら、それくらい時間を割いてくれたって損はないだろう。ぼくは「もう自分には生きる価値はない、とっとと死にたい」とか「こんな自分は、あるいはこんなヤツは死んだほうがよほど世の中のためだ」と思うひとの自己否定あるいは他者否定(肯定でももちろん同じことだ)という価値判断の向こう側に、あらゆる価値と物語に翻弄されるこの世界の〈かなた〉に、ありえない「ユートピア」が――ありえないからこそ「ユートピア」なのだが――開けていると言っているのだ。もちろん誰にも見えも聴こえもしない。それでも、そうと腑に落ちれば「死にたい、死ねばいい」などという思いには何の意味もないと得心できるだろう。そんなすべての思いの〈かなた〉のことを、ぼくは言っているのだから。
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〈かなた〉というこの考えはさらに、ブーメランのように自らの側へと帰って来て、あらたな思いをみちびくだろう。生きてあるということ。このことは、身も蓋もなくひたすら平々凡々な日々を送ろうとも、曲折浮沈、道なき峻険な山奥を迷いながら往こうとも、呪うばかりの惨憺たる苦海に沈もうとも、そのこと自体奇蹟と呼ぶほかないような、とんでもない僥倖ではないのか、と。
ひょっとしたら創造の神は、「ある」というこのこと以上の奇蹟をさらに生み出せるかもしれない。しかし、ぼくたちはそれを経験することなどできないだろう。また必要もない(ということは、それはぼくたちにとって奇蹟ではない)。
たとえどんな生であろうともかまわない、たまさかこの時と場所に自分はこうして与えられ、贈られてある。これがすべてではないか。何ひとつ過不足などありはしないではないか。いまここがそのまま〈かなた〉ではないのか。そして――それっきりだ。
死んだらそれきり。
ぼくは、これがただひとつの極北の死生観だなどと主張するつもりはない。まして他人(ひと)に押しつけるつもりもない。ただ、ぼくの知っている他のどんな考えよりも多少はましだ、と言いたいだけだ。
この考えは、こなたも〈かなた〉もつらぬき通す一本の矢となってきっと誰かの胸に深く刺さることだろう。もちろん世の思想やら宗教やらが、これよりましな考えを示せるというのなら、ぼくはそれを大いに歓迎しよう。
(第03回 了)
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*『〈寓話〉死んだらそれきり。』は24日にアップされます。
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